目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

無駄なことには決して使われない「理性の力」ー+味噌煮込み飯と筆付けペン及び名古屋弁の御話ー

無駄なことには決して使われない「理性の力」ー+味噌煮込み飯と筆付けペン及び名古屋弁の御話ー

 

 

 

 

女優松原千明さん、64歳で死去…モデルのすみれさん母・俳優石田純一さんの元妻 (msn.com)

 

だから還暦を過ぎれば人間は何時死んでもおかしくは無い。

 

 

今日、午後から日が翳るとどうも寒い。

だが午前中は布団を干して居たので其れをつい先程取り込んだ。

 

左様に潔癖な人は毎日布団を干さねば気が済まない。

其れどころかわたくしは布団でも毛布でもお構い無しに丸洗いする。

 

だから寝袋が壱番良いのだが實は冬用の物を持って居ない。

其の寝袋はカインズなどで安く売られて居る物はダメで例えばコールマンの物ならば頻繁に洗っても長持ちする。

 

其の高級アウトドア―ブランドのコールマンの物が五年位前からか安く売られる物なども出て来た。

特に此処日本では政治が悪く皆金が無い=貧乏化したのでたとえコールマンの寝袋でも参千円位で売られるやうになった。

 

またデイパックでも半年位前に新瑞橋のイオンに壱万以下のコールマンの物が出たが買おうと思い次の日に行くと其れはすでに売れて居た。

いずれにせよ自分の場合はデイパックだらうが靴だらうが汚くなると全部丸洗いなので高級品は使わずに今の弐千円位の物で充分なのやもしれぬ。

 

 

また服は澤山持って居るが皆古着である。

其れも恰好良い古着では無く弐、参拾年前の自分と親父の古着である。

 

だから見た感じ我はむしろ貧乏臭い奴なのだ。

其れも中身は至極高級なのだけれども。

 

但し弐、参拾年前の服などは上っぱりだけさうである。

即ち下着やシャツやズボンは勿論もはや入らぬので新調するしか無い。

 

 

さて午前中にかかりつけ医へ出向き薬を貰って来た。

其処で先生ー中学の先輩で名大医学部卒ーが母親ー女医ーを介護した時にカメラを付け其れでもって外出時には監視して居た旨を聞いた。

 

そんな女医ですらさうして老いるとボロボロになってまるで子供のやうにいや子供以下の存在となって仕舞うのである。

ある時などはベッドの横で完全に倒れて居たさうである。

 

家の場合も實は弐月に小火がありもしも我が家に居なければ家が全焼して居たことだらう。

そんな訳でこんな平和な日本であれ現存在の生はほぼ例外無く日日戦闘状態である。

 

そんな戦闘状態ばかりだと息が詰まるので、

 

1.また「赤味噌煮込みおでん飯」を作り食った

2.「筆付けペン」を新たに作った

 

勿論其れは件のキッチン大友の赤味噌おでんを使用したものだが、本日はトッピングが違い総合評価8位でのなかなかに美味い飯となった。

赤味噌汁ー料亭の味ー+ちくわ四本を其処に加えしかも電子レンジによる加熱時間を7分位としより煮込んだ感じを出してみたところ結構美味いではないか!

 

此れにネギが入ればもう完璧だらう。

 

但しキッチン大友の赤味噌おでん其れ自體には最高でも7の評価しか出せず家の場合は8が合格点なのでヤッパリ不合格なのである。

が、兎に角まあ何とかイケる。

 

 

新作の「筆付けペン」は画像が無いと説明にとても時間がかかる。

要するに自作の竹の軸ー拾五年程前に庭から伐り出した竹で作った軸ーにPARLEYと刻印された超大型14金ペン先付きの首軸を付けたもので實は其れが滅茶苦茶にマニアックな付けペンなのだ。

 

尚万年筆としても使えるやうにした積もりだったが今確かめるとエボナイトペン芯とペン先の隙間が大きく空き過ぎて居りよって毛細管現象が働かず万年筆とはなって居ない。

ならば別に付けペンでも良いがまたエボナイトペン芯を温め軟らかくし加工すれば勿論万年筆としても使えることだらう。

 

其のエボナイトペン芯はかっての伊太利亜のメーカーOMASの物である。

 

などとサラリとこんなことを書いて居るが今やOMASのエボナイトペン芯やPARLEYと刻印された超大型14金ペン先などは万年筆愛好家に取り御宝級の御品である。

特にPARLEYと刻印された超大型14金ペン先などは其れも欲しがる人ならば多分五万程で引き取って呉れることであらう。

 

尚自分も此のペン先がPARLEY版だとはまさか思って居なかった。

なんとなれば其の刻印がペン先の根元の方にありオリジナルの萬年筆の状態だとまるで其れが見えない訳だ。

 

其のペン先を引っこ抜くと分かる訳だが以前其れをした時にはまるで気付かなかった。

でもって本日其れをルーペー鉱物のルーペーでもってよーく見てみたところ「PARLEY」としかと刻印されて居るではないか。

 

其の恐るべき金ペン先に就いては實は壱つの物語があり今カンタンに其れを語ることなどは出来ない。

いずれにせよ我はあくまで其の萬年筆の方が本職ですのでまず普通のことはやって居ないのでありつまりはやること為すことが兎に角マニアックな訳です。

 

 

では其れにて文字を書いてみやう。

まずは古く大きな六角形のインク瓶の中のパイロットのブラックインクに其れを浸す。

 

さあ、書くぞ。

ガリッ。

 

何だ、おかしいぞ?

ガリッ。

 

さうなんだ。

實は先端部のイリジューム合金が半分取れたものを使って居るのだ。

 

即ち以前に改造萬年筆として此の金ペン先を使って居たが何かの拍子にイリジューム合金が半分取れたのだった!

ならばカンタンな話だ。

 

ルーペで視つつ片方のイリジューム合金も鋏にてCUTす。

さすれば金直書きの付けペンが完成するのである。

 

で、ソコの先端部を鑢で成形すればすぐに滑らかに書けるやうになるが我は其れはせずかうして書いて居るうちに滑らかに書けるやうにするのである。

だからもうやってることが全然世間並では無くほぼ「万年筆の仙人」化して来て居るのである。

 

 

そんな訳で相変らずマイペースな我ながら實は午前中はまさに「世界の破滅」を心配したりもして居た。

だけれども世間でのことは結局認識として拘るべきものでは無いやうにもまた思う。

 

まず問題は其の「イデオロギー對立」のことだ。

ですが認識上の眞理としてはあくまで、

 

覇権主義(新旧共産圏としての露西亜と中國)⇔西側自由主義陣営

 

との對立のことなので、

實は其処に「相剋」し且つ「相即」する相互依存関係を築かぬ限りいずれにせよどちらへ傾くにせよ世界は破壊されて行く。

 

其の「共産主義」には「自由主義」や「資本主義」の対概念としての體制的意味が元元付与されて居る。

だからマルクス主義が生まれたのは體制史としての必然なのであり其れが即悪だと云う訳では無論のこと無いのである。

 

むしろ「共産主義」乃至は「社會主義」は地球環境や地球資源の面から捉えればより望ましい體制なのだと考えられやう。

逆に申せば、

 

自由主義」や「資本主義」壱本槍にて此の侭文明が突き進めば文明の崩壊はむしろ早まるのだとも言える。

 

 

ですので其処に於ける正しい認識とは、

其処に「相剋」し且つ「相即」する相互依存関係を築くと云うことにこそ尽きて居る。

 

勿論厳密には露西亜はすでに共産圏では無く只の権威主義體制ながら其れでも其れは米國のやうな「欲望への革新國家」とはまた違うものである。

 

尚西側自由主義陣営に於ける価値観こそが正しいとさう刷り込まれて居る日本人がまた多いことだらうが其れは誤りである。

其の「正しい」認識をしたいのであればむしろ双方を見詰めて行かねばならない。

 

またゼレンスキー政権に於ける価値観の選択は誤りである。

さらにプーチン政権に於ける価値観の選択は誤りである。

 

またさらに習 近平政権に於ける価値観の選択は誤りである。

おまけにキシダ内閣は其れ以前に価値観の選択が誤りである。

 

じゃどーすんだ?

どーにもならんわな。

 

 

ですので、あくまでわたくしが述べて居るのは政治家としての其の國のトップの頭の出来が悪いとさう言うて居るのだ。

だからそんなもんは幾ら考えたにせよ元元頭が悪い話なのでもはや何をやっても治らんのだぞ。

 

ほんならどーすんだ?

知らんがな、ワシャそんなもん。

 

おみゃーらの頭がサイコーに悪いわ。

おみゃーらの頭が元元肥溜めに落ちとるんだわ。

 

しっかしきったねえナゴヤ弁だなー。

 

いやナゴヤ弁は美しいぞ。

ほれ、たわけのおみゃーらはまー死んでちょー。

 

 

…酷い。

ひどないわ、あんたの認識だーけがとろいんだわ。

 

…臭い。

何がくっしゃあだ?

 

おみゃーいっぺん肥溜めにでもモロに落ちてみやー。

 

 

…うんみゃあなあこんな味噌煮込み飯がよー。

 

嗚呼、味噌語が!!

 

さうなんだ、味噌煮込み飯には其の味噌語こそがむしろサイコーに似合う。

ゴヤ弁とはな、其の味噌語だ、味噌語。

 

うーん、もしや関西弁以上にクドクて臭くないですか?

そんなもんあったりまえだがや。

 

関西はな、元元オワリのけりゃー(家來)だわ。

関東はな、元元ミカワのけりゃー(家來)だわ。

 

 

でもってかやうにナゴヤは本音の上ではいつも威張るのでみんなに嫌われ所謂「ナゴヤ飛ばし」をされて仕舞うんですね。

いずれにせよかうしてイザ世界情勢が逼迫したものとなって来ますともうマジでもって實存的価値どころでは無くなって来がちです。

 

 

實存的価値⇔社會的価値

 

此処でもって實存的価値のみを生きやうとしても相互依存の関係性から實存的価値は社會的価値とは無関係ではあり得ない。

従って實存的価値は實質上社會的価値に大きく制約を受けて行かざるを得ない。

 

よって戦争中には其の戦争を讃美する文人や画家また作曲家が出たりもまた致します。

なんだけれどもあくまで理窟上は社會的価値は實存的価値に對し絶対的な優位性を保つことなどは出来ません。

 

尚何故社會科詩人がゼレンスキー政権を批判するのかと言えば政治家とは戦争をするやうな状況にならないやうに仕事をすることこそが其の責務だからなのだ。

よって徹底抗戦を叫ぶ前にまず戦争をしなければならぬやうにしては決してならぬのです。

 

其の自分の歌とショーの宣伝を國會の場でしたとされる中条議員では無いが民主制が衆愚制へと傾き所謂ポピュリズムの傾向が増大して居り要するに政治家其れ自體の質が落ちて仕舞って居ます。

でもって大衆の側の政治に對する意識も次第次第に沈下して行くかのやうです。

 

だとすればまさに御先は眞っ暗ながら其れでも猶人間は前を向き生きて行かざるを得ない。

何故なら進もうと思ってももはや後ろには進めませんので。

 

 

其処でもって壱つ個人的に気にかかるのが其の「イデオロギー」に於ける堅固な信仰のことだ。

我が論理からすれば其のやうに弐元分離する壱方の価値を頑なに信じれば政治思想の面から決裂し最終的に生き残りをかけた思想闘争へと発展する要するに現實的には武力闘争にまで其れが及んで行くことが避けられない。

 

従って要は理性が其のイデオロギー闘争を如何に制御して行くかと云う論点へと問題は集約されて来る。

なのですが現實的には政治指導者はむしろ其のイデオロギー對決に油を注ぎより大きな對立へと其れを発展させて行って仕舞う。

 

其れが何故さう引き起こされて行くかと言えば「イデオロギー」に對し壱義的な解釈しか示せないからです。

また其のことは政治指導者ばかりか有権者としての大衆、また独裁政権に従う大衆の場合にせよ皆さうなります。

 

逆に申せば「イデオロギー」に對し壱義的な理解、解釈に止まらぬ多義的な思考であり価値の世界を理性が此れ迄に築き上げられなかったと云うこととならざるを得ない。

其の多義的な政治解釈こそが今現存在が目指すべき理性による統治の場のことなのではないか。

 

 

即ち現況とは其の理性が其のやうな多義性を獲得出来るかどうかと云う分岐点に差し掛かって居るのだと見ても良いことだらう。

 

さて其の最終的な課題が突き付けられたところでの理性の場とはあくまで社會的自我としての場であることだらう。

従って我我個は其れを無視することは出来ないがさうかと言ってやれる時にやりたいことをやって置くと云うこともまた大切な實存的価値の實現の場です。

 

よって社會がどうあれ己としてやらねばならぬこと、やりたいことをやる機會は常に個に對し与えられて居てしかるべきです。

どだい自然界の営為は人間の社會がどうであれ常にかうして其れが可能な範囲で営まれて行くものです。

 

畢竟其れも次第に制限はされて行かざるを得ないが其のやうにし得ることを其の都度して行くことの他に現存在としてし得ることはまた無い。

まさに其れが「世界はどうあらうが實存としての価値を貫く」と云うことでせう。

 

 

内藤朝雄 - Wikipedia

受験生・学生へのメッセージ

優秀な人は,自分で勉強し,自分で進化できる人。そのためには優秀な欲望と優秀なエゴイズムが必要。学校頭を自分頭に切りかえろ。頭がよくなるぞ。 たとえ日本が亡びてもあっけらかんとわが道を行こう。

 

内藤 朝雄 | 明治大学 (meiji.ac.jp)より

 

現在明治大學の準教授である其の内藤 朝雄は名古屋市立萩山中学校の参学年後輩です。ーいじめ問題の第壱人者ー

おそらく同学年に直木賞作家の大島 真寿美が居た筈ですが其れも確たる情報では無い。

 

此れ迄にも何度か引用して居るが此の受験生、学生へのメッセージの部分は何度読んでも凄い。

内藤はかって家から弐キロ程のところに住んで居たやうで、父親は矢張り何処かの大學の教授だったらしい。

 

とある県立高校でもって大反抗し退学し🚇の駅の傍で其の教育のあり方を糾弾するビラを配り兎に角彼は教育制度と云うデカい社會的な怪物と独り闘って居たと聞いて居る。

そんな彼が其の後独力にて學び道を切り開き大學の先生となった訳だ。

 

 

「たとえ日本が亡びてもあっけらかんとわが道を行こう」

 

特に此の言葉に自分は常に教えられても来た。

其れは、

「たとえ世界が亡びてもあっけらかんとわが道を行こう」

 

とも言い換えられる。

教育とはほんたうは其のことをこそ言わねばならぬのではないか。

 

畢竟教育とは周りのことに振り回されぬ己が理性を築き上げんが為に為されるべきことなのではないだらうか。

また政治家などにも特に國の指導者などに是非學んで頂きたいのがまさにそんな意味での無駄なことには使われない「理性の力」のことである。