目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

破壊される自然の哀しみに對する共感の仕方ー「昆虫カタストロフィー」より我我の心を救い出すには?ー

破壊される自然の哀しみに對する共感の仕方ー「昆虫カタストロフィー」より我我の心を救い出すには?ー

 

 

 

 

姜尚中氏 旧統一教会と自民党とのつながりについて「小選挙区制になって有力な選挙マシーンになった」 (msn.com)

 

かうして日本が不純な社會になりつつあるので正しい日本社會を守らんが為に國家権力として👪を守ると云う原理主義こそがそも矛盾して居ります。

むしろ小泉だの安倍だのが居なかった方が日本は正しくあり得たのではないかとさう思われますのです。

 

どだいそんな邪教とくっつき壱體何を守る御積もりなのだ?

守るのは憲法第廿五条でありつまりは國民の生存権のことぞ。

 

だから其の右翼馬鹿論理が元元馬鹿なだけに至極矛盾して居るのです。

尤も左翼もまた莫迦ですのでドッチのバカを選ぶかと云う御話に最終的にはなり結局ボクの場合は政治はダメだと云う結論に至りましたのです。

 

なのでボクは元元教師ですので御勉強の方へ逃げやうとさう思って居るのです。

御勉強して居る時間は政治のこともまた酒池肉林のことも忘れて居られるからですね。

 

 

さて私が此のブログを書き始めた頃からすでに此の文明はヤバいものであることは分かって居たのだと言える。

いやより正確に言えばすでに八拾年代頃より其のことをわたくしは常に感じて居た。

 

感じては居たが当時は何より日日が忙しく其れに就いて考え何かを述べると云う機會は与えられて居なかった。

其れは基本的には今でもさうなのだが其の社會関係ー會社関係ーには大きく振り回されなくなった分其の機會は確実に増えたのだと思う。

 

まずは其の時間の確保のやうな部分が實は社會関係に於いて誰もが許されて居ない。

現存在は、

1.飯を食う為に労働し、

2.人ー他ーに合わせんが為に人間関係を築き、

3.子孫を残さんが為に♀を確保する

 

との価値観を成就せんが為にほぼ其の全生涯を捧げるものである。

 

だが此の参点とも全てが現存在としての認識を曇らせる元凶のやうなものだ。

我は其のことがすでに若かりし頃より分かって居たので其の参点とも適当になって仕舞いむしろ頑張って来たのは藝術に接し感度を磨いたりまた物コレクターとしてほぼ徹底してやって来たことでありつまりは地位や名誉や大金を得ることにはまるで興味が無く且つ子孫を残さうとも其の頃よりまるで思っては居なかった。

 

で其の方面での追求をしない分感度を磨きまた様様に本を読み學を仕込んで行ったのである。

なので其の學の部分を根拠とする己が思考力には強く自信を持って居り我に勝てる奴など居ない位にも實は思って居る。

 

まさにソコがみんなに嫌われるところなのだがだけれどもいざさうなって仕舞って居るものはもはや如何ともし難いことではないか。

でもって参拾代の終わり頃に結局大恋愛にも失敗し破局を迎えた訳だったがけれどもむしろさうなった故に其の後万年筆と石のコレクターであることを思う存分やって来られたのである。

 

 

そんな我なので何ぞ違う視点を文明に対し述べられるのではないかと思い2014年の四月よりヤフーブログにて此処を書き始めたのである。

尤も2003年位から万年筆と藝術を語る掲示板の主筆を務めて居たのでかうして何かを語ることに関してはすでに廿年にも亘りやって来たのである。

 

思えばまさに其れが我に取りほんたうの意味での仕事だったのだと思う。

元元作家の端くれにはなりたかったのだがいじけて居て根気も無くしかもアホーバカでは無いがアホだーなのでこんなものを書く位が関の山なのだ。

 

此処でも我はすでに多くの記事を書き上げ其れこそ宗教から文學、また絵画や音樂、さらに社會批判と様様なことを述べて来て居るのだがむしろ半分位は非常識且つ訳の分からぬことをくどくどと述べ立てて来たのだと自分では思う。

だが其の非常識且つ訳の分からぬことをくどくどと述べ立てること自體が重要なことなのであり何でかと申せば我には我独自でのものの見方と云うものがしかとあるからなのだ。

 

要するに常にみんなとは違うことを言う其の天邪鬼さが我にはしかとかうして仕込まれて居る。

だけれども其れはクレーマーのやうな何でも反対派なのでは無くむしろ若い頃にしかと文學の方を読んだからこそ醸成されし反骨精神のことなのだ。

 

 

だから問題は其の反骨精神が今の我に取り役立って居るかどうかと云うことであり其の意味ではハッキリ言って大いに役立って居る。

 

エッ?

でも其れは役になどまるで立って居ないでせう?

 

第壱アンタはもうボロボロじゃあないか。

其れに金も無いわ子孫も居ないわでまるで橋の下のルンペンのやうなものではないか。

 

いやでも何故かほんたうのものが見えて居るのだ。

世の實相みたいなものが次第次第に見えて来るやうになった来たのだ。

 

其の精神的な気付きと言うか勝利と言うか其れとはまた別に具象的な意味での精神への圧迫度がむしろ日増しに高まって来て居り其れに就き以下に述べてみたい。

つまりは現實としての現象界がむしろ日増しに壊れて行くことへの具體的な懸念である。

 

 

21世紀に於ける大問題とはさうして抽象的なものでは無くつまりは物理的に齎される破壊の側面のことなのでありしかも其れが急速に齎されて居ることなのだ。

即ち自律的なAIが出来るかどうかだとか火星への移住計画が何処まで可能かと言うこと以前に地球が壊されて行って仕舞うと云う環境の破壊の問題なのである。

 

思えば廿世紀に於ける大問題とは體制ーイデオロギーーの選択の問題でありそれこそ國家権力同士がぶつかり合う戦争に於ける破壊のことだったがどうも現在は問題がより具象的でありつまりはより現實として切實なものとなりつつあるのだらう。

なので世界革命をすれば人類は助かるだとか、戦争を止めれば文明は助かるだとかどうもさうした話では無くもっとずっと根本での命題の如きものに化して仕舞って居るのである。

 

地球が壊れる→右だらうが左だらうが皆壊れる

地球が壊れる→實存主義だらうがポスト・モダンだらうが皆壊れる。

 

 

要するに何かかう非常に本能的で且つ本質的な意味での破壊なのである。

例えば五拾年後には、温暖化と海洋酸性化のダブルパンチにて、

 

1.食い物が無い

2.熱い

 

と云う怖ろしい状態が實際に発生する。

 

其の食い物は生態系が供給するものだが其の生態系自體が崩壊に至る可能性が高くあるものとされて居る。

だから其れは邪教の信者がさう言いふらして居るのでは無くあくまで科学的な見解である。

 

何でさうなるのかと申せば、海洋酸性化にて甲殻類の殻が溶けるので其れ等が皆死んじゃう。

するとエサが無くなるので🐟もまた🐳も死んじゃわざるを得ない。

 

また温暖化により大規模な山火事が発生し幾ら植林などしたにせよまるで間に合わぬ程に世界中の森林が大規模に消失して行く。

此の森林火災はまさに今大問題化して来て居ることなのだが今回は其れに就き述べず是非昆虫の絶滅に就いて語って置きたい。

 

 

尚先にも述べたやうに21世紀の大問題とは其の絶滅であり破滅の問題なのだ。

だから其れはイデオロギーが変われば救われるだとか、また宗教的に内面を磨き込んで其れを回避すると云う話ではむしろ無い点こそが怖ろしいのである。

 

勿論宗教的な場で解脱したり神の眷属となれば心は救われるのである。

心即ち精神の領域では安らかに死ねるとでも言うのかそんな境地に達することもまた不可能では無い。

 

だけれどもある面では其れよりも怖いのがそんな物理的な破壊の側面なのである。

 

 

さて個人的にアノ香川 照之が扮するカマキリ先生 - Bing imagesが好きなので香川照之の昆虫すごいぜ! | NHK for Schoolと云う番組を以前から屡視て居るのである。

が我は特に虫が好きなのでは無くむしろ蜘蛛だとか🐛だとかそんな足が多く付いた奴等つまりは節足動物が余り好きでは無いのである。

 

むしろ🐍だとか蜥蜴の方は好きなのだが兎に角アノ足の多い奴等が気持ち悪いのである。

 

だけれども勿論カブトムシやクワガタムシなどの甲虫類は好きである。

其れと我我還暦世代が小学生低学年の頃は例えば家の周りなどにも幾らでもカブトムシやクワガタムシが居たものだった。

 

夏休みに入ったばかりの早朝に父と家から百五拾米東の寶蔵寺へカブトムシを捕りに行くと当時あったデカい木の梢の辺りをカブト虫がブンブン音を立てつつ飛んで居たものだった。

また弐百米西の池の横にあった大木でもカブトムシやクワガタムシを捕まえることが可能だった。

 

其のカブトムシやクワガタムシを家の近辺では見なくなりすでに久しくおまけにカナブンや他の甲虫類も激減した。

其れでもアゲハ蝶はアノ美しいアオスジアゲハをも含め今年などはちらほらと見かけたが庭の山椒の木が枯れたのでアゲハチョウの幼虫を育てる愉しみもすでに無くなった。アゲハ(ナミアゲハ) (imokatsu.com)

 

 

尚我は自然派の人間なので今人生を振り返り樂しかったと思えることはほぼさうした自然に於ける體験のみである。

高校や大學に合格したりボーナスを貰ったりまた👩と付き合うことなどよりもむしろそちらの方が眞の意味での自分の歓びだった。

 

家の庭には参拾年程前までは蝦蟇もまた大蛇も出た。

大蛇は弐米はありまた蝦蟇は弐拾センチ程もあるのだった。

 

中学生位の頃に其の大蛇を海で使う銛にて突いたことがあった。ーさうして突かれながらも其の大蛇は床下へと逃げたー

酷い話であるが、小中学生の坊主の頃は皆そんなもので屡虫なども殺して居たものだった。

 

今思えば其の大蛇や蝦蟇が兎に角懐かしい。

つまりは高校や大學に合格したりボーナスを貰ったりまた👩と付き合うことなどよりもむしろそちらの方が眞の意味での實存的価値だったのではないか。

 

 

NHKオンデマンド | NHKスペシャル 「香川照之の昆虫“やばいぜ!”」 (nhk-ondemand.jp)

 

さて折角夏休みなので我も憧れるコスタリカの自然の様を是非視たいと思い確か壱度視た覚えがあったが此の番組をまた視てみた。

ところが後半に語られる「昆虫カタストロフィー」と云う概念に驚愕させられて仕舞う。

 

其の「昆虫カタストロフィー」に就いてはまるで覚えて居ないのである。

番組中で其のプラチナコガネが多く捕獲されたことだけは覚えて居たのだが。

 

 

昆虫カタストロフィー (tsubamekokoro.wixsite.com)

「香川照之の昆虫やばいぜ!」の昆虫カタストロフィに驚愕。 (yurulu.net)

 

かうして同様に多くの方方もまた驚愕しつつ此の番組を視られて居たことだらう。

 

だけれども誰しも昆虫が減りつつあることは實感として知って居る。

其れも都市部の人間であるのならば誰しも。

 

だが此処まで減少しつつあるとは不覚にもまるで知らなんだのだった。

そんな環境問題に対する「意識が高い」筈の我ですら知らなんだのだ。

 

 

 ーその結果、驚いたことに、節足動物バイオマスは70年代のそれの8分の1から60分の1にまで激減していたのである。

 

 昆虫の激減が生じているのはプエルトリコだけではない。ヨーロッパ、北アメリカオーストラリアなどの各地で行われた調査では、いずれも大幅な昆虫の減少が確認されている。

 そして気候変動がこうした激減を引き起こしている一方で、生息地の破壊、殺虫剤、病原菌の侵入、光汚染といった他の環境の変化も強く関係していることがはっきりしている。

 地球レベルで見ると、昆虫はさまざまな環境要因に翻弄されている。彼らの数ががたがたと減り続けている原因は1つだけではない。

 私たちはこの世界をさまざまに変えてきた。地球で織りなされる生命の布地で多大な役割を果たしている小さな仲間たちは、この危機にもがき苦しんでいる。ー昆虫界で起きているカタストロフィ。昆虫種の40%が個体数を急激に減らしている。3分の1が絶滅の危機へ。 | ニコニコニュース (nicovideo.jp)より

 

 

ところがネット上にはかうして色色と書かれて居る。

だが其れも余程に意識を高く保ち気を付けて見て行かぬとかうした事實が普段我我の耳に入ると云うことは無い。

 

此の種の問題を論じる折にかうしてネット上で検索してみると!!!と思うやうな其れも信頼に足る情報を得ることが出来る。

 

逆に申せば現代社會を推進する側、其の支配層の方ではむしろかうした空恐ろしいやうな話を表立って出すことなど無いのである。

まあ其れは悪く言えば文明の側による壱種の情報操作でありつまるところは眞實の隠蔽である。

 

なので僕はいつも思うのだけれど矢張り此の文明に於ける支配層の側には大きく問題が存して居る。

また其れが自らの立場の保身であったりすることがほとんどであり要するに支配層の価値観其れ自體が利己的な現世利益主義に刺し貫かれて居て常に壱連の環境問題に對し意識のあり方が低いのである。

 

 

地球上の昆虫の減少が「カタストロフ的なレベル」であることが包括的な科学的調査により判明。科学者たちは「100年以内にすべての昆虫が絶滅しても不思議ではない」と発表 - In Deep

 

でもって究極的にはまた此の滅亡サイトの方の御世話になることとなる。

尚此処はかうしてきちんとデータを載せ何かを論ずるので其の意味ではまさしく科学的なところである。

 

但し「文明滅亡したれ」的な願望が此処からは感ぜられぬ訳でもまた無くでも其処は我と同じくしてあくまで「文明は勝手に滅亡せよ」なのであらう。

 

またこちらの記事で衝撃的なのは「百年以内に昆虫が絶滅する」と述べて居る科学者などもまた居ると云うことです。

個人的には其れはどうか分かりませんのですが、只壱つ怖れて居るのは地球環境に関する破壊が同時に多角的に齎されて行くと云うことです。

 

要するに壱つだけでは無く複合的にまた複雑に要因が重なりドーンとデカい破壊其れも根本での破壊が齎されるが故に其処でもって食い止めやうが無くなる訳だ。

 

問題は其の「カタストロフ」が現代文明が奉ずる近代的な人間的幸福への盲信に縋り付く部分から齎される部分である。

ですが我が言ってる幸福とはむしろ其の逆で其の世間的常識ー社會的常識ーの価値観から離れぬと本來的な幸せには決して巡り合えぬのです。

 

謂わば社會的な常識をかなぐり捨ててこそ浮かぶ瀬=幸福の實感があると言ったところでせうか。

 

或は仰るやうに持続的に行われて来た農薬の使用や地球磁場の弱體化などにも昆虫激減の要因を探ることが出来るのやもしれません。

但し個人的に環境問題は其れこそ宗教からの視点と哲學的な解釈を織り込むべきより根本的な命題なのだと考えて来て居ます。

 

 

つまるところは何で地球がこんなに壊れますかとさう問われた時には「文明としての現存在のあり方」こそがそも誤って居るからなのだとさう申す他御座りません。

文明の価値観がそも狂って居るのでさうなるが其の狂いをまたみんなで喜んで奉じて居る=洗脳されて居る訳ですのでもはや如何ともし難いものですとさう申し上げる他は御座らぬ。

 

なのでソコをあえて「文明、お前其れちょっと変だらう!」と言える位に個としての理性的自律性を是非持ちませうとわたくしはさう申し上げて居るのです。

だからみんなで壱緒に御遊戯する文明は正直申してもはや先が見えて来て居ます。

 

つまりは破壊文明だと云うことですのでかうして日日破壊しまくり百年後にはもはや崩壊するしか他に手が無い。

さて其の文明が変だ、信用出来ぬ、と云う感覚はおそらく共感覚者ならば皆持ち合わせて居る筈です。

 

まさに我が其の共感覚者ですが、また其の共感覚的な直観力とは別に文明は何故こんなに幼稚な意思決定しか出来ぬのだらうとずっとさう思い続けても来ました。

嗚呼まさに儲けならば儲けだけ、進歩ならば進歩だけ、と云うやうに文明其れ自體の認識が余りにも壱義的な意思決定です。

 

其の壱義的な意思決定こそが其れこそ哲學的にはバカとしての意思決定の典型例です。

 

自然⇔文明

 

元元現存在は両義的な観念をこそ生きる生き物なので謂わばどちらをも見詰めて置かねばならない。

ところが實際には、

 

特に19世紀から此の方は、

 

自然→文明

自然<文明

 

とのことでつまりは自然を文明化することで現存在の社會は進歩を成り立たせて来て居る。

要するに其処には自然其のものを独立した要素として見る目がそも無い=自然を自立したものとして捉えては居ない。

 

要するに自然よりも文明の方が何でも偉いのだ。

だから田舎の奴等は都會がサイコーだと思って居るのだが其れは間違いでむしろ都會こそがサイテーの価値のものでしか無い。

 

なのでまさに其れを我は洗脳状態であるとさう申して居るのです。

 

正直なところ現状では其の洗脳の度がより広く行われて来ても居ります。

だからわたくしはむしろ価値観として文明の側の逆方向を向く位で丁度良いのだらうと思う。

 

 

ワクチン打つ→ワクチン打たぬ

祖國を防衛する→防衛も反対

近代的価値をヨシとするお利口さん方(ほんたうは洗脳されし馬鹿共)→近代的価値をヨシとはせぬ非國民

 

革命嫌い→革命大好き

金欲しい→金要らぬ

🚙欲しい→🚙要らん

女好き→女嫌い

上品な破壊者→下品な逃走ー闘争ー者

 

自然は搾取するもの→まずは自分から自然に食われよ

 

 

尚自然は人知の及ばぬところでの神聖なシステムでありまさに其処は神佛に等しいものです。

また其の意味では神道も正解となる。

 

勿論佛教にせよまたキリスト教にせよ其の自然理解はほぼ正解でもまたあることだらう。

 

故にまずは其の文明とは逆方向への精神の導き方こそが大事なのではないだらうか。

さうして文明に洗脳されるが侭に自然を見詰めて居ること自體が不遜であり不敬であり横暴であり且つ👿の所業です。

 

 

自然⇔文明

 

其処に相剋し且つ相即する関係性を常に築くやうに文明を進めればこんなことにはまさかならなんだ筈。

でもやっちまったことはすでに何ともなりませんので壱つには社會の進歩はもう止めて環境保全の為にだけ理性ー科学技術力ーを使って行くと云う手があらう筈。

 

おそらくは其の位に徹底してやりませんと生態系の破壊は止まることが無いことだらう。

其れと共に自然こそが神佛でありよって先祖供養だとか偶像崇拝だとかそんなことをするよりは只自然にひれ伏して其れに相対しまた昆虫は自分よりも偉いとさう思うことに致しませう。

 

すると🐕や🐈、また🐵なども人間より偉いのですか?

はい、此の際人間はサイテーの奴隷と云うことにして置き其の間に是非自然の再生を図って行くべきです。

 

でも事實上人間は偉いですよ。

第壱今日お前が聴いて居るChopinなどもまた現存在の文化力の象徴だ。

 

まあ確かに文化は文のお化け即ち言語のお化けであるが其れは政治のやうにおバカでは無い。

ではアナタはオバカよりもオバケの方を選ぶとさう申されたいのですね?

 

さうだ、さうして👪主義はオバカなんだが孤高の藝術家は常にオバケの方こそを選び生きて行くのだ。

くううー、其のChopinがまた心に沁みるー。

 

Chopinはジョルジョ・サンドに捨てられ憔悴し切って参拾九で肺病により死んだとさっき鑑定団の番組中で語られて居た。

 

藝術家は基本的に腺病質であり其の感度が大體常人の倍位はあるから生きてる疲労がそも甚だしくありさうして早う死ぬるのである。

でもアンタはワクチンも打たずにさうしてしぶとく生き抜いて居るところを見ると藝術家ではまさかないな。

 

 

馬鹿者!

藝術家だとさう自分でさう決め込んで居る部分こそがまさに我が藝術の世界ではないか。

 

で、其の藝術と生態系の破壊の問題とは何処がどう関連し合って居るので?

 

うーむ、つまりは破滅性だね。

 

するとChopinの破滅と自然の破滅がまるで同じだと云うことなので?

さうだ非常に似て居る。

 

さうしてどちらも壊れ易くもはやギリギリだ。

 

でも虫って普通ウジャウジャと生まれソイツラがまた何処でも這いずり回りまるでChopinの哀しみとは違うもののやうな気が致しますが…。

虫の其の本能の部分はでも抽象的価値には弱いつまりは至極脆い。

 

つまりは殺虫剤や農薬の類には弱いしまた♀に捨てられるともう終わりである。

 

さうか、すると地球は今哀しみにこそ包まれて居るのだ。

良くぞ分かったな。

 

でも其のこともまたChopinの音が流れて居ないとまるで分からぬことなのだ。

現存在はさうして世界の哀しみに對する不感症に陥って居る。

 

藝術とは其の世界の哀しみを残さず汲み取るであらう感度としての装置である。

つまるところ今後現存在に取り必要なのは社會に盲従することでは無く其の世界の哀しみを残さず汲み取るであらう感度としての装置を自らの内側に持つことである。