目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

名古屋人は頭がおかしひ、でも其れは正直なだけだった

「愛知はものづくりが盛んで真面目な県民性。県民性と事件とは結びつかない」

「中高年は社会的な評価を最も求める年代。社会に対する恨みを晴らす犯行とも言える」

「俺コロナ」なぜ愛知で多発 県民性?目立つ中高年男性

 

かくて愛知は頭がおかしひの?

其れはわたくしの言説を視て頂ければすぐに分かる。

 

確かにおかしひ。

でもおかしくは無ひ。

 

皆様には社会を心底から心配して居るわたくしの心の中の眞實が見へて来て居やう筈だ。

さうだ人間として限界まで考へ、かうして社会と格闘し其の行く末を案ずるわたくしの生真面目さがしかと伝わっても居やう。

 

でも何だかおかしひぞ。

特に「俺コロナ」はまさに邪教か又は👿のやうなものだ。

 

では、何故おかしひのか?

 

つまり真面目過ぎるんである。

 

真面目過ぎると、まさにかうして狂ふこともあるんである。

 

 

でもいつも狂ってるのでは無ひぞ。

 

ー「クセモノ」の両雄・京都人と名古屋人ー

ー名古屋が「見栄」なら、京都は「いけず」だ。名古屋人は、見栄は張ってもウソはつかない。だが、京都人は本音を隠す。ー

ー合理的と言えば合理的だが、単なるケチとも言えなくはない。ー

ー東京は好きじゃないけど、ある種認める存在。ただ、大阪に見下されるのだけは我慢がならないと、京都人も名古屋人も口を揃える。ー

ーいまやトヨタの名古屋、インバウンドで稼ぐ京都は、オリンピック頼みの東京や都構想もままならぬ大阪と比べても遜色ない日本の中心都市のはず。とはいえ、その気質はそれぞれにいつまでもややこしい。ー京都人と名古屋人、ガチンコで口論したらこうなったより

 

 

此の記事には基本的に賛成。

 

かうして京都人と名古屋人の気質は共にどこまでもややこしひ。

第一わたくしの言説其れ自体が何処までもややこしひ筈だらう。

 

但し京都人の根性の悪さに比して名古屋人の心根はむしろ純粋無垢だ。

 

で、純粋無垢なので何でもほんたうのことを言って仕舞ふのだ、まるでわたくしのやうに。

しかも何故か頭の出来が悪くは無ひ。

即ち其処で合理的に考へられ嘘はつかなひ。

 

ところが、世間ー社会ーはむしろ虚としての権威や腐ったやうな組織上の序列にて組み上げられて居るのである。

常に偉ひとは思ふ徳川幕藩体制にせよ其の太平の御世の中にはやがて色々と小汚ひものやどーしやうも無ひ矛盾などがたまって行って居た筈だ。

 

 

要するに其れを見破る頭の良さが何故か愛知にはあるのだった。

ところが其れを心の奥底に隠しては置けずつひ言って仕舞ふのだった。

 

早う将軍を此の尾張藩から出せ、でなひともう将軍家など金輪際認めてはやらぬぞ。

其れでも将軍を出さぬので官軍が来たらハヒどうぞとサッサと道を譲ったよ。

 

要するに明治維新にて将軍家など滅べば良ひのだ。

 

だがみんなが決して忘れてはならぬのは、天下統一の歴史は其のほぼ全てが此処愛知が発祥地だと言ふことだ。

其れは京でも無く大坂でも無くお江戸なのでも無ひ。

 

だから愛知県人のプライドはかの千年の都の京都人にも引けを取らぬ。

 

京都と名古屋、両者はまさしく横綱級の曲者にて基本的に共に理解し難ひものなのだらう。

京都は器用にも屈折してるが名古屋は直球過ぎて其処が不器用過ぎるのだ。

 

クソ真面目なのはむしろ名古屋の方であり、故に関東の人でもまた関西の人でも真面目な性格の人は愛知県に住むのが向ひて居るのだと思ふ。

 

 

 

だが現在の名古屋人には産業都市としての実質的な自負ー儲けて居ると云ふ自負ーがあるばかりなのだ。

 

トヨタは合理的でパナソニックは詰めが甘い?これは県民性の違い?

TOYOTAは兎に角合理的且つ無慈悲だ。

だから大きく儲けを出せる。

 

TOYOTAの下請けの部品工場などは屡廃業に追ひ込まれて居る。

事實わたくしの知人なども二年前に工場をたたんだばかりである。

 

 

でも名古屋はとても住み易ひところである。

住み易ひのだけれど、わたくしのやうな文人ともなればもはや日本の何処に住んで居やうが其の悩み深さは何処でも結局同じである。

 

個人的には東北や北海道の自然には常に憧れて居るのであるが、兎に角寒ひのが苦手なので事實上そちらで暮らすのは無理と云ふものだ。

 

京都をかうして何かと批判はするが京都は日本の眞の都なのでまるでもって否定などはして居なひ。

但し秀吉の大坂には決して負けたくはありませぬ。

 

愛知の弱点は文化発信力の弱さである。

が、愛知にもしかと文化的素養があることが此のわたくしのブログにてしかと分かった筈だ。

 

ちなみに其の名古屋の「見栄」がわたくしは嫌ひだ。

わたくしは個人主義者なので社会的な見栄の為に大金をはたくのは我慢がならぬ。

 

どちらかと云ふと江戸っ子的で文化や楽しみの為に金を使って仕舞ふので名古屋又は三河の堅実さには元々ほど遠ひ人間なのだ。

 

 

外側の様子を長い時間かけて観察し「この人は信用できる」と判断した瞬間、鉄の扉は突然開かれます。
一度扉の中に招かれると、今までの対応が嘘の様になります。
今までは、細かい説明をしても、相手の反応が今一だったのが、「大丈夫です!」の一言で納得してくれるようになったりします。

 

「『名古屋はため倒れ』というぐらいムダを省いて合理的な経営をしている企業が多い。江戸時代に尾張藩が倹約貯蓄を奨励したことで、名古屋人には合理的な精神が染み付いたとされています」

 

金銭がどうとかっていうより、無駄なものにはお金を払いたくないという気持ちが強いです。
デザイン性よりも、実用性を重視します。

名古屋の料理には味噌を使ったり、香辛料などたっぷり使ったりと、名古屋独特の食文化がある。味が濃いものが多いので、合う、合わないはあるかもしれないが、どれもはまると病み付きになる魅力がある。

名古屋人と上手く付き合うための取り扱い説明書より

 

 

名古屋人は一種気難しひ部分があるがイザ溶け込めば優しくしかもあったかひ。

受け容れて仕舞へば仲間だから其の人は👪も同然とならう。

合理的な精神は御三家筆頭の尾張徳川家が独立独歩にてやって来た経緯があることかと思ふ。

 

其処では将軍家なんぞまるで頼って居なかったのではなかったか。

元々比較的温暖で豊かな土地であり天下人を輩出した土壌なのでもある。

 

 

また尾張人は潔癖なので余分なものにはお金を使はなひ。

また三河人も潔癖なので余分なものにはお金を使はなひ。

但しよりケチなのはより貧乏だった三河の方。

即ち家康公こそは其のドケチ。

 

ドケチなのはTOYOTAも同じ。

TOYOTAは超合理主義にて常に下請けをいじめて御座る。

どうもTOYOTAこそが家康公流だ。

 

 

確かに食ひ物が変はって居りますが要するに個性的だと云ふことです。

また其れも選ぶことが出来ると以前申したやうに関西風、関東風、地元流と食ひ物は何でも選べる。

 

 

思っていることを、わりとはっきりと言葉にする傾向の名古屋人は、柔らかい言い回しができない。そのため、ときに性悪なイメージを持たれがちなのだが、腹の中はそんなに黒くはないのである。

名古屋人と上手く付き合うための取り扱い説明書より

 

其の理解し難ひ名古屋人こそが實は素直過ぎるんです。

まさに其処が京都人の屈折とは真逆なのだ。

 

かうして性悪にも見へませうがあくまで正直なだけなのです。

でも何度も申して居りますやうに、此の世とは實は腹黒ひところです。

 

其の腹黒ひところへ、正直者の名古屋人がズバリとほんたうのことを申しますとまるでソヒツが悪魔のやうにさへ見へて仕舞ふのです。

尚其の腹黒さは多分太閤様よりも東照権現様の方が上かと存ずる。

 

信長公はおそらくクソ真面目過ぎて何でもやっちゃひかつ言っちゃふのでああして命を落とさねばならなかったのです。

 

ちなみに信長公は相当な合理主義者でもまたあった筈。

合理主義者と云ふのは、基本的に頭が良ひと云ふ事です。

 

なのですが、信長公は宗教を否定して居た訳では無くむしろ宗教には熱心だったのでした。

かくして愛知県人は神佛を敬ふと云ふか其れが好きであり兎に角寺院の数が多くある。

 

合理主義と神佛と云ふ正反対なところが何故か此処では同居して居るではなひか!

どうも弐元的に激しく分かたれて居るかのやうだな。

 

 

其の根の部分が正直なのは尾張三河も同じなのではなからうか。

尾張三河もそんな心理的なストレートさを持ち合はせて居るが故に全國的に見ると其れがオカシク見へるのだ。

 

要するに一種アスペルガー的なところがありはしなひか。

常に正論を吐くのだが其れが状況に合って居なひ場合があり場合により其れが変にも見へるのだ。

 

 

其れはわたくしの言説からも常に窺へる部分であらう。

何でまたこんな時にこそんなことをあへて言って居るのだ?

 

だから其れが正直者だからなのである。

尤もあくまで京都人は其の正反対なのだが。

 

 

関西人は何かとウルサヒので兎に角鬱陶しひのだが中には物凄く優しひ人なども居るやうだ。

関東人から優しさを感じたことはこれまで余り無かったのだが彼等が合理的な意味でのまともさを持って居る事だけはまた確かである。

 

尚文化的には関西も関東も共に常にレヴェルは高ひ。

高ひのだが、惜しひ哉、其処で互ひを理解出来ずに居るやうだ。

 

まるで👨と👩の如くに文化的素地が異なるので本質的には理解し得ぬものと見ておくべきものだらう。

 

だが名古屋人に限ればほんたうはどちらでもイケるのである。

イケるのだが、其れ以前に自らがどちらにも理解されぬのでもはやお手上げなのである。

 

秀吉と家康。

 

此の弐英傑の存在意義はいまだに大きひぞ。

 

 

呉智英

呉氏は高名な地元の評論家である。

 

此の方の言説が矢張りと言ふべきかストレートなものなので屡?と思って仕舞ふのだけれど其れも良く考へてみるとあくまで正論なのだ。

 

死刑を廃止して仇討ちの復活を」「共産主義民主主義人権思想は同根のものである」呉智英#死刑問題より

 

ー独身主義をつらぬいており、若い時代に「知識人として生きるには、女や家庭は邪魔」と決意したという。また、「売春は個人的趣味から嫌い」と言っている。

漫画家、小林よしのりの漫画「ゴーマニズム宣言」のブレーン的立場にあり、また作中にたびたび登場し、そのユーモラスな人柄と共に知名度が上がった。

本人の弁によると、学生運動では「軍人の位で言うと大佐ぐらいだった」とのこと。当時の呉の様子は早大の同学年だった宮崎学が『突破者』(南風社、1996年、のち幻冬舎文庫)で描いており、長髪の美男子とされている。

2006年11月にオープンした「京都国際マンガミュージアム」の研究顧問である。ー呉智英より

 

 

全く面白ひ爺さんである。

例の林 修と同じ超秀才東海高校の出の方で頗る頭が良ひ。

 

何せ「売春は個人的趣味から嫌い」なのだから潔癖である。

また「知識人として生きるには、女や家庭は邪魔」なのだから潔癖である。

 

尚個人的に死刑は廃止すべきでは無ひとさう考へる。

但し共産主義と民主主義又は人権思想は仰るやうにまさに同根のものである。

 

其れ等は全て近代思想なのだ。

近代以降に確立された拡張思想なのである。

 

 

真意を読み取る言語感覚。思考停止は“嘘”を生む! 呉智英氏インタビュー【第1回】

其の真実の「名古屋論」と云ふものを読んで居なひのですがどうにも気になります。

 

ー資本主義だけがグローバリズムになった。国際資本というのが現れてきたわけで、国家単位の資本じゃないものが動き出しているというのがある。つまり、経済とか物流に関してグローバルになっているけれど、政治体制としてはグローバリズムじゃないんだよね。

21世紀はかつての1国ごとのナショナリズムの角逐・争いではなくて、文明圏同士の対立、うまくいけば協力なんだけど、対立が起きてくるだろうなというのはなんとなく分かる。

アジアで考えた場合は、蒙古の問題を考えなきゃいけない。大中華帝国支那を中心とした中華帝国への郷愁はみんな持っているはずなんだよね。文明国同士が乱立する時代に21世紀はこれからもますますはなっていくだろうなと。アジアのことを考える時は支那の場合は、大中華帝国構想というのは常にある。ー読書家もやりがちな“誤読”とは? 『論語』を正しく読めれば人生観が広がる 呉智英氏インタビュー【第2回】より

 

確かに政治体制としては現代社会はグローバリズムなどでは無ひ。

経済だけが肥大化しより大きく儲けやうとしただけだったのかもしれなひ。

 

現代文明は問題の範囲をより大きく拡げて居るので必然的に文明圏同士の対立が其処に引き起こされる。

やがて中華思想アングロサクソンの生んだ現代文明と大衝突する可能性が高ひ。

儒家道家も其の大衝突からは所詮免れ得ぬものなのかも。

 

 

ー最近はああいう大物みたいな感じでね、忘れられているとか評価したいというのはあまりないんだよね。社会全体がいろんなものが小粒になっているようなところもあって。文学でもそうなんだけど。

ある時期、戦後でも戦後30~40年は、評価は別として三島由紀夫とか大江健三郎とかすごいのが出てきた。未だにそれが重要であると言っている人は沢山いる。昨今100万部売れようと200万部売れようとあんまりそういうのはない。村上春樹はどう評価するかという問題はあるけど、僕はあんま興味ないから読んでいない。ー人生100年時代の日本文化・漫画に期待するのは「何かを強く訴えかける力」 呉智英氏インタビュー【第3回】より

 

尚わたくしの場合も村上 春樹にはまるで興味が無ひのであります。

其の文化が小粒化すること其れ自体に何か問題があるのやもしれません。

 

わたくしは其のことを「虚構化する意味の枯渇」だと捉へて来て居る。

即ち他ならぬ現實が虚構化されたが故にフイクションとしての虚構の場の意味が薄れて来て居るのだと思ふ。

 

事實今やどんな小説を読むよりも現實としての世界の方がフィクショナルなものとなって仕舞って居る。

 

第一コロナウヒルスにて文明が此処まで制限されるのはまさしくウソのやうなほんたうの話なのだ。

其処からしてもノンフィクショナルなものがフィクショナルなものを次第に圧迫しやがては駆逐して行くのではなからうか。

 

 

ーそれを一律に禁止する現代のおかしな「良識」の裏側に、学問の装いを凝らしたトンデモ名古屋論を横行させる原因があるように思える。そうしてみると、トンデモ名古屋論ばやりの背景には、意外に気づかれないが、現代日本の知的頽廃が隠れているのかもしれない。その意味で、名古屋論の虚実を分明にすることは日本の知的現状を検討するきっかけにもなる。ー「トンデモ名古屋論」の陰に日本の知的頽廃より

 

個々のイメージを形作るものが今や大き過ぎる単位なのでまた遠過ぎるところからの意見なので必然としてトンデモ論が蔓延するのだらうと思ふ。

少なくとも地元を知って居なければ其れにつき論評することなどは出来ぬ筈だ。

わたくしの場合は近ひので京都は何度も訪れて居るが大阪や東京のことはハッキリ言って良く分りません。

 

 

「客観的に見て、事実と全く違うでたらめな名古屋論が横行している。雑誌で、新聞で、単行本で、テレビやラジオで、歴史的にも民俗学的にも事実に反する名古屋像が語られている。私はこれに対して強い怒りを覚える。郷土愛からではない。知識人としてである。

 この本は堅苦しく郷土史を論じたものではない。意外な事実を知ることができ、歴史や文化を見る目が鋭くなる本である。通説や俗説を疑うことの楽しさを知る本である。なんとなく通用している俗論を徹底的に批判することが極上の知的エンターテインメントであることを読者に知らしめる本なのである。」(以上、「まえがき」より抜粋)本邦初!呉智英×大竹敏之『真実の名古屋論』より

 

個人的には名古屋人が名古屋メシばかりを食って居ると云ふ事實には反する憶測を是非正さねばならぬと思って居ります。

其れも名古屋メシを食すことの方が實は稀でまさに普段は全國平均のものばかりを食して居ると云ふのに。

 

 

「県民性論議」にフェイクニュースの危険性

但し個人的には県民性なるものはあることかと思ふ。

何故ならたとへば関東の人と関西の人の気質、考へ方の違ひの部分をかうして客観的に常に感じさせられて居るからです。

 

ー明治から昭和戦前期までは、全く逆に、名古屋は美人の産地としてよく知られていた、というのである。その頃の雑誌などにも「美人の産地として有名な名古屋」「昔から名古屋は美人が多い」と頻繁に書かれていた。井上章一は言う。「名古屋と聞けば、美人の産地と反射的に応答する。それが、名古屋観の紋切型になっていた」。ー名古屋「日本三大ブスの産地」説は大ウソ!より

 

以前に何処かで東京の花柳界は名古屋の芸妓により築かれたと聞ひたことはあったが不細工や美人の数は何処でも同じことでありよって名古屋の女が皆不細工だとは言へぬことでせう。

ちなみに松原 智恵子とか竹下 景子、其れに川島なお美や今 陽子などは名古屋圏人です。

 

 

「名古屋の嫁入りはド派手」説、その真実はどうか

嫁入り其れ自体には興味は御座ひません。

が、ナゴヤの嫁入りでは我我が小学生の頃まで餅撒きと云ふことをして居りました。

でも記憶違ひだったかもしれません。

 

「名古屋」と言えば金の鯱。その起源

名古屋城の金の鯱は晴天の日には其れはもうキラキラと良く輝ひておるものです。

 

大阪人は屡名古屋城にも来て居てそんな彼等とたまに話をしますと滅茶苦茶に話が面白ひです。

要するに彼等はいまだに秀吉です。かうして秀吉は結構名古屋が好きなやうだ。

 

愚民文明の暴走

呉氏の本はかって此れを読みましたが爽快な程に文明に対し批判的で兎に角とても面白ひ本であった。

適菜 収も兎に角何でも言ふ奴なのでもうボロクソの本です。

現代日本の文明のあり方が此処ではもはやボロクソに貶されて居りました。