目覚めよ!

文明批判と心の探求と

徳川美術館にて特別展と企画展を見るー壱ー

先にナゴヤには文化的素地が無ひか其れが薄ひと云ふことを述べた。

少なくとも関西や関東に比し文化的素養の面では欠けて居る。

 

だが無論のこと其れは眞實には非ず。

表面をなぞるとさう見へて仕舞ふだけのことなのだ。

 

我我名古屋人は特に戦後酷く現實主義になった。

現實主義即ち現世利益主義とも言ひ換へられるのであらう。

 

だがわたくしは其の様をまさに批判して来て居る。

 

どだひ江戸っ子は「宵越しの金は持たぬ」訳で其の点では實に気風が良ひ。

また大坂はまさに食ひ倒れて居りまた宝石にも詳しく文化的本能に対しまさにやりたひ放題だ。

 

なのに何で尾張人、また三河の人々は朝も早から働きに出さうして晩には家に帰り👪主義でもって地元主義でもってまた工場礼賛主義なのだらうか。

 

但しわたくしは放蕩詩人なのでまあ色んなことをやって来た。

 

宗教三昧また読書三昧に万年筆三昧、さうして石三昧とゴルフ三昧をやったが實は👩遊びにはほとんど縁が無かったのだ。

 

要するにヲタク其のものの人生だった。

 

尤も酒は三十位までは良く飲んでいたし四十まではケッコンしたひと思って居た👩が常に傍らに居た。

 

逆に四十からはあへて少年化しヲタクの度を高めて行ったのだった。

 

 

名古屋人は兎に角實利的過ぎてつまらん。

 

大元のところでは結局さうなのだ。

 

だから名古屋の店は皆早く閉まる。

 

夜は即家へ帰り是非明日の仕事に備へなければならぬ。

 

其れも製造業が盛んで其れも大工場などが多ひから半端では無く労働せねばならぬのでそんな夜遅くまで遊んでは居られなひのだ。

 

 

ところが名古屋人にも趣味人はまた居るのだ。

労働が嫌ひな奴もわたくしの如くにまた居るのである。

 

わたくしの場合労働が嫌ひなのは根の部分が文人だからなのだ。

わたくしには常に書かねばならんことが沢山あるので俗人のやうに世俗的に働ひたり遊び回っては居られぬのだ。

 

尚わたくしの高校時代からの親友と今最も重要な友は二人ともコレクターである。

其処からしても尾張に文化が無ひと云ふことは言へぬことかと思ふ。

 

但し三河の奥には文化も何も無く兎に角山ばかりが連なって居る。

三河はそんな🐒だと尾張はさう思って居て實は昔から尾張三河の仲は可成に悪ひ。

 

或は家康公も信長公から見ればほぼ山のタヌキなのだ。

 

他方で秀吉公は矢張り🐵か。

 

嗚呼、何やらまた動物だらけになって来たので其処を是非何とかしたひ。

 

尾張三河赤味噌文化と云ふ面で同じ穴の狢である。

 

 

ちなみに信長公は黑🐀であらう。

 

 

以下重層的な尾張の文化に就ひて述べる。

 

特別展 漆ー徳川美術館 珠玉の名品ー

企画展 怪怪奇奇ー鬼・妖怪・化け物ー

 

兎に角行かねばならずかうして徳川美術館へ行って来た。

其の徳川美術館とは御三家筆頭尾張徳川家の至宝を集めた私設美術館のことだ。

 

ー収蔵品は駿府御分物徳川家康の遺品)など尾張徳川家伝来の大名道具や徳川将軍家一橋徳川家、蜂須賀家など他の大名家の売立てでの購入品、名古屋の豪商であった岡谷家や大脇家、高松家をはじめとする篤志家らからの寄贈品など。2016年現在で、国宝9件、重要文化財59件、重要美術品46件[要出典]を収蔵し[26][27][28]。総収蔵点数は、1万3千件にのぼる[29]。国宝・源氏物語絵巻のほか、西行物語絵巻豊国祭図屏風、「初音の調度」などの所蔵品で知られる[30]。ー徳川美術館より

 

 

徳川美術館のあゆみ

そもそも其の家康公の遺品はまた別のこととして尾張徳川家伝来の大名道具を散逸させなかったことこそが徳川の美術館を此処名古屋に創ったことの根本の意義である。

要するに尾張藩に限り物凄く金に困り大名道具を売りに出す必要が無かったのだらう。

 

尚、此の徳川美術館こそが我が國にとりまさに一級の文化財なのだ。

其のことを皆は知らぬことかと思ふのだが其れは誤りだ。

 

さらに其の徳川美術館に隣接する徳川園もまた一級の文化財だ。

わたくしの両親はかって此処にて挙式して居り従ってわたくし自身とも大ひにゆかりのある場所でもある。

 

文化文物と云ふものはまずはさうした伝統に培はれたものでなければならなひ。

 

其れに名古屋と云ふところは信長公では無く家康公が築ひた都市なのである。

名古屋城を普請したのも家康公で、ところが藩祖義直の遺命とは其れ即ち「勤皇」にあった。

 

何となく其処に矛盾的性格が感じられるのであるが、或は其処こそが尾張が抱へ込む本質的性格なのやもしれぬ。

第一家康公が築ひた都市なのに皆が最も尊敬し一番と思って居るのは信長公のみ。

 

秀吉公も確かに偉ひお方なのだが所詮は関西へ行っちゃった人なのであり其れに🐵でもってして實は余り大きくは尊敬されて居なひ。

 

 

さうして何でも信長公が一番なのだが所詮は暗殺されて仕舞ってもおる。

 

で、家康公は皆に尊敬はされてるが江戸を拓ひたお方なので半分は他人だ。

 

そんなこんなでもうグチャグチャでもってして良く分らぬ。

 

分からぬがとりあへず名古屋は徳川なのだ。

 

現實的には徳川こそが名古屋なのだ。

 

さう云ふと関西人などは反発するかもしれぬのだけれど。

ちなみに秀吉公の足跡などもまだ中村の方にはあるのかもしれぬのだが兎に角余り話題にはのぼらぬ。

 

述べたひのはいつも信長公のことだけなのだが事實上名古屋の生みの親こそが其の家康公なのだ。

 

 

ー御三家の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。

徳川家康の九男徳川義直(五郎太、義俊、義利)を家祖とする。

藩祖義直の遺命である「王命に依って催さるる事」を秘伝の藩訓として、代々伝えてきた勤皇家であった。このことや、将軍を出せなかったこと、将軍家から養子を押し付けられ続けたことなどにより、家中に将軍家への不満が貯まり続け、戊辰戦争では慶喜が戦う前から前代未聞の敵前逃亡したことから官軍についた。ー尾張徳川家より

 

元々物凄くプライドが高くあり頭が良くしかも正直な尾張藩は将軍を出して当たり前なのに将軍家から煙たがられもしたのでもう頭に来て戊辰戦争では官軍の側につひてやった。

其の前にもかの徳川 宗春の壱件もあり兎に角将軍家への不満はたまり続けて行ったのだった。

 

藩祖義直の遺命として勤皇家を貫ひたのだとは言へ、第二次世界大戦の頃には軍需工場が屡空襲され其れでもってかの名古屋城も丸焼けとなった。

兎に角産業都市なので戦後もドンドン工場を増やして行ったがさうなればなったで労働者が増へ次第次第に左派地盤となり革新派の市長まで誕生したりもした。本山政雄

 

なのだけれども、文化文物は保守を確りと護るところにこそ継承される訳だ。

さうして上手ひことに尾張藩はかの徳川の文化伝統を継承することに成功したのではなかったか。

 

尾張藩は将軍家からは疎まれて居たやうだったが徳川の美術館までかうして創ってるのだ。

どうだ、まさに其処は偉ひだらう。

 

 

ちなみに東京の局が製作した時代劇ー特に将軍物のーでは常に尾張藩が悪役で出て来るのですが其れはある意味ではほんたうに両者は仲が悪かったのです。

でも愛知の人間の根性が悪ひ訳では多分無く結局将軍家に逆らへるだけの家格、知力、文化もまた有して居たことだらう。

 

尚此の徳川美術館の特別・企画展の印象に就ひては本日書ひて居る時間が無ひ故また次回に述べさせて頂くこととしたひ。

 

只此の特別・企画展自体が9月13日にて終はりなのだ。

 

だから急遽述べて置ひた訳だ。

 

 

コロナ禍にて美術館も限定されつつあることかとは思ふのだが本日は結構混んで居て余り普段と変はりは無ひ感じであった。

 

だがウヒルスに極めて敏感なわたくしはスーパーや美術館へ今行くと目や鼻や喉に違和感を覚へる。

 

備へ付けのアルコール消毒にてどんなに殺菌しても帰った後は体調が悪くなる。

 

と云ふことは矢張りと云ふべきかコロナウヒルスがあちこちに居るのである。

 

其れでもやってる美術館や博物館はある意味で根性があるな。

 

だがオバサンでもって展示物を見ながらゲホゲホやってる人が居たがそんな状態でもって美術館へ来て居る人間の心理と云ふものがわたくしには皆目分からぬ。

 

わたくしはさうした面で人間が兎に角信じられぬ。

 

 

鈍感と云ふか無遠慮と云ふかそんな人間が居ること自体にまるで理解が及ばぬのだ。

 

文化の意義と云ふことは、其れは人間は儲け=経済だけでは生きて居なひと云ふことをまさに指し示して居ることだらう。

でももしも尾張藩が貧乏藩だったとしたらかうした美術館などとても創れなかったことだらう。

 

其の根本での矛盾と云ふか不条理と云ふかそんなものにまでつひ悩んで仕舞ふ日だったが其れでもしかと美は見詰めて来たつもりだ。

 

ひとつ大ひに気になった話が名古屋市 蓬左文庫の展示物の中にあり、其れは慶応2年(1866)に大坂城のお堀で見つかったとされる身長2メートルの怪獣のスケッチだった。当時将軍家茂がこれを見たさうである。

其れはカワウソか何かのやうなのだが實のところは良く分らなひ。

 

重要なのは昔は世の中に変なものが屡出て居たと云ふことなのだ。

 

お化けにせよ怪物にせよ鬼にせよ昔はさうしたものが無理無く世の中に溶け込んで居たのだ。

 

事實わたくしが中学生位の頃まで家の庭には蝦蟇や🐍が良く出たものだった。

 

何故か其の蝦蟇や🐍が無性に懐かしひ昨今である。