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文明批判と美と心の探求と

そんな「ステンドグラス」としての美の世界ー壱 「光の藝術」としての「ステンドグラス」ー

そんな「ステンドグラス」としての美の世界ー壱 「光の藝術」としての「ステンドグラス」ー

 

 

 

 

さてわたくしは美しいものが大好きである。

美しいものが大好きな人は結構多いことかとさう思われ其れも考えてみれば例えば藝術家などは皆ひとかどの審美眼の持ち主ばかりなのだらう。

 

でも自分もまた其のクラスでの目利きには決して負けないぞ。

自分はさうして半分は藝術家であり鋭い審美眼を持ち合わせる人間なのだ。

 

だがそんな美しいものは本質的には錯誤であり且つ幻想であるに過ぎぬ。

とあくまで哲學的にはさう規定され自分はまた其の哲學の方もやれるのでほんたうは美しいものを美しいものとして愛でることにも何処か疑問がある。

 

だがまあ其れを言えば此の世の壱切はそんな「疑問」ばかりである。

 

ところがわたくしの場合はそんな疑惑に満ちた眼差しでもって猶も其の「美其のもの」に寄り沿おうとして居るのだからつまりは年季の入ったまた常なる段階を超越する形での美を対象とする壱介の美學者であり壱詩人なのだ。

 

常にさうして自分は「美其のもの」を此の手に是非掴み取りたい。

ところが其の美とはそも何であるのかがまるで分からない。

 

其れは色なのか其れとも匂いなのかまた清い人間の心なのか。

 

だがそんな清い人間の心の方は御釈迦様とイエス様に是非お任せして置くべきものなのだらう。

とすればとりあえず美とは具象的なる世界のものでありしかも色が付いたものとなる。

 

 

また其の色をより純粋に樂しむことが可能であるのは光其のものによる色の世界のことである。

 

例えば💎を光に翳すとまさに文句無しに美しい。

文句無しと云うことは要するに概念以前、言語以前の段階で其れが成立する美の世界であることをこそ指し示して居る。

 

そんな概念世界また言語世界には現在左程自分は美を感じて居らずより具象的に遡及されるだらう光の世界にこそ其れを感じうち興ずる。

より具體的に其のことを言えば要するに光其のものでありそんな光の遊戯の中にこそあらゆる美の形は保存され且つ補填され得る。

 

其のことを逆に申せば光の無いところに美は無く光有るところにこそ美は自ずと生ずる。

 

左様に光が世のなべてを透かし映し出す。

さうあらゆるものは其の光なる神に見透かされた上での幻燈の宴なのだ。

 

嗚呼そんな戯れの宴ぞ。

戯れに戯れる倒錯の宴ぞ。

 

 

詩人だなあ。

へッ?

 

詩人だなあ、またおめえはよ。

へい其の通りに詩人で御座りますが何か御用で?

 

別に用はネエだよ。

だが君はまたこんな師走に何をやっとるの?

 

何もやって居らずかうして光の美の余韻にしかと浸って居りますのです。

其れも其れこそやることダラケなのですがそんな中にあえて暇をみつけ其の中にドップリと浸かりこんな「夢」を見続けて居ります。

 

あーあ、ヤッパシ詩人はどんな役にも立たんのう。

壱刻も早う壱円でも稼いで來たらどうだ、此のデクノボーめが。

 

だからそも藝術は金にならんので所謂金蔓としての「パトロン」がどうしても必要なんだ!

さうか、確かに君は美を求めてやまぬ藝術家の壱人だらうがかの大TOYOTAはまさか君の「パトロン」になんぞなる筈がネエ。

 

ガックリ…。

 

 

さてわたくしは美しいものが好きで特に色鮮やかな光の藝術の如きものには實際目が無いと來てる。

だからなのか以前は万年筆用の色インクを常に五拾色程も揃え其れを其れ其れの🖋に入れ筆跡に於ける色合いの變化を樂しんで居たりもした。

 

また其れ其れのインク瓶に陽の光が当たるとまさに其れが大層美しい。

わたくしに取り美とはそんな「具象的に限定」されるものであり其れは正義感だの信仰心だのさうしたものの美しさとはまるで異なるものなのだ。

 

即ち「美」とは「現象の美」であり煎じ詰めれば其れは「物の美」のことなのだ。

「物の美」とは自分の内面とは無関係に其処に拡がるもののことである。

 

まさに其れは「自然の摂理」のやうなものでこちらの気分が鬱状態であれ躁状態であれ變わることなく其処でもって不變の輝きを放つ。

わたくしが美的追求の俎上とするのはむしろそんな「観念を離れる」美のことでありつまりは「言語以前」での美の有様のことに他ならぬ。

 

 

其の種の光の美には例えばステンドグラスなるものがありまずは其れなどが自分は好きである。

 

例えばこんな師走には其のステンドグラスだのイルミネーションだの其の種の光る色合いのものが兎に角無性に恋しくもなる。

かってー弐拾年程前かーはクリスマスの前位に瑞穂区昭和区の豪邸街でもってイルミネーション合戦が繰り広げられて居りー岳見町だの南山町だのでー其れを観にワザワザ車でもって出向いたりもして居たものであった。

 

また我が家の傍でもいまだにそんなイルミネーションをやって居るところがあり其処へ出向けばー150米程南ー少しは其の光の藝術を樂しむことなども可能である。

 

故に其のステンドグラスだのイルミネーションだのと云うものは基本的に西洋由来のものでとどのつまりはクリスト教に由來するところのものであらう。

とどのつまりは教會のステンドグラスこそがまさに其れ等の大元を占めるものなのではなからうか。

 

 

茜屋 | VISIT鞆の浦 (visittomonoura.com)

 

ところで先日TVを視て居たらこちらのことが紹介されて居て「ステンドグラス」って良いなと改めてさう思わされたのである。

尤も「ステンドグラス」に大きく興味はあっても其れらしきものは何も持って居ない。

 

即ち「ステンドグラス」や「イルミネーション」など無くとも實は「石」が其のステンドグラスやイルミネーションの代わりを務めるのである。

「石」でも無論のこと道端の石では無いぞ。

 

💎だ、其の💎鉱物。

其れを陽の光に翳せば即「ステンドグラス」ぞ。

 

また夜ライトでもって其れを照らせば即「イルミネーション」ぞ。

あー、なんなら今やってみるか。

 

パチッ。

ん?光が弱い。

 

では強力ライトで…。

うわあー、すげえ。

 

特にゴールデン・ベリルー六センチ位もある巨晶ーの此の輝き方は!!

うわあー、こんな緑光エメラルドの巨晶が!また紅光ルビーの巨晶が!

 

おわあー、埼玉県産の黄色い柘榴石の輝きがー!!!

其れにアパタイトの怪しい靑い光が!!

 

ほれ見よ、もはや此れ以上の「イルミネーション」など此の世に有りはせん。

だから「イルミネーション」は机上の石によるものがむしろ壱番綺麗である。

 

さらに言えば筆記具などもまた存外に色とりどりであえて其れを照らしてみると意外と光輝いて綺麗である。

すると「ステンドグラス」なんぞもう要らんのでは?

 

要らんと言えば要らんが「ステンドグラス」は「自然物」では無く「藝術作品」により近いだらう所謂「工芸藝術」での範疇のものだらう。

 

 

秋きらめくステンドグラス 移ろう表情も魅力の10選 - 日本経済新聞 (nikkei.com)

ステンドグラス[マンマユート便り Vol.13] - 三鷹の森ジブリ美術館 (ghibli-museum.jp)

 

兎に角「ステンドグラス」もまた「光の藝術」です。

光とは本質的には「神」なるものに連なり其れは壱神教の神であらうが天照大御神であらうがまた大日如來であれ兎に角世界中に普遍化し信仰されるものでせう。

 

つまるところまさに其の「光」こそが「神」其のものです。

故に「ステンドグラス」もまた「石」もさらには人工の光である「イルミネーション」にせよ其の本質は「神なる光の競演=饗宴」とのこととなる。

 

 

文化のみち二葉館 名古屋市旧川上貞奴邸|イベント情報 (futabakan.jp)

 

日経新聞の記事の方に「文化のみち二葉館」のことが紹介されて居り自分はかって此のステンドグラス『初夏』を鑑賞して來て居ります。

其れは四年程前のことでした。

 

此の東区の橦木町の辺りにはかうした「古き良き物」が今でも保存されて居て無論のこと自分は其の種の物を御目当てにワザワザ自転車にて其の東区迄出向くのです。

大體35~40分位はかかりますが行けない距離では無い。

 

「文化」とは結局其の種での「美への拘り」のことなのです。

 

ですが「文化」=「人間が紡いだ美的な遺産」のみに「美」が宿る訳では無い。

むしろ美は自然界の方にこそ満ちて居るものだ。

 

また美術館や展示施設以外でも美は幾らでも転がって居る。

 

例えば自分は時に道端で物を拾うのであり其れが造成中の民家から道端の側溝の方へと転げ落ちた石だの硝子片であったりする訳です。

そんなことを言えば「御前は乞食か?」とさう言われさうですが現實に僕は其の方法で弐度程御寶をGETして居るのであります。

 

1.4年位前に解體工事中の古い民家横の側溝より銀化した硝子片を五ヶ程拾ったー陽に翳すと其の全てが七色に輝くー

2.3年前だったか解體工事中の民家横の街路樹の土の中から💎級の石英を発掘したー大き目の豆みたくに丸い葡萄色で透明な石英

 

だから何処に何があるかはそも分からんのです。

でもって常に美しい物を探して居ると何故か其れが自分の方に引き寄せられて來るのである。

 

つまり「文化」より遥か以前での単なる「物拾い」の世界でもさうしてしかと「美」の世界が有る。

其れは無いのでは無くあくまで「有る」。

 

まあ然しそんなルンペン級での美の世界はまるで普通では無い世界のことですのでより分かり易い「ステンドグラス」の世界へと御話を戻しませう。

ですがハッキリ申せばそんなルンペン級での美の世界の方が實はより上級且つ上質な「美への理解」を醸成するものです。

 

かうして「藝術家」クラスの美の世界は世俗の人人の理解を超越することだらうまさに變な領域へと入って参りませう。

 

其れは壱種の「カルトな美」のことで?

さうですね、そも其れが「美を求め過ぎて感覚がオカシイ」人こそがやることでせう。

 

 

ステンドグラスの歴史 【世界編】- その起源から近代までの変遷 | キュウコン・ステンドグラス (kyukon-stained-glass.net)

10年刻みで見る日本のステンドグラス文化とその系譜【明治から令和まで】 | キュウコン・ステンドグラス (kyukon-stained-glass.net)

ステンドグラスの様式・スタイル12選【あなた好みのデザインは?】 | キュウコン・ステンドグラス (kyukon-stained-glass.net)

 

其の文化としての「美」の世界にはまず歴史がありませう。

まさに其れをかうしたところから學ぶことが可能である。

 

ステンドグラス工房 YUKO TERASHIMA ART & DESIGN | ステンドグラス作家 寺島裕子 (yuko-stainedglass.jp)

ステンドグラスの武蔵野工房 - エレガントな光の芸術 (musashino-kb.com)

 

でもって愈愈「ステンドグラス」作品の方を鑑賞致します。

後者での古典的要素が感ぜられる「ステンドグラス」などは個人的に特に好みです。

 

ですが「ステンドグラス」は基本的に有閑階級つまりは御金持ちの「お高くとまった趣味」であることはまず否めません。

要するに食うや食わずの貧乏人の趣味ではまさか無いことだらう。

 

ですが其のカネが有る無しと感度が有る無しとはまた別の御話でせう。

故に僕なんぞはカネがネエのですがこんな「ステンドグラス」ばかりが大好きなんだ。

 

なので感度をそも生まれ付きに持って居るので其れに對しウソをつくことなどは決して出來ない。

 

ところで君、君。

はい何でせう?

 

君は半分藝術家なんだらう?

はい確かに其の通りで御座ります。

 

ならば自分で創れよ。

そんなもん位なら君なら幾らでも出來る。

 

いやまるでやりたく無いのですが…。

面倒臭いし本も読みたいしペンも改造したいわでもってして…。

 

 

【瀬戸市】Nijiiro Lamp ~ステンドグラスのランプの専門店~ | 尾張旭・瀬戸市・守山区・春日井市の応援サイト|ナンバホーム倶楽部 (nanbahomeclub.com)

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ほれ、こんなもんがあったぞ!

コレを君の部屋の窓に貼り「ステンドグラス」の部屋にすれば其れでもって万事宜しい。

 

「ステンドグラスシート」?

うーん、もしややってみても良いのかも。

 

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例えばコレなどが緑色でもって案外好きですね。

 

 

いやむしろペンキを買って來て窓に絵でも書いたらどうじゃ?

いや其れは昔やりました。

 

自分の部屋はまさに白い部屋なんですが其れは自分が壁紙を剥がし全面的にペンキを塗ったものだ。

また窓枠はグレーと赤とに塗って居ます。

 

だから西洋絵画だとか「ステンドグラス」などは兎に角良く合う部屋となって居る。

 

「ステンドグラス」こそはそんな此の世で最も美しい「光の藝術作品」です。

最終的に其の「光」こそが「美の大元」であり且つ「元締め」なのだとたった今自分は考える。