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文明批判と心の探求と

世紀末文學に於ける破滅性に就いてーオスカー・ワイルドに於ける耽美的破滅の是非+鉱物ショーのことなどー

世紀末文學に於ける破滅性に就いてーオスカー・ワイルドに於ける耽美的破滅の是非+鉱物ショーのことなどー

 

 

 

 

 

1882年ニューヨークにて オスカー・ワイルド

 

 

岸田総理が新型コロナ感染 夏休み中はゴルフに伊豆旅行…チュニジア訪問取りやめ (tv-asahi.co.jp)

 

そも首相に其の夏休みが何であるんだ?

そも病院や國會議員に何でまた夏休みがあるんだ?

 

病院の職員と國會議員は休み返上で働いた方が良くはないか?

キシダ氏もゴルフなんぞやって居ないでちゃんと働かないからコロナに罹るのだぞ。

 

岸田内閣支持率が急落、旧統一教会問題が影響-毎日では36% - Bloomberg

ドツボオ~~~~~~~~~。

 

🐶キシダは折角早稲田を出てるのにアベの國葬の件と此のコロナ感染でもってもはや終わったも同然である。

 

 

国葬中止求めるオンライン署名呼びかけ 上野千鶴子・東大名誉教授ら (msn.com)

 

其れに私も是非署名させて下さい。

軍國主義反對!!

 

 

中曽根康隆・衆院議員、旧統一教会の激励会に出席 支援求めあいさつ (msn.com)

 

元元アンタの右翼爺さんが其の統壱教會を利用し反共體制を築かうとした。

だが結果的に自民党邪教統壱教會の教祖に利用され國の根幹ー精神の部分ーを汚された。

 

左様に残念ながら自民党はこんな御目出度き人人ばかりだよ。

 

 

旧統一教会と関わり、枝野氏・安住氏ら立民6人判明…泉代表「ごまかそうとしているのが自民」 (msn.com)

 

さらにドツボオ~~~~~~~~~。

かうして右も左もアホばかり。

 

 

 

もはやアホらしくて何も書けぬ。

アホらしくて何も考えられぬ。

 

 

でも書かう。

其れもあえて藝術のことに就き述べる。

 

では藝術とは何ですか?

藝術とは例えば反對への愛です。

 

また藝術とは高貴さと下品さを同時に持つことだ。

かって太宰 治は藝術とは「豚の鼻」であり何やら汚くもあるが🌸の香りを知って居ると云うやうなことを述べたがまさしくさうしたことだらう。

 

さてそんな両義的な藝術の世界が対象とするものこそが美です。

以下にワイルドの文學を理解せんが為の良い資料の部分を貼り付けて置きます。

 

 

早すぎた美の殉教者 オスカー・ワイルド [Oscar Wilde] - Onlineジャーニー - Results from #3 (japanjournals.com)

 

この時代のプロテスタントの思想は資本主義と深く結びつき、グロテスクな様相を示していた。「低賃金にもめげない忠実な労働を神は深く喜び給う」というのである。支配層は、自分たちはいかにして富を増やすか思案しながら、その一方で労働者たちに勤勉と清貧を説いていたわけだ。産業革命後の労働者は効率よく製品を量産するためのロボットであり、個人の能力を発展させるようなものはすべて「悪い」として潰された。こんな時代にあって「神はいつもおまえを見ている」という言葉は、もはや宗教ではなく脅しであろう。デカダンスと反プロテスタント主義より

 

19世紀末の退廃的なデカダンス文化やダンディズムは、このような風潮に反して現れた、反プロテスタント主義、反全体主義の文化といって良いだろう。「健康的で質素でよく働く」まるでロボットか家畜のような人間が求められる中、不健康でアンニュイなライフ・スタイルが反抗の象徴、一つのポーズだったのである。ワイルドは個人主義の必要性を、その著作「社会主義下における人間の魂」の中で説いており、イエス・キリストは最大の個人主義者だったとも記している。ワイルドが抵抗したのは、ねじ曲げられた当時の道徳観であって、宗教そのものではなかったのだ。後に発表される童話「幸福な王子」は、信仰心なしには書けない作品である。 ワイルドを始めとした世紀末の芸術家たちは、退廃的な背徳者である点ばかり強調されがちだが、当時の時代背景を考えることなしには、彼らの立場を正しく捉えることは難しいだろう。デカダンスと反プロテスタント主義より

 

 


オスカーワイルド - Bing images

 

 

藝術とは其の反對のものへの盲信のことであり且つ其れへの愛のことだ。

 

其の反對のものは其れこそ太古の昔より人間界には満ちて居た。

では何故反對のものが時に讃美されねばならぬのだらう?

 

何故なら此の世では「正しい」とされる価値が往往にして正しくは無いからなのだ。

 

例えば、保守派としての自民党は正しい。

とさう思っても其れは壱皮剝けば逆に亡國の輩でありまた邪教に利用される馬鹿政党であるに過ぎない。

 

また学校の先生や自衛官や警察官だけは正しいと思って居たらむしろ裸にされ盗撮されちゃった。

いや其れだけでは済まずに密造銃をブッ放され元首相が殺されちゃった。

 

 

ですが其のことは何も今に始まったことでは無くむしろ昔からさうだったのだ。

 

むしろ其のことを教えて呉れるのがかのオスカー・ワイルドの如き文學者の生き様です。

さう其のオスカー・ワイルドの生き様乃至は文學こそが時代に對する反骨精神の表れ其のものだった。

 

ワイルドは今の眼で見てもほとんど変態文學野郎です。

見た目がどう見ても変態なのだし事實彼は美少年への愛に生きた性倒錯者でした。

 

 

なんですが此の解説の部分からも所謂世紀末としての時代状況が克明に浮かび上がって来る。

個人的には其の世紀末としての文學世界こそがわたくしの専門分野のやうなものでして其れが何であんなに百花が繚乱するが如くに咲き乱れたのだらうとさうずっと思って居たのですが今回此処を読んでみて初めて其の理由が分かりました。

 

此処にあるが如くに其れは反ロボット化主義であるとか美を排斥しつつ歩むまさに味気ない合理的世界観への反駁だったことでせう。

つまりは近代的な美への禁欲生活に對する疑念であり拒否の部分です。

 

即ち世紀末文學や世紀末絵画が描き出したものとは要するに合理主義批判だったのではなかったか。

逆に申せば、現存在は只さうしてロボット化ー家畜化ーされ其処で近代的に調教されることで美の本質を理解することが次第に出来なくなって行く。

 

つまるところ其のまさに近代的な禁欲體制の中で人人は「美しいもの」からの感性の救済を受けられなくなって行くのです。

まあそんなことはアノ美輪 明宏氏なども以前より述べられて居た訳ですが其れは矢張りほんたうのことなのだらう。

 

 

但し、美しいものは文化のみに因るものでは無い。

即ち言語以前の世界=自然界にはむしろ美しいものばかりが満ちて居ます。

 

ところが其の自然に限ってかうして近代世界では破壊されて行く訳だ。

 

 

さて結局ワイルドは頽廃的な背徳の文學者に過ぎなかったのか?

でもわたくしにはさうは思えない。

 

何故なら昔わたくしはワイルドの「幸福な王子」幸福な王子 - Wikipediaを読みつい涙ぐんだことが何度もあったからなのだ。ー子供の頃より何度も繰り返し読んだー

 

宝石で人助け?童話「幸福な王子」で愛を託された宝石たち | カラッツ Gem Magazine (karatz.jp)

 

今でもこんなに美しい物語は他に無いとさう思って居る。

 

勿論現實的にはまさか燕がこんなことをする筈が無い。

ましてや王子の像が其の施しを燕に頼んだりはしないことだらう。

 

だからまさに此れこそが童話としての文學世界のものなのです。

 

さて重要なのはまさに其の燕と像とが此の善行を行ったことです。

また其れは自然と文化が組み合わさり救済の行為を行ったと云う象徴的意味なのだとも思う。

 

 

ーやがて冬が訪れ、王子はかつての輝きを失い、みすぼらしい姿になり、南の国へ渡り損ねたツバメも徐々に衰え、弱っていく。 自らの死を悟ったツバメは最後の力を振り絞って飛び上がり、目の見えない王子にキスをし、やがて彼の足元で力尽きる。その瞬間、王子の鉛の心臓は音を立て二つに割れてしまった。 みすぼらしい姿になった王子の像は心無い人々によって柱から取り外され、溶鉱炉で溶かされたが、鉛の心臓だけは溶けず、ツバメと一緒にゴミ溜めに捨てられた。

天国では、下界の様子の全てを見ていた神が、 天使に「この街で最も尊きものを二つ持ってきなさい」と命じ天使を遣わせる。 天使はゴミ溜めから王子の鉛の心臓を、そしてツバメの骸を持ってくる。 神は天使を褒め、そして王子とツバメは楽園で永遠に幸福になった。ー幸福な王子 - Wikipediaより

 

 

さうして善行を行いし燕と王子の像はしかしながら悲惨な結末を迎える。

さう、實際の世の中と云うものはまさにそんなもので「清い心根」が即評価されるやうな世界なのでは無い。

 

ところが壱人だけ其の善行を見て下さって居た方が居てまさに其れが神でした。

さうだ、神は決して其の善行を見逃されはしない。

 

神は全てをさうして見詰められ、常に正しく其の行為を裁かれる。

故に燕の魂と王子の像の魂はさうして天國へと入る。

 

 

嗚呼まさに其れはキリスト教に限らずまさしく何教であれ善行だと言えることでせう。

 

此処に曰く、

「己を捨て他を救くべし」

 

 

 

ー解説


人々を救いたいと考え自らを犠牲にする事を躊躇わないが動く事の出来ない王子と、 少しマヌケでありながら自らの目的(仲間等のいる暖かい国へいく)を果たしたいが次第に博愛の目的に目覚め実務に勤しむツバメは当時の時代の象徴であり、この作品では思想と行動は別人格である事を示唆しているが、生徒や子供に伝える場合、何かを考えた際はそれを実行して初めて一連である点と、自身ができる事は犠牲を払ってでも最大限に行うべきである点を明確に伝えるべきである。 成人した大人が読む場合は、世間の利益の為に行う自己犠牲はやがて自らの利益(幸福感と楽園へ行くという実利)になる点と、ツバメの様に人生は何処かで覚悟を決めなければ楽園へ行く事は出来ないという点を摘むべきである。ー幸福な王子 - Wikipediaより

 

 

まさに其の通りでのことなのですが、問題はそんな反骨の文學者であるオスカー・ワイルドが此のやうなつまりは宗教的な意味での自己犠牲に就き何故あえて此処に描き込んで居るのかと云う点です。

つまるところは自分がやって居ることとはむしろ眞逆のことをかうして書いて居るのだ。

 

勿論あくまで童話ですので子供に対し贅沢をして同性愛をやり時には牢屋へ入りなさい、などとはまさか言えぬ訳だ。

なんですが何処か此れはワイルドの本音だったやうにも思えて来てなりません。

 

つまりは欲望の空しさと云うものが此の世界には常にある。

さうして其の欲望の多寡に応じ応報される世界の質がまた変わって来る。

 

 

例えばデカい欲望を参百年も振り撒き続ければ其れは地球が壊れやう。

逆に慎み深く神佛を信じ小さくー限定しー生きて居れば地球もまた文明も壊れることなどはよもや無い。

 

だから其れは究極的に社會が是とするやうな価値観に浸り続けて居ては現存在は決して天國へは入れないと云うことを作家は其処に述べたのだと思う。

とのことでようやく辻褄が合いました、矢張りと申すべきかワイルドは此の童話でもって痛烈に社會のあり方を皮肉って居たのです。

 

 

さらに穿った見方を致せば、此の童話でワイルドは文化のアホ臭さに就いても述べて居ります。

即ち其の王子の像其れ自體がアホな文化としての産物でせう。

 

其れ即ちさうして数数の宝石でもって飾り立て思い切りに威張った像にして居る訳だ。

 

ーその像には、死んだ王子自身の魂が宿っており、ゆえに自我を持っていること。王子が、かつて宮殿にいた頃には気付かず知らなかった、この町の貧しい、不幸な人々の実態を知り嘆き悲しんでいることである。幸福な王子 - Wikipediaより

 

即ちほんたうの美とは其の若くして死んだ王子の魂の中にこそ宿る。

さうしてー搾取によりー實存を苦しむ民人を憐れむ心の中にこそ其れは宿る。

 

 

でも宝石=モノは結局役に立ちます。

まさに其れは立場の弱い貧しい人人の暮らしを救うのです。

 

故に💎其れ自體が悪いのでは無く其れを像などの権威化、又は権力構造の美化の為に使う社會の上層部の認識こそが曇って居るのだ。

それにつけてもまるで自民党の悪行の数数とまさに瓜弐つでの御話ではありませんか。

 

だからそも何が汚ねえのかと申せば畢竟其れは社會のヒエラルキー其のものが腐って居てしかも曇って居るのです。

ではワイルドはそんな腐って居てしかも曇って居る社會を革命でもしたらうかとさう目論んで居たのですね?

 

いいえさうではありません。

ワイルドはね、いま壱度神の全能の御力に縋らうとしたのです。ー世を去る前日にオスカー・ワイルドは念願だったカトリックへの改宗を果たしたー

 

だから此の童話はあくまでワイルド個人の宗教心に支えられたものであり其れ以外のなにものでもありません。

 

 

ーワイルドの精魂は尽き果て、もう創造のための集中力さえ見つけられそうになかった。彼は強力なアブサン酒と友人からの支援に頼った日々を送る。ズボンには穴があき、滞在先のホテルは料金未払いで追い出された。更に健康も悪化し、激しい耳の痛みなどに悩まされ始める。

1900年9月、パリの街は万博で賑わっていた。エッフェル塔が完成し、地下鉄も開通。新しい時代の幕開けである。そんな中ワイルドの体調は悪化し、「アルザス・ホテル」の一室で寝込んでいた。ー「自然は芸術を模倣する」アンチミメーシスとデカダンス | ロンドンアートめぐり (japanesewriterinuk.com)より

 

画家でも文學者でも音樂家でも何でもさうですがーあくまで藝術的感度に於いてはさうー其れ即ち彼等の心の感度は明晰なのでかうして何でも見えて居るのですが實は反対方面ー破滅性、悪魔性の部分ーをも同時に見据えて居ざるを得ない。

よって壱歩間違えばかうしてワイルドの如くに人間以下の者ともなり下がる。

 

他にも芥川や太宰然りまたゴッホやゴーガン然り。

ヘルダーリン然り啄木然り正二然り槐多然り。

 

藝術家とは左様にプラスとマイナスの生の側面を同時に見詰め続けて居る者なのだ。

 

まあわたくしも確かにズボンが常にヨレヨレですがソコは余り気にして居りません。

何故なら其のワイルドの苦しみを思えば此の位のことはまさに屁の河童でせう。

 

 

ー29日、若い頃からの念願どおりカトリックに改宗し、その翌日である1900年11月30日午後1時50分、オスカー・ワイルドは大脳髄膜炎で息を引き取る。46歳だった。枕元にはロス、ターナー、そして宿の親切な主人の姿しかなかった。
かつて「芸術生活とは長い自殺行為である」と語り、「人生は芸術を模倣する」と書いたワイルド。芸術至上主義を謳った彼は、自ら破滅の美学を生きてみせることで、その人生を芸術作品として後世に残したのである。ー
「自然は芸術を模倣する」アンチミメーシスとデカダンス | ロンドンアートめぐり (japanesewriterinuk.com)より

 

先にも申した通りにワイルドはプロテスタンティズムと云う新たな信仰の形を新たな時代精神と見て且つ其れに反抗して居たことだったでせう。

彼は其の近代生活其れ自體に對し疑念を抱いて居たのやもしれない。

 

其のワイルドの破滅主義、破滅の美學は明らかに我が國の文豪達にも深く影響を及ぼして居る訳です。

では藝術上の其の破滅性が悪いのかと言えばむしろわたくしは其れに對し肯定的であり且つ同情的です。

 

尚其の「藝術至上主義」に関しては元元我もまた藝術至上主義者です。

但し近年は其の「藝術至上主義」と云う「人間中心主義」に對し違和感を覚えるやうになって来て居る。

 


人間ー文明ー中心主義⇔自然中心主義

其の対立関係に於いてむしろ右側がより強く意識されるやうになって来て居る。

 

 

ーここには、芸術至上主義の考え方が表れている。「芸術は現実を超えるものである」という点はアリストテレスの考え方と一見似ているようにも思えるが、この芸術至上主義は「芸術こそが自然に美を与えるものだ」という自然や人生に対する芸術の強い優位性を示すものだ。つまり芸術>>現実(自然)なのである。これは耽美主義(唯美主義)の「美こそが最高の価値」という思想にもつながる。

こうした考えはワイルドだけのものではなく、ワイルドの生きた1800年代後半の西洋に出てきた思想の1つであった。

当時の急速な科学技術の発展と社会の変化は、多くの人々に「現在の文明はピークに達しており今に崩れるのではないか」という恐れを抱かせた。そうした社会的な不安とアンチミメーシス、耽美主義が影響しあい、19世紀末にはデカダンス(退廃主義)という芸術のムーブメントも生まれた。ー「自然は芸術を模倣する」アンチミメーシスとデカダンス | ロンドンアートめぐり (japanesewriterinuk.com)より

 

確かに美こそが永遠性を獲得するところでの文化的価値です。

文化は社會関係が埋没させるところでの其の何か大事な価値をこそ発掘する。

 

其れは本物の美のあり方であり最終的には信仰のあり方にもまた連なって行くことだらう。

何故なら藝術家は其処で常に神と👿、佛と魔を同時に見詰めても居るのだから。

故に藝術家は純粋な👿なのでは無く同時に神佛とも繋がって居る両義性者のことをこそ言う。

 

例えどんなに破滅的な生であれ其れは他方で神佛とも繋がって居るだらう生なのだ。

其のことがまずは感度の悪い方方には見抜けない。

 

だから我などもまた高校時代に女性の英語の教師から「太宰はもう読まない方が良いわよ。」と何度も言われましたのですが結局読み切って良かったやうに思いますのです。

で、何で其の教師に私が太宰ばかりを読んで居ることが分かったかと云うに英語のリーダーの教科書に「人間失格」だとか他にもなんだかんだと落書きをして居たからなのです。

 

でもって今回わたくしはまさに其の文學の破滅性の部分に就き論じて居ります。

なのだが其の破滅性の逆方向乃至は対になる部分にはまさに稀なるピュア―な魂の世界、其の純粋で且つ無垢なる天使の如き心根が宿って居る。

 

だが耽美主義は文化至上主義とも言うべき人工的な美の樂園を現出させる。

まさに世紀末藝術とは其の人工的な美の極致を追い求めたものだった。

 

生活<藝術

自然<藝術

 

然し藝術もまた自然には若かぬものだ。

よって、

藝術<自然

なのです。

 

何故ならむしろ藝術は自然からインスパイアされるであらう部分こそがほとんどである。

 

 

ーイギリスの作家、オスカー・ワイルド(1854〜1900年)の有名な言葉に、こんなものがある。

「自然は芸術を模倣する」

これは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスの言葉、「芸術は自然を模倣する」へのアンチテーゼで、アンチミメーシスとも呼ばれる。ー「自然は芸術を模倣する」アンチミメーシスとデカダンス | ロンドンアートめぐり (japanesewriterinuk.com)より

 

まさに此の部分にてアリストテレスの「藝術は自然を模倣する」との命題の方が正しい訳です。

左様に結局は「自然」の価値を何処に置くかと云うことなのだと思う。

 

其の意味では我は今純粋な意味での「藝術至上主義者」なのでは無くむしろ「自然至上主義者」ながらあくまで現存在に取っての生活と自然は別物だとさう考えて居る。

但し其の別物である文明と自然の間の橋渡しとなるべきものが藝術としての意義であらうとさうも考える。

 

何故ならさうして藝術には常人には見えぬものを見る力が宿るのですから。

藝術とはそんな自然への直接の共感力で常にあるべきものなのだ。

 

だがまさしく其の意味に於いて我は「藝術至上主義者」なのだ。

 

 

尚21世紀は其の社會不安が日増しに高まる時代へと突入して来て居る。

世紀末ですらさうして不安だったのですが其の不安は切實なものではよもや無くたった今の不安こそがむしろ本物の不安です。

 

そんな折に我が個人的にして居るのは過去の方をあえて向きまた自然の方をあえて向き現代文明の進歩主義を意図的にカットして行く精神の方向性のことです。

なので其れをして行く方向性での価値こそがむしろ我に取っての重要な価値となります。

 

其の価値をこそ生きられれば他は何も要らぬと云う感じでせう。

 

さて鉱物ショーの入場券を求めあえて行くことと致しました。

 

何せ参年振りですので實に樂しみですがいずれにせよコロナに罹らぬやうにせねばならぬので半分はまるで特攻みたいなものです。

人が集まるところにまるで興味は無いが何故か石が其処にしか無いと云う変な話です。-何故か最近ヤフオクには良い石が出ない-