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ダニエル・コーエン氏追悼特集ー搾取文明と「破壊」との関連性ー

ダニエル・コーエン氏追悼特集ー搾取文明と「破壊」との関連性ー

 

 

 

 

さて本日はかの仏蘭西を代表する知性が遺した「思考の内容」との個人的な對決を試みてみる。

 

「創造的であること」を強いられる社会は幸せか 逝去した「欧州最強の知性・コーエン」の嘆き (msn.com)

 

ーそして、事実として、テクノロジーは人間の労働に大きな影響を与えてきました。

最たる例が農業です。技術革新によって、世界中の農民が職を奪われたのは明らかです。先進国には農民はもうほとんどいません。フランスでは1〜2%です。日本でも農業人口は少ないでしょう。人口比率ではフランスと同程度ではないでしょうか。技術革新で生産性が向上したため、以前より労働力が必要なくなったのです。その結果、何が起こったか。今の状況との興味深い類似点が見られます。ー「創造的であること」を強いられる社会は幸せか 逝去した「欧州最強の知性・コーエン」の嘆き (msn.com)より

 

此処🗾で農民が少ないのは単に農産物を輸入に頼って來たからのことでせう。

其れとそも日本の農業に其の技術革新が大きく取り入れられて來て居るとは思えない。

 

日本の農業はそも小規模且つ👪経営であり米國のやうな大規模な其れとは本質的に異なります。

だからゆえに日本の農業のあり方に沿った農業政策をやらねばならんかった。

 

また畜産業や水産業なども同じことでせう。

そも其れがやれんかったのがかの國でありこんな日本の組織です。

 

 

ー20世紀初頭には労働者の40%を占めていた農業従事者は、今では1〜2%程度です。

農村を離れた農民は都市部に移動し、工場労働者となりました。農業は供給過剰でしたが、産業革命最中の都市部では労働力が不足していました。産業革命、つまり技術革新が、農民を新しい工場で働く労働者に変貌させたのです。そして、労働者の農村から都市部への移動が、産業革命による経済成長をさらに大きくしました。ー「創造的であること」を強いられる社会は幸せか 逝去した「欧州最強の知性・コーエン」の嘆き (msn.com)より

 

なる程其の「経済成長」なるものは農村の勞働力が主に支えて居たと云う訳ですか。

然し農村の勞働力が都市部へと移ったのは要するに「金」の為であり他の何ものでも無い。

 

従ってそんな経済モデルー資本主義経済モデルー其のものにおそらくは無理があったのではなかったか。

 

 

ー私たちが今経験しているのは、そのようなことかもしれません。技術革新で生産性が上がって多くの人が職を失っているのに、それに代わる受け皿となる産業がありません。銀行、保険などの第三次産業では、すでに職を離れた人がたくさんいます。

 

つまり、問題はテクノロジーに職を奪われ、人々の仕事がなくなったことではありません。人々が成長分野において適切な賃金を得ながら働くことができず、以前よりも生産性の低い分野で低賃金に甘んじなければならないことが問題なのです。ー「創造的であること」を強いられる社会は幸せか 逝去した「欧州最強の知性・コーエン」の嘆き (msn.com)より

 

生産性が上がったにせよ今後温暖化が加速し収量が激減したり輸出規制されたりとどうしてもさうなることでせうから先進國のグローバル的な食料自給のあり方はすでに破綻して居ます。

其のグローバル的な食料自給を世界でも壱番やって來たのが此処🗾國であり其れがまさに自由民主党の考え方なのでせう。

 

ですが其れはそも間違って居ます。

即ち〇で無く✖だ。

 

其れもまあ我が國の食料事情が今後果たしてどうなるのかは知りませんのですが。

 

 

 

ー今日の世界で難しいのは、移行期に差し掛かりながら、その後の世界が明確にイメージできないことです。新しく職を得る人とこれまでの職を失う人との分断は、同じ分野、同じグループの中で起こっています。同じ産業、同じサービス業の中で、新しいテクノロジーが労働者の生活パターンを変えているのです。

 

かつてのように、単に高学歴だというだけでは職を守ることはできません。事態はより複雑です。今までの脅威とは性質が異なります。同じことを繰り返すようになったら、職を脅かされるようになります。私のような経済学者も同じです。

今では動画を再生すれば、誰でも、どこにいても、同じ話を何度でも聞くことができるのですから、いつも同じ話をしているのでは、講演の仕事は減っていきます。私たちは繰り返しのリスクに晒されているのです。ー「創造的であること」を強いられる社会は幸せか 逝去した「欧州最強の知性・コーエン」の嘆き (msn.com)より

 

問題はいまだ「職」次第で金が得られる仕組みを資本主義國が採用して居ることです。

しかも其の「職」には主に「上、中、下」の価値ヒエラルキーがしかと組み込まれて居る。

 

ところが其れは社會が無事の場合のあり方でさうして社會が無事ならば主に「中や下」の方からの搾取分を「上等國民」共が吸い上げて行くのです。

ですが社會が有事ともなれば其の「搾取」其のものが成り立たなくなる。

 

にも関わらず「上等國民」共はチュウチュウと相變わらず下等民の生き血を吸い私腹を肥やして行くのです。

だから社會がそも壊れて行く。

 

即ち其の「上等國民」共の過分なる搾取欲の為にかの文明世界は壊れて行くのである。

故にそんなもんはもはや「革命」の段階でせう。ー市民革命か又は社會主義革命の段階だー

 

 

ーコンピューターに代替えされないのは、非ルーティンワークだけだという強迫観念は、人々の大きなプレッシャーになります。それは、私たちが皆、芸術家のようにならなければいけないということです。常に自分を改革する必要があるということです。

フロイトは『文化への不満』に、「芸術家のように生きるのは不可能だ。自分の人生を芸術家のような人生にしてはいけない。なぜなら芸術家は不幸だからだ。芸術家はいつも創造性の欠如への恐怖に晒されている」と語っています。それは本当に大変なことです。

 

今、始まろうとしている、あるいは、始まっている新しいテクノロジーの世界には、常にそうした緊張があります。いつも「自分が得意なことは何か」と自分自身に問いかけていなくてはなりません。それがストレスと緊張を生むため、燃え尽きてしまう人が大勢います。

人々は能力を限界まで出し切ることを求められています。そこが昔の労働者とは異なる点です。つまり、新しいテクノロジーの本質はこれまでの文明の破壊です。

これまでの文明、つまり産業文明は、繰り返しの文明でした。工場のライン作業などは、システムの効率を最大化するためのものでした。効率化のために、同じ作業を繰り返すことが求められたのです。

私たちは、かつて工業が農業生活を破壊したように、古い工業のコンセプトを破壊する新たな世界に足を踏み入れています。私はこれが、前世紀に人々の生活をすっかり様変わりさせた革命と同じくらい重要な革命になると考えています。ー「創造的であること」を強いられる社会は幸せか 逝去した「欧州最強の知性・コーエン」の嘆き (msn.com)より

 

農業革命→工業革命→創造的革命

 

問題は其の近代進歩史観には「破壊癖」があるとの部分です。

「工業」により「農業」がある意味では破壊されるつまりは農林畜水産業に従事するよりは工場勞働者となり決まった賃金を得る方が良くなった。

 

だけれども其れもまた良く考えてみれば其のやうな工場に於けるオートメーションの奴隷で居るよりは自然を相手とする就業の方が魅力的である場合などもまたある。

ところが其の近代的な進歩により「農業」は何時の間にか工業的な勞動よりも軽んじられることとなり易い。

 

其れも其の「農業」でこそ我我人間は「命の糧」を得て居るのにも関わらず。

また「水産業」や「鉱業」でこそ我我人間は「命の糧」を得て居るのにも関わらず。

 

其処にて謂わば文明は「生命維持に関する最低限の糧」を得んが為の具象的物理的要件から離れて行きやがて愚にもつかぬ「生命維持に関する余剰としての糧」つまりは情報だの金融だの何だのそんな抽象的な次元の価値ばかりを追求して止まぬやうになる。

 

即ちもはや物は要らんと云うのに限りなく🚙だの✈だの🚢だの🚀だの🤖だのばかりを造りたがる。

そんなもん要らんのに兎に角まるでキチ外の如くにそんなもんばかりを造りたがる。

 

また其れ以降も情報だ何だと我我人間を急かし立て挙句の果てにはみんなをスマホ人間にして仕舞い其のスマホ人間は「洗脳人間」ですのでたとえ何があってもスマフォの画面から目を逸らすことなどはあり得ない。

 

すると地下鉄のホームから落ちて🚇に轢かれバラバラだ。

また🚲や🚘の運転中にスマフォを弄って居て大事故を起こす。

 

 

其の様やほとんど御話にならぬレヴェルでの「洗脳人間」其のものでせう。

 

つまり我我人間に取りむしろ壱番大事なこととは食って飲んで屁をコイて寝ることだ。

其の部分に對し工業化社會でのまた情報化社會での「価値ヒエラルキー」などは通用などしないとのことである。

 

尚其の創造的革命に於ける「創造」と藝術に於ける「創造」はハッキリ申して別物です。

創造的革命に於ける「創造」とは文明の進歩主義に踊らされたところでの謂わば「壱方通行」での概念的価値であるに過ぎぬ。

 

だが藝術に於ける「創造」には言わば両義的に物事を見極めるであらう幅広い認識其のものが含まれて居る。

よって現行文明に於ける「創造」とは言わば「ウソの創造」でありより分かり易く言えば「トンチンカンな創造の眞似事=似非藝術」であるに過ぎぬ。

 

以上のやうにわたくしが個に於ける認識を「革命」しやうとして参りましたのは其の現行文明に於ける「創造」の「全體主義」性に気付き其れから脱さんとするべきものであり他の何ものでも無い。

 

 

ー現在では皮肉なことに、その声が聞き届けられたのか(笑)、テクノロジーによってそうした反復作業は消えつつあります。しかし、それでも1968年5月にベビーブーマーが思い描いていたような、平和で創造的な世界は訪れないというパラドックスが生じています。

今度は、創造力の追求が新たな義務になったのです。人々は創造的でなくてはならなくなりました。「ロボットになりたくない。ありのままの自分でいたい」と願うことと、「創造的であれ、さもなくば死だ」と迫られることは別のことです。ー「創造的であること」を強いられる社会は幸せか 逝去した「欧州最強の知性・コーエン」の嘆き (msn.com)より

 

「創造的」であることは言わば「癖のある人間の得意技」のことであり元より萬人の為の世界観ではありません。

人類の90パーセント位はむしろ其の凡庸な人人であり其の凡庸な人人が何を欲するかと云えばズバリ「金」だの「女」だの「地位」だの「名誉」だの「長生き」することなどを求めるものです。

 

ですが「癖のある人間」はそもそんなもんを此の世に對し求めては居らず要するに彼は此の地上に於いて「自己の藝術」をば完遂させたいばかりなのだ。

ま、自分なども明らかにそんな癖の強いタイプでの人間だらう。

 

癖の強いタイプのこんな困ったちゃんが何を考えて居るかと云うに皆さんとは違うことをよりにより考えて居られるのです。

兎に角人間が皆🤖になるのは余りにも情けなくしかも人間が皆藝術家になれるかと云えば結局なれはしません。

 

其の大多数の凡庸な人間に取り大事なこととはまずは「疑問」を持つことでせう。

「疑問」も無く何でもハイハイと素直に認めて居るとむしろ認識の地獄界へと堕ちて行くのは最終的に自分でせう。

 

 

ー安田さんに倣ってマルクスの用語を使うならば、今度は創造性の剰余価値を「搾取」されることになるからです。一つの搾取が別の搾取へ移行するだけです。

けれども、もし、ベーシックインカムのような社会保障制度が用意されるのであれば、私はこの移行は好ましいことだと思います。私たちは疎外の世界から搾取の世界へ移りました。グローバルなシステムに創造性を投入するという要求に応えることで、本当に搾取されるようになるのです。そこにはストレスがあります。

剰余労働は、工業の時代にそうだったように、またしても最大限まで押し上げられています。しかし、そこにベーシックインカムがあれば、人々は「ちょっと待った、その要求まではのめません」と言えるのです。

 

そうです。ルーティンワークの世界では、搾取されるのは体力でした。今ではそれは創造力です。ある意味で進歩したと言えますが、同じ矛盾を抱え、同じように極端な状況になっています。

今の状況は後からでないと完全には理解できないでしょう。1968年5月や、その前後には、工業社会は限界に来ていると考えられていました。その認識は正しかった。しかし、工業社会から抜け出しさえすれば、その後には永遠の平和が待っているとの予測は外れました。当時の人々は、消費社会は存続しないと考えていたのです。ー「創造的であること」を強いられる社会は幸せか 逝去した「欧州最強の知性・コーエン」の嘆き (msn.com)より

 

其の仏蘭西での所謂五月危機 - Wikipediaにせよつまりは其れがかのフランス革命 - Wikipediaより連綿として続くだらう「革命」の歴史です。

つまるところ仏蘭西では常に「社會は進歩する」のです。

 

尤も仏蘭西人は大人しくは無く何でも「個」として意見を主張するので🗾人とはまるで違う民意を持って居る。

自分は考え方が其の腐乱酢人並に自立して居るので彼等と議論すること位なら出來ることでせう。

 

ですが仏蘭西語が分からないだけの御話なのであり。

 

さて「五月革命」の折りに仏蘭西で「毛 沢東」が読まれて居たことなどは今日初めて知り結構衝撃を受けました。

 

だが其の御腐乱酢も最近はイスラーム系の勢力に可成にやられて來て居るのではないか?

確かに英國などもさうですがムスリムの勢力に押されキリスト教其れ自體が危機を迎えて居るのやもしれません。

 

さて其の消費文明のことですが、あくまで社會の側が消費文化を続けたいのであれば「ベーシックインカム」を導入した方が需要は伸びる筈です。

ベーシックインカム」は例えば富豪に對する所得税の強化にて容易に可能となるのではないか。

 

尤も其の「ベーシックインカム」に反對するのは所謂弱肉強食社會の米國でせうから🗾國での「ベーシックインカム」化は「米國の🐶」の状態を止めませんとそも實現致しません。

まずは其れが可成に難しいことなので結局此処🗾國に於いて「ベーシックインカム」化が図られることなどは無いが但し将來的に温暖化の進行や農産物の収量の減少等で貧乏人の生命維持が困難となれば限定的に「ベーシックインカム」的な支援金のバラ撒きが行われる可能性はむしろ高くある。

 

と申しますか2050年以降文明世界では「ベーシックインカム」化が総じて図られることなどもまた考えられる。

ですが其れも「経済成長」や「夢や希望」が失われた世界に於いて最低限度例えば月に五万程が貧乏人に對し配られるとのことになりさうである。

 

さて「搾取」と云う概念は近代的な価値観を理解するが為に重要なものとなる。

 

そも近代的な価値観とは、

 

1.限度の解除

2.搾取

 

との両輪にて履行されて行くものとなる。

 

其の「限度の解除」とは価値の普遍化のことであり要するに其の価値こそが近代とのことだ。

さらに其の「搾取」はむしろのべつまくなしに行われるものとなる。

 

かっての所謂「帝國主義」が其の搾取の「先鋒」でしたが現代での「搾取」はむしろ「生存権」に對し行われるであらう個に對し過酷なものと化して來て居る。

またかっては中世迄のキリスト教だのさらに江戸期以降の檀家佛教だのにて宗教的な「搾取」すらもがまた成立して居たが現代に至ってはむしろ其の伝統宗教の側こそが「社會的搾取」の対象となって居りつまりは伝統的なキリスト教や伝統的な佛教の側こそが危うい訳だ。

 

要するに「近代的価値」其のものがそんな「搾取」の母胎であり進行役ー破壊役ーなのだ。

「近代的価値」其のものがそんな「搾取」を前提として成り立つ普遍的破壊工作のことである。

 

 

ー実際には今でも、経済の問題は変わらず存在しています。そして、今日、ポスト物質主義の世界に入るために求められているのは、生産性を向上させ、創造力を高め、仕事がルーティン化した途端に職を奪ってしまう機械に勝つことです。私たちは、物質主義のレースから抜け出した途端、別のレースに参加させられ、同じ緊張感に晒されているのです。

私たちは経済の世界からポスト経済の世界に移ったわけではありません。それどころか、かつてないほどに経済のルールに支配された世界に生きていると言えます。

ただし、その性質は変わりました。工場制度が終わり、ポスト工業化の世界に移行し始め、やっと少しずつ見えてきた実態は、私たちに大きな幻滅と失望しか与えていません。ー「創造的であること」を強いられる社会は幸せか 逝去した「欧州最強の知性・コーエン」の嘆き (msn.com)より

 

結局其のコーエン氏の現代社會に對する結論はかうして至極悲観的なものとなる。

自分の場合はあらゆる其の近代的な鬱屈の原因を近代的な「思想の誤り」として捉えて來て居る。

 

即ち「近代」と云う社會的価値其れ自體に「壱方的直線性」のやうなものがありむしろ其のことが「全體主義」を生み出し大衆主導の社會を最終的に「洗脳」にて染め上げて行くのである。

其の「価値の普遍性」其れ自體、「消費の正当性」其れ自體、さらに「宗教の世俗化」其れ自體に「搾取」構造の存在が認められるのではないか。

 

だから其の「搾取」と云うのは結局立場の上で優位な強い自分が威張ることで「立場の弱い何か」を搾り取るのである。

またつまりは其の「威張り」こそが其のことを為さしめて居るのである。

 

でもって其の「威張り」に根拠が有るかと言えばむしろ其れは無いのである。

そも根拠など無いのに「威張る」からまさに其れが「全體主義」と化す訳だ。

 

するともしや「搾取」其れ自體がまた「全體主義」なので?

でせうね、おそらくは。

 

でもそんな「全體主義」としての「搾取」社會を押し付けられても我我個人はどうしやうも無い。

だからこそ「御勉強」しそんな「搾取」社會を突っ撥ねるのでせう。

 

 

でもどんなに「御勉強」するにせよ社會はまた變わり様が無い。

變わり様が無いので「大地震」でも起きぬ限り其れ迄はむしろ「好きなこと」が出來る。

 

じゃあ社會を直すのでは無く個を頑張れとさう仰って居るのですね?

さう個を頑張り結果として美味しく日日飯を食い石を愛でかうして筆記しつつ暮らすこと。

 

逆に申さばまさに其こそが「搾取社會ー搾取文明ー」を抜け出す唯壱の方策ぞ。

 

なる程、すると「社會を悲観」しても「自分を悲観」する必要は無いとの境地なのですか?

だって其の「社會」と「自分」は別ものでありむしろ決して相容れぬものなのだから。

 

わたくしが述べて來たこととはまさに其の意味での「割り切り方」のことである。

「社會」と「自分」は別ものなんででは「ストライキ」でもまた「革命」の壱つでもやったれ!

 

あーでもソレまるで🗾人じゃ無いです。

そも誰がワシのことを日本人だと言ったのか?

 

ワシはあくまでこんな壱御仏蘭西人だぞ。

いや壱腐乱酢人なのかもな。

 

「革命萬才!!御仏蘭西萬才!!」

其の仏蘭西人は🗾人などとは異なり兎に角政治思想などには強いとさう思うのです。