目覚めよ!

文明批判と心の探求と

自己肯定と云ふひとつの価値観への提言

ー苦しんでいる子どもたちの特徴のひとつに「自己肯定感の低さ」があります。令和元年版の「子供・若者白書」では「自分自身に満足をしているか」という質問に対して、堂々と「満足している」と答えられた日本人は10%しかいません。ー自己肯定感の低い日本の子どもたち「わが子を信じて腹をくくろう、あなたの子どもは大丈夫」より

 

いざさう聞かれますればわたくし自身が確かにこんな自分には満足して居りません。

ですがわたくしの人生はわたくしでなければ果たし得ぬものであったとさう常に思って来ても居ます。

 

何故さうして「自己肯定感の高さ」=自分の生への自信に満ち溢れて居るのかと云へば其れはわたくしが「生きる」ことに対して常に前向きにやって来たからです。

其の反面で「生活する」ことに対しては必ずしも前向きではありませんでした。

 

 

ー大人たちは不安なんです。そして子育ての完璧さ、正しさを求めすぎているんです。それも、子どもに対して求めている。

だから子どもたちは弱音が吐けない。つらい感情を外に出せない。そして子どもたちはそのストレスを別の子にぶつける。そうやっていじめが再生産されていくんです。ー自己肯定感の低い日本の子どもたち「わが子を信じて腹をくくろう、あなたの子どもは大丈夫」より

 

往々にして人間は正しひとさう信じ込んで居ることを未来ー次世代ーへと求めて仕舞ふ。

其の考へが正しひから未来は明るくなるとさう信じ込んで居る訳だ。

 

だが其の考へはむしろ正しくは無ひであらう可能性が高ひ。

何故なら正しひ選択とは選択の余地の無ひことへの選択であることに過ぎぬからなのだ。

 

たとへば民主的な選択とは其れはどちらに転んでも良ひやうな選択であることなので常に其れは正しひ選択とはならぬ選択であるに過ぎぬ。

また男女の違ひや利口と馬鹿の違ひなども本質的にはどちらに転んでも良ひやうな選択であることだらう。

 

 

だけれども、たとへば地球の破壊を進めることは正しひの正反対であり其れ即ち悪ひことなのだ。

また宗教が正しひか其れとも正しくは無ひかと云ふ選択に関しても邪教以外なら常に其れは正しひことともならう。

 

つまりは「生きる」ことに関して其のこと自体を破壊へと導くやうな価値観こそが悪なのだとも言へやう。

 

現代人が不安なのは「生活」を生きる余りに「生きる」ことに関する悩みを放棄して仕舞って居るからだ。

 

でもわたくしの場合は其処にはまるで悩みを抱へては居なひ。

何故なら其の「生きる」ことに関する悩みを其れこそ正しく悩んで来たと云ふ自負が其処にあるからなのだ。

 

其れもみんなでもってさうして集まり酒を飲んで楽しくやったり👩と共に家庭を持ちさうして将来に備へたり子孫に対し期待を抱ひたりはせずにさうして其の生の苦悩其れ自体ともう長く闘って来た。

だからこそすでに其処に悩みは無くまた強く自己肯定の意識に刺し貫かれて居るのだ。

 

 

だが逆に「生活」への不安はある。

故に人間は結局其のどちらかなのだと思ふ。

 

「生きる」ことを生きればさうして苦悩することで分からぬものが分かるやうにもならうが生活力のやうなものは次第に落ちて行く。

でも心理的にはむしろこちらの方が人間に対しては強靭となれる。

 

其の現代の大人たちが子供に対し求めて居る正しさとは其の逆に「生活」への構築主義なのだと言へやう。

 

然し其の「生活」への構築主義こそが今回のコロナ禍にて次第に限定されるに及んで居る。

つまるところは其の強固に築き上げた筈の現代の価値観が部分的に破壊されつつもある。-具象的に限定されるに及んで居る-

 

問題は其の部分的な破壊にはむしろエッセンシャルな生活の領域が含まれて居ることだ。

 

其れは抽象的に幾ら學力を磨ひたにせよーたとへ東大生でもまた京大生でもー食ふものは皆同じだと云ふことでもある。

具象的な価値とはまさにさうしたもののことである。

 

 

で、食ひ物屋が次々と潰れたら御勉強も何も無く文化も何もまた無ひ。

食って寝てウンコしてまた朝が来る

 

嗚呼また朝が来て夜が来た。

 

エッセンシャルな領域とはさうして人間の肉体性を維持する社会性のことだ。

其処が潰れたら産業もまたグローバリズムも宇宙開発もIT革命も何も無ひ。

 

コロナ禍とはさうした具象的な限定其のものなのだ。

其れは文明が築き上げた抽象的進歩に対する自然からの反乱のことだ。

 

 

「生活」への構築主義ー現世利益的な功利性ーは堅固な価値ヒエラルキーを構築しやうがまさに其れが正しくも何でも無ひことが今回証明されたのではなからうか。

かうして容易に特定の大企業が崩壊するのだし航空産業などもまさに今後どうなるのか分からぬ位だ。

 

また東大を出て官僚になる道なども昨今は次第に不人気なまさにブラック仕事ともなりつつあるやうだ。

さらに教師、コレなどまさにヤバひぞ、ブラック仕事の一番手が其の教師になって仕舞ったら一体どうするのだ?

 

で、此れまでは医師が一番の人気だったさうだが何せコロナを移される可能性が高くあるので今後は不人気職種となるのやもしれぬぞよ。

 

だからさうして仕事こそがまさに相対的な価値なので實は其処に価値ヒエラルキーを設定すること自体が間違っておる。

 

価値ヒエラルキーの設定とは抽象的な理念が為せる技なので其処がコロナによりブチ壊され生の人間の姿ー具象的な人間の姿ーが浮き彫りにされて来て居る。

 

人間の生は「生きる」ことと「生活」とをバランス良くしかも其れを社会として限定しバランス化させて行くことこそが最も大事なことだ。

 

其れでも社会は概ね馬鹿だから其れがなかなか出来はせぬ訳だ。

いやほんたうはみんながみんな馬鹿な訳では無ひのだ。

社会化された環境に於ひて価値観がさうヒエラルキーして其れを比べて仕舞はざるを得ぬと云ふ訳だ。

 

なので其の部分はむしろじぶんでもって心のあり方をー社会的な欲望をー限定しバランス化させて行く他無ひのである。

 

 

ー遊びを通じて、私たちが提供したいのは「安心して失敗できる環境」です。「失敗したらダメだよ、ケガしたらたいへんだよ」という大人の不安が子どもの可能性を奪っていきます。「失敗するな、完璧にやれ」と求められるなかで、子どもたちはどんどん縮こまってしまいます。ー自己肯定感の低い日本の子どもたち「わが子を信じて腹をくくろう、あなたの子どもは大丈夫」より

 

小学生の頃天白川で遊んで居たら幼馴染のY君が川の底に埋まって居たガラス瓶のかけらで足の裏を深く切りもうエラヒことになった覚へがある。

我我が子供の頃は道路でも平気で野球をやりさうして川へは入るは、野っ原を走り回り肥溜めにも落ちるはでもう兎に角常に危険と隣り合はせにて其処には失敗も成功もクソも無かった。

 

だが今思へば貴重な経験を其処に得られて居たのではなかったか。

むしろさうして失敗し続けることで眞の意味で學び続けて居られたのだらう。

 

そんな古き良き環境がもはや得たくても得られぬ現在の都会の子供たちは何より可哀想だ。

其れも遊びの相手がゲームだのSNSだのではまともには育たぬのも其れは当然のことだらう。

 

 

ー本当は「できる力」も大事ですが「できない」ということを受けいれられる力も大事なんですね。「なんとかなるさ」と思える力。失敗するかもしれないけれど、そのあとまたカバーできる、と思える力。そういう力は、遊びのなかで育ちます。

遊びのなかで子どもは失敗します。木から落ちて骨折しちゃった。しょうがないじゃん。俺がやりたかったんだもん。「ケガと弁当自分持ち」。自分で責任を取るから、あんたのせいだって言わないから禁止にしないでね、という子どもの声を聴いてつくってきました。ー自己肯定感の低い日本の子どもたち「わが子を信じて腹をくくろう、あなたの子どもは大丈夫」より

 

わたくしの考へでは都会での合理化は其の人間が本来持つ学習能力や心理的な幅、また余裕のやうなものを奪って行く。

即ち合理化自体が人間にとっての心と體のバランスを欠くものなのだ。

 

昔小学校で我我小学生は先生から「シャープペンシル」を使ってはいけません、とさう注意されたものだった。

さうして昔の頑固な教師達はより合理的且つ便利なものへの不信感を抱ひて居たやうだったが今思へば其処は流石に卓見である。

 

だが其の後我我が中学へ上がる頃にはむしろ其の「シャープペンシル」が主流となり逆に鉛筆を使って居ると皆に訝られたりもしたものだった。

シャープペンシル」は其の後進歩し良ひものともなって行った。

 

鉛筆の方は然し無くなったりはせず今でも木のぬくもりを感じさせて呉れる素晴らしひ筆記具として存在して居る。

のみならず木や銘木を使用した「シャープペンシル」も此処拾年ばかりは多く作られ且つ売られて来て居る。

 

其れは「シャープペンシル」と鉛筆には共にやれる領域とやれぬ領域があったからなのだった。

 

だから「シャープペンシル」は其のやれぬ領域を鉛筆の方に任せ鉛筆は「シャープペンシル」の方にやれぬ領域を任せて行ったのだった。

 

其れは進歩と過去との素晴らしひ調和の形なのでもまたあることだらう。

 

いずれにせよ其の双方を見渡せる視野の広さこそが大事なのではなからうか。

 

視野の広さは悩むことや失敗すること即ち負の側面からこそ醸成されやう。

ところが合理的な数理解釈としての現在から其の部分を汲み取ることなどは出来ぬ筈だ。

 

合理的な数理解釈即ちエビデンスベースがあればまた他方にナラティヴベースが存在して居る訳だ。

 

合理化に傾き過ぎればナラティヴベースに損傷が与へられるー破壊されるー可能性が高ひ。

 

其の合理的な数理解釈の他方に多くの書籍の形で人文の智恵がかうして蓄積されて居る訳なので其処をこそ重視しナラティヴベースの破壊を是非食ひ止めるべきだ。

 

 

ーみなさんに言いたいです。問題は起きてから悩みませんか。子どもは今持っている力で今を生きるしかないんです。明日、手に入る力で今を生きることはできません。今がなくなったら未来なんて生きられない。今が大事なんです。

今子どもが何を求めているか、好奇心が向いているのは何か、それを察知し、任せてみませんか。子どもの力を信じて、子どもが自ら伸びていこうとすることの邪魔をしない。このことを私たちがしっかりと肝に銘じることです。ー自己肯定感の低い日本の子どもたち「わが子を信じて腹をくくろう、あなたの子どもは大丈夫」より

 

日本の教育の問題点はさうして問題が起きることを恐れる余りに自発的な學びの力を信用しなひところにこそあらう。

其れと我我の年代からすでに言はれて居たことだがレールに沿った教育こそが大事で一度其のレールから外れるともはや道が閉ざされて仕舞ったりもすることだ。

 

だが自発的な學びが好きな人はまさにわたくしの場合もさうなのだが普通にして居れば居る程にむしろ其のレールからは外れて仕舞ふ。

さうして役立たぬ御勉強ばかりを好んでして来たが故に社会の崩壊などを予知することは出来ても世の中の役にはまるで立たぬ訳だ。

 

 

わたくしの場合其のエビデンスベースには元々弱ひ人間なのでナラティヴベースとしての力ばかりをこれまでに磨き続けて来たのだった。

なのでわたくしの場合はナラティヴベースとしての力を此処に指し示すことしかそも出来ぬ訳だが其れが實は其の自己肯定感のあり方にも大きく関はって居るのではなからうか。

 

先にわたくしは強く自己肯定の意識に刺し貫かれて居るとまさに述べた訳だがまさに其れは此れまでかうして「生きる」ことに悩み切って来たところでの自負でありだがあへて「生活」の方にはむしろ余り関わって来なかったと云ふ其の変な自慢のやうなものなのだ。

「生活」即ち現世利益の世界に流されることなく文學をさうして宗教を理解し続けて来たわたくしにはまさにさうした意味での人文の徒としての自己肯定感が大きくある訳だ。

謂はば人文の徒として世の中の役には立たぬが故に自分の為には大きく役立って居るやうな気がするものだが果たして其処は如何なものであらう。

 

 

ー子どもが「大丈夫」を手にいれる前に、大人たちが自分たちの不安を押しつけて子どもをつぶしていく、そんなことはもうやめて、「大丈夫」を手にいれさせてあげてください。

苦しんでいる子どもたちが全身全霊で訴えているのはたったひとつのことです。「学校へ行けない私はだめですか? 生きている価値はないですか?」。ー自己肯定感の低い日本の子どもたち「わが子を信じて腹をくくろう、あなたの子どもは大丈夫」より

 

わたくしはかって登校拒否の小学生と中学生を学校に行かせた経験を持つが何故彼等が学校へ行けるやうになったかと言へば其れはズバリわたくし自身が学校へ行くのはイヤだったからなのだった。

わたくしは生活全般にわたるまで管理されるのが性には合はぬ訳だが其れでも實は御勉強が大好きな人間だった。

 

だから大學ではむしろ積極的に御勉強しさへもしたものだった。

さうして学校が嫌ひな奴でも御勉強は好きな奴が人間の中には屡居るものなのだ。

 

故に其の生きている価値は学校へ行かぬ位のことでは云々されることでは無ひ。

 

さうして学校は合はぬが頭の良ひ人は幾らでも居てたとへば哲學者のルソーなどは明らかに其のタヒプであったが結局彼は本ばかりを読み後に近代啓蒙思想の大哲學となったのだった。

だから子供の親たちは社会が引ひたレールのことなどには余り拘らぬ方が良ひことだらう。

 

また大學は何処の大學にも優れた頭脳の持ち主がまた居るものだ。

もうほんたうにたとへ教授でも敵はぬ程に優れた奴は居るものなので別に東大や京大ばかりでも無ひのである。

 

ー早稲田大學だけが大學であとは皆馬鹿田大學だと確かアンタは述べて居た筈でしたね?ー

まあ其れは文學の上でのお話でせう。

 

生きていることの価値はむしろ自分でもってつくるものだ。

 

また其れは「生きる」ことの上での価値であれ「生活」の上での価値であれどちらでも良ひのではなひか。

 

但し「生きる」ことの上での価値に傾けば事の本質を問うて行き易くなり逆に「生活」の上での価値を追求して行けば事の本質は見失ひ易ひことだらう。

 

問題は「生活」の上での価値を追求して行った場合に強ひ自己肯定感を得られるものなのかと云ふ部分だが或は其れも成功などすれば可能となるのやもしれぬ。

 

 

いずれにせよ自己肯定即ち自信とは結局「自分が自分としてやったかどうか」で決まる価値なのではなからうか。

 

自分はコレをまさにやりました。

だから自分は偉ひのです。

 

其れが、

自分はコレをやらされました。

だから自分は偉くもなんとも無ひのです。

 

と云ふまさに其の差だけなのではなからうか。

 

で、社会にとりまるで役に立たぬことをやった場合でも實は自己實現が出来内面的に充實することさへもがまた可能なものだ。ーまさに作家の仕事などが其れだー

即ち社会にとり役に立ったかどうかでは無く自分にとり役に立ったかどうかと云ふことの方が實はより重要なのだ。

 

とどのつまりはわたくしは其の「生きる」ことへの智慧の探究が何より自分自身への役に大きく立って居るが故に自分に大きく自信を持ち故に自己肯定の度もまた強くあるのである。