此の映画は35年も前の映画で当時は結構話題となって居た映画であった。
が、わたくしに限り初めて視た。
「弘法大師空海入定1150年を記念して全真言宗青年連盟映画(以下、全青連)製作本部が東映と提携して製作[2][3]。真言宗は50年ごとに一大布教活動を展開しており『空海』は布教の一環となった[4]。全青連が映画公開前に前売り券200万枚を完売させ[3][5]、これが総額で20億円とも[3]、24億円ともいわれ[4]、公開前から大きな興行保障を実現させた[3][6]。このため総製作費に12億円の巨費が投ぜられ[3]、当時のままの遣唐使船を建造した他[3][7]、空海が密教を授けられた地である中国西安に大ロケーションが敢行された[8][9]。」 ー空海 (映画)より引用ー
とのことで、宗教と云ふものは其れなりに大きな力乃至影響力を持って居るものであることが此処からも理解されやう。
ただし問題は宗教其れ自体が集団的な即ち社会的な意味での精神としての指標になって仕舞ふ点にこそ存する。
即ち宗教もまた全体主義化することからは逃れられぬ。
かと言って、純粋なる理性とは脆弱でなかなか当てにはならぬものなのだ。
理性と云ふものはまさに感性の如きフラフラとしたものとも常に裏腹で兎に角容易に感情化つまりは原始退行化し絶対の基盤として世に立つものでは無ひ。
其の理性を超越する形で生を具現化するものこそが宗教的な世界観なのだとわたくしは今捉へて居る。
左様に超越だから言葉の制約、概念上の制約をも踏み越え矛盾を一元化する形で現実を纏め上げていく。
でも其の纏め上げの部分にこそ全体主義性も潜んで居る訳なのだ。
どだい理性と宗教とは余り相性が宜しく無ひ。
何故か?
即ち理性とは信じないことなのであるし、宗教とは信じることなのだ。
其の正反対の要素のぶつかり合ひこそが一種の悲劇であり同時に喜劇でもある。
わたくしはもう長くそんな相剋と相即の関係の中に自らの精神を埋没させて来て居る。
生とはそんな訳の分からない矛盾の中へ自らを焼べ入れることだ。
ただしより正確にはわたくしは傍観者としてそんなわたくしを見詰め続けて来て居るだけのこと。
そんな傍観者であることをあへて行わざるを得ないのがまさに文の人としての宿命なのだ。
理性勝ちな人が生其れ自体を信じて居るか居ないかと言へばむしろ信じては居ないことだらう。
生を信じ切れぬまでに理性化して居り、其のあくまで根が理性的なじぶんを如何にしてケモノ化するかと云ふことがわたくしにとり最大の生の目的であった。
ケモノ化しなひと如何にも危なひ、どうも長くは生きられさうもないので其処を何とか長生きを目指さう。
其の部分とだけの闘ひだけがわたくしの生の軌跡であり其処は皆様にはなかなか理解がしにくひこととは思われるのだがまさにほんたうのことだ。
「空海」には当時のスタア俳優が多く出て居て其の様を眺めて居るだけでも何だかとても懐かしいものだ。
特にわたくしが一番好きだった如何にも真面目さうな俳優である加藤 剛氏が最澄の役を演じて居てまさに其れが適役であった。
尤も北大路 欣也が演じるところでの空海は其れ以上に適役で何故かと云うに往事の北大路 欣也には生のエネルギーのやうなものが迸り出て居たからだ。
空海の場合、以前から「理解出来なひ」と云うのが正直なところだった。
然し次第に空海の持つ多様でエネルギッシュな面にも関心を持ち始める。
エネルギッシュ即ち生のパワーの具現化なのだ。
他方で浄土思想は浄土思想としてより死後の世界に結び付けられたキリスト教的な仏教となる訳でかうした大乗としての仏教の流れが釈迦の思想とは次第にかけ離れたものとなっていくのもあくまで時代の変化に沿ったものだった。
かってわたくしは大乗思想自体に可成に疑問を感じて居り其処でもってして如何にしたら仏教としての再興がなるのか?
などとも考へて居た。
まあ考へること自体は何処までも自由に考へることだけは出来やうから其のやうに考へたのだ。
理性にはさうした余計なもの、変成して仕舞ったものへの無慈悲さがありしかしながら其れが理性の欠陥であり合理的に過ぎるところなのだ。
釈迦の仏法自体がさうなのだ。
釈迦は天才的に合理的な人でもまたあった。
もしも究極的に合理化すれば、人間を此の世から抹消することだけが其の合理化の目的となることであらう。
何故なら人間其れ自体が矛盾の産物なのであらうから。
さうした意味で釈迦の仏法こそは究極的に理性的だ。
キリスト教よりももう一段階位は理性的なのだとも言へやう。
かって西洋の學者や哲學者がこぞって其の合理的理性を褒め讃へたことがあった。
19世紀から20世紀にかけて多くの西洋の知性が釈迦の徹底した合理化思想を認め賛辞の旨を述べて御座る。
また近代科学により成立した近現代の時代の宗教として成立し得るのは釈迦の思想のみだと屡語られたりもした。
即ち釈迦による仏法は理性的には常に正しひ。
其れは確かなのだ。
ただし釈迦は理性にのみ重きを置ひて居た訳ではなくまた其の後の小乗仏教に於ひても理性はむしろ成仏への妨げであるとされて居たりもした。
つまるところ、理性的に此の世界の成り立ちの根本としての矛盾を乗り越えることは出来なひのだ。
相対概念の生じた段階=自他対立を生じた段階で矛盾を解決する手段がもはや何処にも見当たらぬ。
畢竟此のやうな自己矛盾に陥り結果理性其れ自体が苦しむこととなるので理性其れ自体に拘り成仏しやうとしてもむしろ其の理性こそが邪魔となり成道への途を阻むのだ。
だから大乗宗派は決まってもはや余計に考へてはならぬと云ふ。
でも考へないとそも解脱などしやうがないのだがそも考へることを目的化するなと言ひたいのであらう。
だが考へ過ぎぬと理性は病気となりやがて死に至るのやもしれぬ。
現代人はむしろコチラの方の病ではないかと思ふのであるがさてどうであらうか。
そんなこんなで、要するに仏教は流れとして脱観念化の方向へと変成していった。
元々釈迦の気質であった「考へる」=理性的と云ふタイプでの自発的解脱から「考へず」に解脱しやうと云ふ非理性的な救済、つまりは逆方向への流れを作っていかざるを得なかった。
「当時の皇族や貴族は、最澄が本格的に修学した天台教学よりも、むしろ現世利益も重視する密教、あるいは来世での極楽浄土への生まれ変わりを約束する浄土教(念仏)に関心を寄せた。しかし、天台教学が主であった最澄は密教を本格的に修学していたわけではなかった。
ところが小さな流れの中では天台教学こそはむしろ理性的であり庶民にとっては理解し難ひ訳だ。
尚此の庶民とは、所謂世俗的な意味での階級や肩書のことを指して言ふのではなひ。
あくまで精神の段階の高低のことを指しさう言ふのだ。
即ち現世利益のみを求めて仕舞ふのが精神としての庶民=大衆的感覚の持ち主としての常なのだ。
わたくしはと言へば幸か不幸かさうではなかった訳でむしろ逆に其のことがわたくしの生の課題であり苦の内容であった訳だ。
平たく言へば元々精神の性質が高ひところにあり其れでもって皆とは価値観がまるで違ふが故に苦しんで来ざるを得なかったと言ふこと。
が、今は実は必ずしも高ひとは思って居らずむしろ低い、低過ぎた、でも低ひのだから逆に高くもあるのが実相なのかな、とさう思わぬでもなひ。
兎に角わたくしには大衆的感覚が欠けて居ることだけは確かだ。
さて、此の映画では密教に於ける基本的なスタンスが誤魔化されたりすることなくきちんと述べられて居る。
ズバリ其れは愛欲を肯定すると云ふ面である。
ただし自性清浄だからと言って何をしても良ひと云うことにはならなひ筈で、果たして其の肉欲肯定の面が何処まで許容されたものであるのか、詳しくはまだ調べては居ないのであるがいずれにせよ自性清浄としての生の営みが即即身成仏に繋がると云ふことなのだらう。
してみると、密教に於ける精神の流れはどうも性善説の方に傾ひて居りわたくしが奉ずるかまたは理解がし易い性悪的に人間を規定しよって諸の戒律により人間を縛ると云ふ形での其れまでの仏教の流れとは少々異なりより現実的な生きる為の教へとなって居る。
が、おそらくは生きること自体が目的なのではなく生きながらにして成仏すること、生きながらにして一元化すると云ふ其の思想体系こそが目的なのであり性善説であることには余り拘られては居ないのであらう。
だが現在のわたくしにとり密教はまさに生のエネルギーの流れを生み出す何か神秘的な力の源なのだ。
もはや長く理性に傾き過ぎ、生を疑ひ生のあらゆる価値に飽ひたわたくしをして其の倦怠と疲労の極から救ひ出すのはむしろそんな不純なるもの、なのやもしれぬ。
かくしてわたくしは日々疲れ切って居るので、其処で兎に角欲するのだ、アノ護摩の焔が燃え盛る様を。
其の物理的なイノチの力を。生への意欲を、女への執心のやうなものを。
其の生きる上での基本のエネルギーの弱まりが特に最近のわたくしには付いて回る。
精神の力はむしろ増して居るがむしろそちらにエネルギーを吸ひ取られ現実的な強ひ欲望を持つことが出来ぬ。
究極的には東密より其の生きる上でのエネルギーをこそ得たひのだ。
ただし理性的には何処までも密教を批判していくことさへもが可能だ。
だが批判と信心することとは勿論全く違ふ。
確かにわたくしは仏法を信じて居り、其れも何宗を信じると云ふことではなく全体として信ずるのだ。