目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

信ずる者のみが救われよう



ちなみにわたくしはバカが世界を惑わしさうして最終的には世を滅ぼすとさう捉えて居るのである。

つまり外部としての因、社会因たる社会的因果関係なるものを批判の対象として考えて来た。

されど仏法では実はさうは捉へぬ。

仏法では自らの心が悪いつまり未熟または無知=無明なのでかうした腐った世界に居るほかないとさう捉へる。

なので批判はあくまで内面へと向けられ其れを正すことこそが修行=生の目的とされる。



しかしながら生とは究極的には其のバカと利口の闘ひであることも明らかなことだ。

理性と本能の相克の過程、其の闘争の歴史としての絵巻物こそが人類史だ。



バカとは何かと問えば其れは大衆であり女であり社会であるとわたくしはこれまで述べて来た。

バカ=悪なので悪とは何かと問えば其れは大衆であり女であり社会であると云う事だ。

ところが其のおバカが無いとそも世界が開闢しないのである。

だからお利口=価値あるものを含むバカ世界は逆に無価値なもののグダグダした集積から生まれて居たのだ。



だから出産と云う事がまさにさういうことだ。

其れこそが理性的な男性にはとても無理なことだ。

或いは真に理性的な女性にも其れは無理なことだ。

ツンツンして居てまさに鼻持ちならぬ高偏差値女ともなれば矢張り出産には疑問を持ち或は生涯独身を貫くのやもしれぬ。



だから此の辺まで考えることの出来たインテリは皆其の大矛盾に苛まれ絶望したり病気になったり気が狂ふしかなくなる。


おそらくはコノ世界の実相がまさに其のバカと利口の闘ひにこそあるのだらう。

だがコレぞ矛盾である。

何故ならバカが無いと同時に利口も無いので無価値なもの、下らぬもの、もうまるでどうしようもないものを其処に引き受けなければならぬ。

何故なら犠牲が無いと同時に愛も無いので無慈悲なもの、理不尽なもの、もうまるでどうしようもないものを其処に引き受けなければならぬ。



元より其の矛盾は理性=論理=ロゴスでは乗り越えられぬ。

なのでロゴス中心主義では此の世界の実相はむしろ捉えられずしかも其の一歩手前で必ずや敗北するに至る。

さういうのが理性の宿命でありインテリとしての思考の限界なのだ。



ではむしろ何も考えなければ良いのか?

考えずばむしろ其の辺のバカ大衆と同じになって仕舞ふ。


どうだ、怖いだらう。

世界を知的に構築する、または解釈すればする程に論理は矛盾し現実=現象に逆襲されて仕舞ふ。


現象とはさうした恐ろしひ地獄なのだ。

其の事を分かって居るのはごく一握りのインテリ層のみだ。

じゃあ其のインテリには価値があるのか。



ある。

あるが、上へ行けば行くほどにむしろ何も分からなくなるものだ。

じゃ、考えなければ良いのか。

考えずば矢張りむしろ其の辺のバカ大衆と同じになって仕舞ふ。



と云う訳で此の世は理性的に規定し得ぬ。

かと云ってバカで押し通すと理性が劣化し即ち悪魔化しやがて滅びる。



では一体どうすれば良いのだ?

結局どーにもならん。

バカでもダメ利口でもダメ、即ち女でもダメ男でもダメ、釈迦やキリストでもダメ悪魔でもダメ、純文學でもダメエロ週刊誌でも勿論ダメ。

吾妻 ひでおでもダメルソーでもダメカントでもダメ、ショーペンハウアーでもダメレヴィ=ストロースでもダメ。

共産主義でもダメ前近代社会でも勿論ダメ、安倍政権はダメ野党でも全くダメ。




そも言葉、コノ言葉自体が矛盾の産物なのだ。

だから言葉になどなるな。

其れ以前に現象するな。


現象とは悪としての矛盾を抱え込むことぞ。


ただしいつしかさうした認識に到達することだけは出来る。

其れのみが考え込んで来た挙句での成果と云えば成果だ。

謂わば現象すること自体が悪であり矛盾なのだ。



其の認識は如何にも正しひものであるかのやうに見える。

が、実は其れもインテリ層が陥り易い誤った観念であるに過ぎぬ。


では相対主義にすべきなのでは?

まさにかのポスト・モダンのやうに文化や価値を相対化すべきではないか。


馬鹿者!

文化や価値を相対化するに及べば即節操が無くなりケジメガつかなくなる。

今がまさにさういう状態ではないか。

アアまさに際限なき自由、際限なき権利、再現なき欲望の追求へとズルズルと引き込まれて行く社会なのだ。


けだしポスト・モダンもまた限定を生じせしめて居たことは確かだった。



だが其の限定は手ぬるいものだった。

しからばもっともっと限定せずばなるまひ。


そこでいっそのこと全部を縛る。

さうして限定せよ。

無論のこと阿部政権も限定せよ。

さらに女もガチガチに縛れ。


其れ以上に理性を縛れ。

合理主義を葬り去れ。



さうしてつひには自分自身をも縛る。

おお、今縛られた。

もはや雁字搦めだ。


嗚呼不自由だ、窮屈で窮屈でたまらぬわ。



其処からようやくバカを糾弾して回れ。

資本主義の悪ならびに社会の愚を徹底的に批判して回るのだ。


でも君が何処に価値を置き其の批判をなして居るものやらまるで分からぬ。

むしろ其れで良い。

何故なら価値は矛盾することを免れ得ぬ。


よって無価値の価値にて其の矛盾に立ち向かえ。



元より近代社会とは矛盾の檻だ。

しかも其の矛盾は愈々拡大していかう。



此の世が良いのかそれとも悪ひのか?

実は其処のところに諸価値の根本での分かれ目がある。


言うまでもなくわたくしは其れを悪ひものだと捉へる。

さういう捉へ方は普通悲観主義と呼ばれる。


だが悲観主義こそが理性としての癖に当たる。

事実肉体には悲観主義は存在しない。



わたくしはどうも其処が気に食わないのである。

そして現代の諸価値は肉体化しつつあるとさう捉えても来て居る。

肉体化つまりは女性化であり子宮化である。


其の子宮思考こそが現代文明の推進力だ。
だが其れではまさに一方通行なのだ。


矛盾の拡大を生むに至るまさに元凶なのだ。

だから現ナマ化することは危険である。

元より生は愛と殺戮を共に用意する矛盾としての揺り籠だ。

なので勿論良いことばかりではない。

むしろ苦の坩堝である。



でも合理化は其の苦をも相対化して仕舞ふ。

だが本来ならば苦を相対化することなど出来ない。

なので楽だと云いつつほんたうは苦なのさ。

仕合せだなどと云われつつ其の幸せなど欺瞞に過ぎず本質的に其れは苦そのものだ。



さうした騙しの術の集積が近代なのだとわたくしは考える。

が、同時に近代的な快適さも其処に享受せざるを得ない。


なのでまさに矛盾なのだ。

逆に皮肉を込めて言へばより本来的に生の矛盾を履行しつつあるのが現代社会である。


さうして其の価値の実践は常に滞りなく行われ一方通行なのだ。


合理的に完遂される価値の頂点に向かって一方通行だ。

其の価値の帰結するところとは自滅であり其は解放でもなく幸福へと至る道でもない。

とさうわたくしの理性は判断する。



が、肉体は常に何か別のものを求めて居る。

曰く女をモノをさうして美味い飯を。

だからこそ其の相克の過程を生きて行かざるを得ぬ。



其れも欲が深いものだから其の戦闘こそは壮絶だ。

君等の闘ひの比ではない。


ところで何でこんな戦闘ばかりして居るのでせうか?

とさう思わぬでもないが兎に角毎日がまさに其の闘ひの只中だ。



まあ其れは自称の詩人の闘ひなんでね。
學者の方々の闘ひ方とはまた違うことでせうが畢竟其れも一つの荊の道なんでね。

もう最近はコノ闘ひ、コノ戦闘こそが生の実感となりつつあり、アアー苦しひ、アラでも何だか気持ちイイのかも、てな感じですでにもうほとんどマゾヒスト化して来て居ります。


即ちまさに此の苦こそが生の実感なのです。

其の苦こそは釈迦が生に思い悩まれた其の苦の過程でありまたキリストが荊の道を歩まれし神への道筋である。


宗教はかように現実の苦をも相対化しまた死をも相対化し現実から救って呉れるであらう唯一の概念のことです。



たとへば本を読んでも知識と考へる力がつくだけで救ひは得られませぬ。

どだい科学者はまさに地球を滅亡させ人類を絶滅させることであらう張本人ですがつひに反省などひとつもして居りませぬ。


故に科学者は皆間違いなく地獄へ堕ちることだらう。


どだいアノニーチェなどしてはならなひキリスト教批判をなしまたさらに超人だとか何だとかまるでスーパーマンのやうなことばかりを述べだからこそ其処で気がふれて地獄へ堕ちたのです。

キリスト教は正しくそして仏教もまた正しく合理主義のみが、其の限定の解除の思想のみが大間違ひであり其の大間違ひの思想が現代大衆の無知の群れと混じり合いさらに其処に子宮思考と云う強ひ願望、欲望の力が組み合わさり現代文明をしてまさに滅亡の方向へと舵を切りつつある。


アアー苦しひ、と云う其の苦しみをニーチェは否定しより強ひ人間=スーパーマンにならねばならぬと言ったが其れは誤りです。



何故なら人間は苦しんで居て良いのです。

誰しもが苦しひのです。

楽な人間なんて何処にも居りません。

何故苦しひのかと云うと、畢竟其れは社会が悪ひからです。

社会が悪くて酷い搾取ばかりするのでこんな21世紀になっても皆が幸せにはなれぬ。



社会を動かして居る上層部の根性が一番悪ひ。

其処からしてもまあ革命も悪くはありませんが左翼思想にもまたヤバい部分があり其処で理想通りの社会はまず実現しない。

つまりコノ現世で幸せになろうなどと思ってはいけません。



さう仕合せになるのはあの世へ旅立つ時だけです。

だから其れまでにせめて色んなものを食ひ煙草を吸ひ酒を飲み憂さを晴らすのです。

だが女に触ってはならぬ!


其れだけはオアズケだ。

女に触るとショーペンハウアー先生の如くに昇天することは出来ぬ。

また三島 由紀夫先生のやうに純なるたましひとしてかの神社の方へ宿ることなどかなわぬ。



此の世では何ひとつ得るものはなくまた失ふものもない。

ただひとつ悩むこと、思ひ悩み苦しむことだけが汝が心の罪障を軽うしても呉れやう。

コノ心の重荷、まさにまさに此の苦悩と向き合ひさうして余計に悩むこと。

コノことこそが我我罪深き人間の心を浄化しあの世へと、其の真の幸福としての天の園へと、或いは浄福に充ちし悟りの世界へと導く唯一の信仰の手立てじゃ。


左様信仰なくば、コノ信心なくば世は闇じゃ。

ジェンダーフリーだの、ジェンダーレスだの、左様に邪な近代原理に従ひ合理主義の奴隷と化しいつまで生きて居られやうぞ。

左様に邪な人間は今すぐに牢獄に入れ。

コノ悪ひ世に、まさにまさに邪な世に蔓延るではないぞ、此の悪魔共めが!



さうだ、バカを消すのだ。

バカを抹殺しやう。

どのバカを消すのか?


いや其れは特定の個人では御座らぬ。

特定の個人には元より人権が御座らう。

其の人権は大事だぞよ。

其処からしても逆に近代は偉ひぞよ。



だが惜しひかな人間そのものがバカだった。

其処が唯一の盲点だった。

近代インテリ層が醸し出したところでの其の思想または組織こそが間違って居た。

間違ひなのに正しひと頑なにさう思ひ込んで居た。


だが何も心配は要らぬ。


なんとなれば此の世界そのものが間違ひだった。

だから間違ひの中で間違ひを仕出かすことは犯罪でも何でもない。

ただひとつ、其処で是非信心を持たねばならぬ。



信教は自由だとかさういう話では無く合理主義と闘ふ為にイヤでも信心しなければならぬ。

金まみれ、女まみれ、仕事まみれ、享楽まみれ、嗚呼まさにさういうのが合理化されし価値観の典型例だ。

だが金の無い、享楽の無いアマゾンの奥地の部族の生活とて其は立派な実存的価値を有して居るではないか。


アマゾンの奥地の部族とて其の信仰をしかと貫いて居らうぞ!



近代よ!

其の過ちを認めよ。

合理主義よ!

其の非を認めよ。


さうして皆で天国へ行かう。


とは言え集団自決する訳ではない。

あくまで宗教により救われるのだ。



まさに此の世は非情の世なり。

もはや誰も助けては呉れぬ。

もはや誰も信じられぬ。


信ずるに値するものは神仏のみじゃ。

今すぐに人間としてのバカを抹殺し宗教の門をくぐれ。


さうして寺の御住職や神父様に心中の悩みを打ち明けるのだ。

会社の上司も妻子も安倍政権も米国もロシヤも誰も汝を助けては呉れぬぞ!

神仏のみがおお、キリストと釈迦のみが我我の悩める心に向き合ひさうして天国かまたは極楽浄土へと導ひて下さらう。