目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

「菩薩は惡を忍受する」ーさうして「惡」を忍受する認識論ー

「菩薩は惡を忍受する」ーさうして「惡」を忍受する認識論

 

 

 

 

 

ところでつい先程何か面白さうな「文明論」は無いのかと検索してみたら何と弐番目に前回僕が書いた「非眞面目な文明論」が出て來其れでもって其れを読んでも良いかなとは思いましたのですがどうしても恥ずかしくて其れを読めなんだのです。

 

かうしてわたくしは意外にシャイでしかもとても感受性の強い人間ですのでまるでもって所謂「ガラス製の詩人」のやうなものであり故に決して彼を虐めたりしてはならない。

 

 

「第六章 非道徳的文明の終末論」 ウモ星人による宇宙人情報の開示 ・ デニスMF著“Non-Fairy Tale DISCLOSURE“2023年6月版より|トコトコ (note.com)

 

なる程、さうかさうか。

確かに現行の此の不道徳な現代の文明のあり方こそがなんか🐜っぽいぞ。

 

しかもそんな集団洗脳状態でもって何処までも働き🐜っぽい。

だから其の🐜は地獄へ堕ちるのではないか。

 

曰く、🐜ジゴクへと。

まさにそんな「家畜」状態なんだらう、我我人類もすでに。

 

其れも👽の奴隷なのでは無くまさに「近代文明」の奴隷でせう。

其れと精神科医には気を付けた方が良いです。

 

其れもアノ和田 秀樹先生のやうな所謂「善人」ばかりでは無く「惡人」としての精神科医もまた世には五万と居りますので。

 

 

寿命に大きな影響なし? 私が高齢スモーカーに「禁煙」を強く勧めない理由(和田秀樹/精神科医) (msn.com)

 

其の酒と🚬は共に要らんと言えば要らんものですが自分はズバリ酒の方がより有害だとさう感じて居ります。

即ちどちらかと言えば酒は「人間を繋ぐ働き」がありつまりは「全體主義」を助長する虞のあるものである。

 

他方で🚬は神経質で且つ頭が良過ぎて困って居る方などに取りまさに鎮静剤として作用致します。

かと言って🚬のみの人が65でもって死なんとは無論のこと言えません。

 

ですがもしもさうなったら35歳でもって滝から飛び降りずに65歳迄生かして下さったのはニコチンの御陰であるとさう認識して置くべきです。

 

また我が父方の方の親戚は酒飲みが多く且つ酒飲みには余り理性的な人が居ない。

父もまた酒飲みでしたが若い頃は確かに頭の良いエリート地方公務員だったが次第に酒まみれとなりつまりは理性が麻痺して行ったかの如くでした。

 

煙草には逆に理性を覚醒させる働きさえもがある。

ちなみにアノ芥川 龍之介は兎に角所謂チェイン・スモーカーだったさうです。

 

 

バカほど「タバコは絶対ダメ」と言いたがる…和田秀樹「本質を見抜ける人、そうでない人の決定的な差」 (msn.com)

 

結論から申せば「🚬は神経質者其れもひとかどの神経質者の鋭ど過ぎる頭には良く効く」のです。

要するにキチ外の壱歩手前位の人にはむしろ薬ともなり得るものだ。

 

對して自分が「飲酒」を嫌うのは頭が麻痺して仕舞うからでのことです。

ですが自分は30歳迄むしろ酒飲みでしたので其の気持ち良さに就いては良く知って居ます。

 

其れも角瓶だのバーボンだのまた老酒をこよなく愛する可成の酒飲みだった。

またナポレオンなどの所謂コニャック系の香り高く強い酒なども好みでした。

 

ですがあくまで体質は「御菓子」を好むやうなマイルドな體質なので其の侭行けばおそらくは40位で死んでおったことでせう。

また佛教では特に飲酒を嫌いますのですし…。

 

 

ズバリ言って酒飲みの人はまず70位迄に内臓をやられ死にます。

家の父親がまさに其のタイプでした。

 

ですが神経質なインテリだった父は精神的に苦しむことが多く「酒でも飲んで居ないとやってられん」人だった訳だ。

でもって其の酒による脳の麻痺の御陰でもって兎に角晩年は神経質其れ自體が麻痺しよって飲み屋のネエチャンやら兎に角オバサン等には頗る人気がありました。

 

なので其の血を受け継ぐ自分は極めて神経質なハッキリ申してインテリですので「🚬でも吸って居ないとやってられん」人となった訳です。

🚬はもう洋モク即ち「高級葉巻」に迄かっては手を出しまして兎に角ひとかどの愛煙家であったが現在吸って居るのは「ハイライト」のみです。

 

其の「ハイライト」もまた非常に危険なタールやニコチン量の多い御品であります。

 

ですが自分は兎に角👩に手を出すこと其れ自體を40歳でもって止めたので以降は穏やかな毎日がずっと続いて居ります。

 

 

さていずれにせよ「生活」には「買い物」が必要であり従って例え戸外で38度あるにせよ当然のこと外へと特攻せねばなりません。

特攻!

 

ですが此の暑さには参ります。

わたくしはかうして今年初めて「危険な暑さ」を體験するに及んだ。

 

尚我は異常な程の汗かきであり夏場には元元強い人間です。

また以前は35、6度位あっても天白ゴルフ練習場にて直射日光を浴びつつ300球を打つハードな練習を重ねて居たものです。

 

ですが先日は買い物からの帰りにさて文明は本当に今後をどうする積もりなのだらうとさう思わされた。

其の中を警備員さんや営業マンなどが仕事をして居られるのですが其の外で行う仕事はおそらく10年後位から厳しくなるつまりはやれなくなる可能性が高くある。

 

何故なら人間は所詮生物ですので気温が體温以上にもなればまたソコで8~10時間程も勞働すれば死ぬる可能性が多分に出て來る。

またアノ高校野球などもまた何時迄続ける御積もりなのか?

 

まあ其れも拾年後にはおそらく可成に厳しくなることだらう。

だがさう「分っちゃ居るのに止められぬ」のがまさに人間が抱える「業」の部分なのです。

 

 

しかも文明を今すぐに止め前近代の暮らしに戻さう、などと言っても其れはあくまで變人の言い草なのでありまともな人はまさに此の「進歩史観」をこそ突き進むのです。

其の様や明らかに茶番劇であり其れ以前に完全なる誤りでありそれどころかズバリ「惡の履行」である。

 

ところがさう思いつつも🚲を離れ「ダイソー」や「ドラッグ・スギヤマ」などに寄れば其処はむしろエアコンがガンガンに効いて居り快適なこと此の上無い。

さうして文明とは間違って居てしかも「惡」なのですが我我現代人はすでに其れに「洗脳」されて居りもはや誰も其のことをとやかく言うことはままならぬ。

 

まあ其れでもかうして詩人だけが言うたりましたのですが。

彼には子孫もまた愛するものもつまりは今後長きに亘り守るべきものが無いのでつまりは「しがらみ」に拘束されることが無い。

 

まあ其れでも愛する🐈やまた筆記具や石は生きて居るうちだけは懸命に守りたいが其れも縁が切れればまた仕方が無いことである。

と云うかもうやり切っても來たのだし…。

 

「酒と女とギャンブル以外」をさうしてやり切って來たのだし…。

また御勉強の方もしこたまやって來たのだし…。

 

其れももう気が狂う壱歩手前迄かうして考えて來ても居るのだし…。

まあそんなこともまた先日母に言うて居りました。

 

曰く、

 

「自分はもう弐度と此の世に生まれたくは無いが父と母の御陰でかうして御勉強と筆記具と石をやり切れて兎に角幸せだった」

 

ですがかうして外の世界は矢張りと申すべきかむしろこれからが「地獄」の様でせう。

また其のことは妄想の類では無く誠に困ったことに事實なのです。

 

さうだ、では御寺へ寄らう。

 

 

さて本日はズバリ其の「惡」と「善」のことを見据えた上で文の方を拵えてみる所存です。

 

其れと8月は投稿の方を御休みする予定です。

其れも部屋に籠っての御勉強どころか、

 

1.寺へ御布施を持っていく件が弐つも入ったこと

2.運転免許証の更新へ出向く必要があること

3.「盆踊り」の予定が弐件入ったこと

4.八月の最終週に「名古屋ミネラルショー」があること

5.お盆の前の家の周辺の掃除及び剪定+お墓の掃除

 

とのことで事實上もはや手壱杯です。

しかも家事勞働しつつ此れ等をこなさねばなりません。

 

家事勞働では毎日布団を丸洗いするので其れがとても大變だ。

ですが勞働ばかりでは無くかうして駄文もものすのだしペンや鉱物で遊んで居たりもするのであるが。

 

 

其れでも「盆踊り」のことを少し書きに出ては参ります。

ですが其の前に「宗教的な認識」のことに就き是非書いて置きたい。

 

と申すのも、

 

「菩薩は惡を忍受する」

 

とさうとある寺の前にさう書かれて居りました。

まさに其の折に「大乗佛法」がようやく分かったやうな気が其れも強く致した。

 

まさに其の「惡」をキリスト教などがまた直視して行きます。

即ちキリスト教の教えには必ずや「惡魔」が出て参ります。

 

 

1.「菩薩は壱切の惡を忍受し衆生に向かっては心平等にして動揺無きこと大地の如し」ー安樂寺(浄土眞宗)ー寺院紹介 | 名古屋市安楽寺公式ページ (anrakuzi.com)

2.「最も苦しい時が最も辛抱の必要な時である」ー龍泉寺曹洞宗)ー源頼朝産湯の亀井水~名古屋市瑞穂区:龍泉寺~ (yoritomo-japan.com)

3.「苦樂不二ー苦の中に樂あり 樂の中に苦ありー」ー最経寺(日蓮宗)ー瑞穂区 §9 最経寺 | おやじのブログ - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)

 

さて其れでは何故かうしてわたくしは所謂神社仏閣やまた教會などの宗教施設に詣でることが事實として多いのか?

其れは宗教心からなのでは無くズバリ現代の文明が信用ならずしかも極めて危険であることを知って仕舞って居るからなのだ。

 

其れもわたくしは買い物の帰りに必ずや神社仏閣へと寄り道をする。

つまるところ壱般人の方とはまた其の宗教に對するアプローチ其のものが違うのです。

 

普通はさうして所謂「願掛け」=現世利益成就をしたりまた先祖供養などに其処を訪れるのです。

ですがわたくしの場合其の「願掛け」は弐月に笠寺玉照姫の楠薬師佛に「無病」を祈るばかりで後の全ては文明の仕出かす罪を御赦し頂かんが為に神社仏閣及び教會を訪れて居ます。

 

要するに願って居るもの其れ自體の内容がそも違うんです。

自分は兎に角其の「文明の罪」を何とかせん限り人類は御仕舞いだともう昔からさう思って参った。

 

またそんなことをアノ「オウム教」なども確か言って居たがですがああいう形では無くむしろ物凄く學術的つまりは理性的に此の文明はダメだとさう思って居る訳です。

なので其の「文明の問題」を片付けぬ限り個の安心立命も何もありゃあせんでせう。

 

 

でもってたまたま頭が良く生まれますとまたどうしても其れを考えるのです。

逆にアホやバカ又はボケですと考えなくてもいいのです。

 

だから自分はもう考えたくはないのです。

其れも本心を言えばさうだ。

 

だがどうしても頭がいいでせう。

其の良い頭が結果何処にも消えては呉れぬ。

 

うわあー、こんなに利口に生まれついておいらは兎に角不幸其のものだよー。

 

そんな人はほんたうは其の鋭い頭の中身をアルコール浸けにでも是非しておくべきだった。

さうだでは早速華厳の滝那智の滝より飛び降りやう。

 

そんな滝から飛び降りるなと毎回毎回さう書いて居たではないか!

さうでしたか、どうも御指導をありがたう御座ります。

 

では煙草でも吸い是非心を落ち着けなされ。

はい、では早速にロングピースを吸わせて下され。

 

ロングピース とな!!

其処は流石に喫煙詩人の行状ですね。

 

いや缶ピースなどもズバリ行きますよ。

缶ピースともなると流石に「ヤニ」が強過ぎ其れをスパスパ吸えばすぐに病気になりさうな感じが致しますが。

 

コレはそも煙草の話ですか、其れとも眞理の御話ですか?

ズバリ其の眞理の御話です。

 

其の眞理に就き御盆を前倒ししたった今書いて居ます。

 

 

「菩薩は壱切の惡を忍受し衆生に向かっては心平等にして動揺無きこと大地の如し」

 

まずは其の「菩薩は壱切の惡を忍受し」と云う部分にこそ大袈裟に言えば驚愕致しました。

 

まさに浄土教は其の「惡を忍受する」ことで成立することだらうまさにキリスト教的な佛法です。

其の逆にまた其の前に原始仏教禅宗は「善惡の分別」をこそ滅し去らうとする。

 

即ち「善惡以前」の認識段階へと理性的に認識を推し戻して行く訳だ。

と云うことはまさに其れぞ「正統の佛法」としてのあり方となる。

 

だが其の「正統の佛法」としての認識のあり方は壱般衆生にはハードルが高過ぎまさか出來やしない。

どだい禅僧であれ出來やしないものが何で凡夫に可能となるのか?

 

故に浄土教はあえてそんな異端としてのキリスト教化をしさうして「惡」を見詰め且つ「惡を忍受」する。

さうだったのか、其れもまたようやく分かった。

 

ならば其の「菩薩」とはまさにかの「天使」のやうなものである。

 

 

天使は仏教や神道の宗教観には、登場するのでしょうか? - 天使は神に従い神と... - Yahoo!知恵袋

 

天使はよい存在で悪い存在。聖書に書いてあるぞ | Spiricare (spirialcare.com)

 

この世は天使と悪魔が相克する世界か? | 心おだやかにいきるために in rakuten - 楽天ブログ

 

ーまた、光り輝く身体を表現する光背を背後に負う。ー菩薩 - Wikipediaより

 

其の光背を所謂天使もまた纏う。

 

 

菩薩=梵名ボーディ・サットヴァ

 

佛=「惡と善の完全なる放棄」

菩薩=「惡と善の半分なる放棄」

 

其の佛とは「相對分別」の抹消のことでありあらゆるパワーによる認識バランスの無化のことである。

だが菩薩あらゆるパワーによる認識バランスを半分残すのであらう。

 

半分残すが故に「惡と善」は其れこそ半分ずつ保存されるのだ。

尚所謂現世的思考、現世的認識とはあらゆるパワーによる認識バランスをむしろ全的に行うものである。

 

だが其れですと当然の如くに「価値観が利己主義化」することで世界を破壊するに至らしめる訳だ。

よって壱般的認識が世俗世界の永遠の成就を願うのはそも根本的に誤りで且つ矛盾なのだ。

 

また其のことはイエス様であれ御釈迦様であれ變わるところの無い認識上の帰結である。

 

 

ボーディ・サットヴァが「惡を忍受」するのは此の世には「惡」が「無い」のでは無く半分「有る」からなのだ。

尤もキリスト教其のものからすると「惡」はほぼ全的に「有る」のである。

 

だが禅宗では主に其れが「有る」との認識其のものを妄想として捉えることであらう。

故に無論のこと禅宗では「眞我」なるものもまた区別しない筈である。

 

 

だが我が宗教的思考には「眞我」が登場する。

「眞我」を設定する佛法はおそらく異端なのであらう。

 

其れも佛法にとってのおそらくは異端なのだ。

だがことキリスト教側から観ればみしろ其の方がまともな宗教の教えにこそ見えることであらう。

 

さて「惡を忍受」するのは其の「眞我」である。

「眞我」=ボーディ・サットヴァ=菩薩なのであらう。

 

ではそも何故ボーディ・サットヴァは「惡を忍受」するのか?

何故なら此の世の全てはまさに其の「惡」と「善」の對立関係の中にこそ犇めいて居る。

 

何故さうなるのかと言えばズバリ我我認識力を持つ生命はほぼ例外なく母ちゃんの股の間より生まれたものであるのだから故に。

そんなもんが神其のものだったりまた佛其のものだったりする筈が無い。

 

つまるところ元元生命とはそんなもんなのだ。

即ち「惡」と「善」を即ち「清」と「濁」を要するに「聖」と「俗」の弐面を併せ持つ神其のものや佛其のものと對立しつつ大地に根ざす者である。

 

まさにさう云う状態を知ることこそが所謂「慈愛」であり「神の愛」と言うのではなからうか。

 

 

ではより純粋な意味での「無い方の佛法」の教えとは?

 

ほれみよ、ココにかうしてちゃんと筆にて書かれて居る。

 

「最も苦しい時が最も辛抱の必要な時である」

 

「最も苦しい眞夏の温暖化こそが最も辛抱の必要な時である」

 

どうも当たり前のやうな気もまたするが其れがあくまで正しい認識である。

 

源義経源頼朝の援軍に向かう途中に亀井水のある龍泉寺を訪問し、産土の神である津賀田神社に参拝した。武運長久を祈願した時に激しい雷に会い肝をつぶして般若心経を読誦し、写経をした後には落雷は起きなくなった言い伝えがある。また、平清盛により流刑となり、治承3年(1179年)に井戸田にきた太政大臣藤原師長龍泉寺の庭を好んで訪れ、放免されるまで幾度も訪れている。ー龍泉寺 (名古屋市瑞穂区) - Wikipediaより

 

尚此の御寺はかうして壱癖ありつまりはアノ源頼朝等もまた古くは関係して居た寺である。

だが其の亀井水なのかどうかは知らぬが丁度営業マンが此の寺に入って行き何をするものかと観察して居たらイキナリ其の頭に蛇口から水を出しかけて居たのである。

 

外でする仕事は今後左様に須らく苦行化しやう。

問題は其れがまた何でさうなって行ったのかと云う点にこそありまずは其れを考えて行くことが現行文明批判の端緒につくことなのだ。

 


天使のリングと仏像の”後光”はもともと同じものだった!?仏教芸術と西欧美術の知られざる起源 | アート - Japaaan

 

矢張りと云うべきかさうなのか。

 

さて宗教界には所謂「梵我壱如の思想」梵我一如 - Wikipediaがあり「眞我」を設定する思想には其れに近い点が無いとも言えません。

然し個人的にはキリスト教などもまた「梵我壱如」となることが目標であるのやもしれずまた密教系の思想などもキリスト教の異端に近い思想なのかとそんなこと迄たまに考えぬ訳でもありません。

 

いずれにせよ「慈愛」や「神の愛」を理解せんが為には其の「惡」との対峙こそがまずは前提となる。

よって浄土教はむしろ其れをこそやって行った訳である。

 

「南無阿弥陀佛」

「南無妙法蓮華経

 

此の念佛や所謂御題目は「アーメン」と云うこととほぼ同じことでせう。

つまりは其れが「全知全能の神」への帰依と云うことでは無く「阿弥陀佛」や「久遠實成の佛」への帰依としての信仰となるのである。

 

 

勿論わたくしはあくまで理性的には原始仏教並びに禅宗を支持致しますが「惡」が想念では無く實體ー的なものーである以上其れと闘わんが為の眞我ーとしてのボーディ・サットヴァや天使ーの存在をあくまで「有」として捉える訳だ。

 

さて其のボーディ・サットヴァはさうして「惡」を忍受致します。

此の世はそんなまさに我慢のならぬ「惡の巣窟」であるが彼ボーディ・サットヴァは其処にあくまで「佛の慈愛」=「神の愛?」を御示しになるのである。

 

逆に申せば「現代人」に欠けて居る最大の認識がまさに其の「両義的」であり「寛容」な認識でありまた其のことは「社會の合理化」により必然としてさう成らしめられたところでのものとなる。ーさうして現代人は価値の壱義的普遍視を強いられて居るー

 

例えばイエス・キリストは「汝の敵を愛せ」とさう述べられたがまさに其れが現代人に取り最難関での命題であることだらう。

だって敵は普通憎くてしかもハッキリ言って死んだ方が良い奴等ばかりではないか。

 

だけれどもあえてイエス様はかって其の眞逆のことを仰られて居る。

まさに其のやうに「聖なる認識」とは「壱般的認識」の逆方向を流れて居るものなのだ。

 

また彼ボーディ・サットヴァもまたさうして「惡」を受け容れる。

おおボーディ・サットヴァよ即ち「天使」よ!

 

汝はもしや惡なのか、そんな惡の化身としてのサタン其のものなのか!!

 

いえ「惡」其のものはまさか「惡」を受け容れられぬ。

逆に「善」其のものの者こそが「惡」を受け容れやうともがくのです。

 

藻掻く?

さう、藻掻く。

 

其の藻掻く様こそがボーディ・サットヴァの智慧でありイエス・キリスト智慧其のものなのだ。

でもそんなややこしい弐元論などは!!!

 

 

さても君は今何を申したのか?

いえ「梵我壱如」の方が樂でせうとさう申しました。

 

此の馬鹿者めが!!

イザ「梵我壱如」の方ですと其れはあくまで古代印度思想となります。

 

でもわたくしの場合は「梵我壱如」思想を受け容れぬ。

だから其処にアートマンー眞我ーが出て來たにせよ其れはあくまで弐義的なアートマンー眞我ーなのであり唯壱のアートマンー眞我ーなのではまさか無い。

 

また余計に話を難しくして來ましたね。

いいでせう、とりあえずは「惡」を忍受致します。

 

ですが「惡の詩人」は例えばかのボオドレエルシャルル・ボードレール - Wikipediaのやうに惡たれな詩人は忍受致しかねます。

尤も其のボオドレエルの「惡の華」などもまた惡の許容の試みだったのだとも申せませう。

 

 

「苦樂不二ー苦の中に樂あり 樂の中に苦ありー」

 

人間は認識の仕方がそも弐元的ですので苦は苦であり樂は樂でありまた幸せは幸せで不幸は不幸、さらに美は美であり醜いは醜いとさう壱義的認識をしがちですが其の認識の仕方に限り「眞理」ではありません。

より正確には其れは「人間的な癖のある認識」であり「眞理」方面を向く認識とはならない。

 

では「眞理」方面を向く認識とは何かとあえてソコで問えば、其がまさに、

 

「苦の中に樂あり 樂の中に苦あり」

 

なのだ。

 

要するに「縁起的に規定される現象界は相剋し且つ相即する弐義的ー多義的ー関係性に終始するであらう」認識世界なのです。

故に「苦」其のものや「樂」其のものを抽出したと思い其れに浸り切り喜んで居たらドツボに嵌まりました的な「認識の上での罠」がそも其処には仕掛けられて居るのです。

 

 

「愛の中に憎しみあり 憎しみの中に愛あり」

「善の中に惡あり 惡の中に善あり」

 

「利口の中にバカあり バカの中に利口あり」

 

そんな風にむしろ全的にさう規定されるのです。

故に結果的に其処での「壱義的な解釈」はまさに思い込みや洗脳の対象としての認識にしか成り得ず。

 

例えば、

 

「幸不幸」の其のどちらを選びますか?

 

とさう文明がどちらかを選べとさう申します。

 

ですが其の「設問」其れ自體がオカシイですね。

何でオカシイのかと言えばまるでみんなに「しあわせ」ダケを選べとさう言いたげなつまりは幼稚な設問其れ自體、幼稚なお答え其れ自體がブーッ、もうまるで間違って居ます。

 

よって正しくは、

 

「幸せの中に不幸あり 不幸の中に幸せあり」

 

なのだ。

 

其のやうにおおまさに多義的な解釈であり認識こそが我我個が目指すべき『「惡」を忍受する認識』でなくて何なのでせう?