「金絲竹」製の「高級」万年筆ー筆記に於ける「高級」とはむしろ「認識」のことであるー
ところでモノの世界は其れ即ち壱種の「治外法権」を有して居る。
何せ物は生きて居ないので所謂生命とは違う。
其れを淋しいと云う人がまた居ますが別に淋しくは無い。
其れはアンタがさう云う認識をして居るだけのことである。
何故ならこと生命は「生きんが為の規定」に常に縛られて居り案外自由に非ず。
食う物、出す物、また子になる者さらに孫になる者と兎に角何かと煩わしい。
自分はそもそんなややこしいのが本質的に嫌いなんだ。
故にもっとシンプルに出來得れば「物化」しつつ生きて居たい。
でもなんだ、其れは?
相變わらずの詩人のキチガイのことか?
はいさうです、まさに其のボクだけのキチガイなのだ。
でもボクはさうして兎に角物が大好きです。
ほう、では君は此れ迄にやり切ったのだね、其の物との對話を。
まあやり切りました、でも結果80パーセント位ですかね。
ほんたうは70パーセント位だが其処をあえて威張って言えば80パーセント位ですね。
もしや其れは物に於ける偏差値が80程もあるとさう云うことなのでは?
仰る通りで實はわたくしの持って居る「物」への偏差値は至極高くあるのです。
だから其の点に関してだけ言えばまさに東大級だ。
そんな東大級の物コレクター?
なんか嘘臭いがでも確かに君は万年筆のことだけはとりあえず良く知って居るやうだ。
いやでも自分はあくまで東京の人間では無いので名大級に変更させて頂きます。
まあ其の名古屋大學でも利口しか入れないよね?
うーん、確かに。
家の母が所属する生け花の流派ー地元のーの家元が其の名大出で壱言で申すと相当に變わって居ました。ー昔何度か話をしたことがあるー
まあ頭の中の偏差値の高い奴等は概して「何を考えとるのか分からん」ものです。
自分もまた「考える力」だけはどうも持って居るので明日何を言い出すかはハッキリ言って自分でも分かりません。
だがもうそんな話はどうでも宜しい。
さて本日は筆記具の整理整頓の続きをやり最終的に角瓶ー整理瓶ーを段ボール箱へと仕舞い込み机上には壱つの角瓶と長瓶だけを置くことに致しました。
要するにさうして自分は全てをシンプル化ー其れもある意味では合理化ーしたいのです。
全てをシンプル化し「最期の思考生活」に是非入って行きたい。
すると其処にてまた何か哲學の理論のやうなものを御考えになるのですか?
うーん、まあ其れの総決算的なものつまりは総括的なものを是非捻り出したい訳だ。
ならば次第にアノ養老先生のやうになられて行くのですね?
まあ養老先生程頭は良くないでせうが其の辺の自称作家よりは多分頭が良いとさう思うのです。
其の辺の自称作家とはナゴヤ限定での自称作家ですか?
いや別にナゴヤには限らずミカワにもまたナニワにもそんな變な自称作家がまず百人位は居ることだらう。
でもそんな變態の自称作家と刃傷沙汰などを起こさぬやうにして下さいね。
其れも昔太宰 治と中原 中也が大喧嘩したやうに。
嗚呼、でもあいつらは結局単なる文士ですのでかの三島先生のやうに日本刀が扱える訳では無い。
其の作家でしかも日本刀を振り回す奴程怖い人間もまた居ませんね。
さうですねえ、まあペンと日本刀は何処か似ては居るがあくまで違うものですからね。
ちなみにかの中原 中也は常にハッキリしない太宰 治を罵倒して居たやうです。
其れもまあ年上でしかも大詩人ですから太宰位は屁でも無かったのだらう。
そんな中原 中也は子煩悩でね、つまりは👨👧👧主義者でした。
ですが子が死んだりして其の愛の崩壊の過程に酷く心を痛め最終的には病を得て早う死んで仕舞います。
其の中原が死んだ後に大宰は彼をベタ褒めして居る。
つまり中也の詩は他とはまるで違うまさに🗾を代表する詩人だった、と云うやうなことを述べた。
つまりは其れが彼太宰の文學者としての本音だったのです。
兎に角此れにてようやく使いたいペンがスッと取り出せる態勢となった。
ですが昨夜は變な🖋をあえて使って居た。
其の變な🖋とは何か?
其れはね、ズバリ中國のオールド萬年筆だ。
其れも「金星」の多分五、六拾年前の御品である。
「金星」?
また壱般人はまるで知らぬカルトなメーカーの品ですな。
尚中國のオールド萬年筆の蒐集はおそらくは世界で壱番難しいと言えるのやもしれません。
また何で?
何故なら中國は共産國家となり其れこそ文化大革命とかで色色あった訳です。
そんな政情不安のところと金満資本家の象徴としての「贅沢な萬年筆」とがそも両立しない筈なんだ。
だから「贅沢な萬年筆」がそも残って居ない感じすらするが其れも本格的に其れをやった訳では無いので断定は出来ぬ。
確かに中國の🖋は其れも60~70年代辺りではパーカー51やら61やらを眞似た安物ばかりでしたよね?
さう要らんやうな🖋が兎に角多かった。
つまり其処には浪漫が無く壱党独裁でのまさに凡なる労働者向けの筆ばかりだ。
そんなニセモノの中華筆をあえてわたくしは集めて居た時期があった。ー70年代中頃~80年代前半にー
でもアンタ何をやって居るの?
いやむしろ變なものに凝りたいのです。
人がやらないことをあえてしたいのです。
兎に角其れ等は思った程に惡くは無くちゃんと書ける代物でした。
兎に角其の金星には結構デカい14金ペン先が付いて居り至極貴重な御品である。
また画像を探し出したら後日貼り付けて置きます。
ですが本日は其の中華万年筆の御話では無くHBK工房製の金絲竹の軸のことに就き述べる。
まず其の「竹」の軸ですが「木材」よりも良い場合すらもがある。
と申しますのも黑壇系やまたスネークウッドやさらに他の所謂「堅くて重い」系統での木材はズバリ割れやすいものです。
ですので何時の間にか軸が割れて仕舞うのだ。
だからと言って檜や杉の所謂軽い材はいまひとつ「凄み」に欠ける。
尤も樹脂分の多い特殊な材もあるので其れに限れば「凄み」乃至は「趣味性の高さ」を感じることが可能となる。
其処へ行くと竹の方は普通に多くありしかも結構丈夫です。
但し竹は割けることがまたある。
そんな「金絲竹」の軸の万年筆を四、五年程前にヤフオクにて求めたがまずは其れに感動した。
其れがこんな筆である。
「金絲竹」とはつまりは謂わば「黄金竹」でありおそらく中國か又は東南亜細亜圏から輸入された物であらう。
其れがまた何とも言えぬ色であり柄なのだ。
自分は元元「竹」軸の愛好者でありつまりは東洋の筆の軸が好きなのだ。
また竹は🗾の所謂伝統文化とも深く関わって來て居る。
特に茶道などでは例えば茶煎や茶杓など竹の素材を用い独自の文化を形成して來し訳だ。
故に兎に角そんな竹贔屓の自分でありまた其の竹趣味の行き着くところがまさに「金絲竹」だった訳である。
また「金絲竹」のボールペンなどもあります。
いずれもHBK工房の作品の中でもまさに「素晴らしい出來」だと言える御品である。
尚ボールペンの芯は工夫すれば付け替えることが可能で筆記具の形状に応じJS芯か又はアクロ芯へと変更出來る。
でもって此の「金絲竹」の万年筆の方が出て來たので本日其れを使って居りましたのです。
但し現在は、
1.首軸を付け替え
2.キャップを尻側に固定し付けた形
でもって其れを使用して居る。
實はキャップを尻側に挿せぬペンなのですがつまりは接合部にゴムバンドーボールペンのグリップ部ーを巻きとりあえず軸を長くして居る訳です。
ではどんな首軸を使って居るかと云うに、
こちらの中華万年筆の首+ペン先の部分を利用して居ります。
此の🖋はたまたま今年の参月に世界オークションにて求めたが「普通過ぎて」面白味が無い故遊ばせてあった物です。
ところが書いてみると物凄く調子が良く優れたスチールペン先だった。
ならば後は「最上」の物を組み合わせ「自分だけの筆」にして仕舞えば良い話である。
つまるところむしろ筆記具は「自分流」にして行く方が「より深い筆記上の満足」を得ることが可能となる。
但し其のことは「筆記具の上級者」があえてやることであり其処で知識も無いのにやっちまうと逆に其れが「破壊」にも繋がりかねない。
そんな訳で自分は今此の「HBK金絲竹万年筆改」を左手に握りつつキーボードを叩いて居る。
では其れを右手に持ち替え文字を書いてみやう。
おわあ、滑らかー。
しかも軸が細長くて最高です!!
なんだかんだ言いつつかうして筆記具コレクターとして紛れも無く日日活躍して居る訳だ。
いやあー、でも兎に角高級だ。
全部で多分四千円位の御品であるが其の使用感はまさに「ゴールデンタイム」其のものだ。
故に筆記に於ける「高級」とはむしろ「認識」なんです。
其れもまさにこんな風に「認識」にて「安くてしかも良い物」を我が手へと引き寄せるのである。