目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

高僧の不倫ー五ー

”女性脳比率”で、自分の脳を知る  男性脳と女性脳の違い


元より男性は論理主体で考え女性は感性又は感度で感じ取ることを主に認識作用を行って居ることでせう。

ところが実際には其の大枠の中にも様々なタイプがあります。

尚以上での脳の図のところの男脳は直感を司り女脳は論理を司ると云う件はむしろ逆のやうですので間違いなのやもしれない。



他では脳梁での連結の度合いと云う部分がむしろ大きいやうだ。

以前から申して居りますがわたくしの場合は同時に両方がいけてる訳ですのでとても細やかでむしろ女性的でもある訳です。

ところがこれだけ理窟っぽい訳で、しかも男性的にずぼらでさえある。



だから矢張り可成に特殊なタイプでしょう。

ひょっとしたら女になり損なって居るのやもしれない。

何となく昔からそんな感じがしない訳でもなかった。



本来は女として生まれる筈であったのに何故か男として生を受けた。



ところが所謂性同一性障碍と云うものとはまるで異なりわたくしは自分が女であるなどとはまるで思って居ません。

尤も高校生の頃に喫煙ー家でのーが発覚して丸坊主となり其れで長髪のカツラを被って居たことがありました。

しかも其のいでたちで東京の表参道へ遊びに行ったことさえあります。

其の折に真っ赤な綿パンを穿いて居りましたが其れも思えば当時はさほど目立つものではありませんでした。


其れ以降東京へは行ったことがありません。



然しそんな連結の良いまさに女っぽい脳梁である癖にあくまで左脳主体で生きて居るのでありましょう。

だからわたくしが女性的に細やかなのはさうした意味でのことで別に根っからおかまっぽいと云う事では御座らぬ。



ただちょっと違うところがあると云う事である。

ちなみに以上でのわたくしの女脳比率は何と60パーセントでした。



矢張りと云うべきか意外と感情または感性に流されて生きて御座るやうだ。

この普通とちょっと違うところこそが苦労でありかつ難儀である。



特に近頃では何やらクソババアとクソジジイが混ざったかの如き様相を呈して来て居る。

でも何度も申しますが男性の肉体にはほぼ興味が無い。







理趣経(りしゅきょう) 「十七清浄句(せいじょうく)」

妙適淸淨句是菩薩位 男女交合(こうごう)の妙なる恍惚(こうこつ)は、清浄なる菩薩(ぼさつ)の境地である
慾箭淸淨句是菩薩位 欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地である
觸淸淨句是菩薩位 男女の触れ合いも、清浄なる菩薩の境地である
愛縛淸淨句是菩薩位 異性を愛し、かたく抱き合うのも、清浄なる菩薩の境地である
一切自在主淸淨句是菩薩位 男女が抱き合って満足し、すべてに自由、すべての主、天にも登るような心持ちになるのも、清浄なる菩薩の境地である
見淸淨句是菩薩位 欲心(よくしん)を持って異性を見ることも、清浄なる菩薩の境地である
適悅淸淨句是菩薩位 男女交合して、悦(えつ)なる快感(かいかん)を味わうことも、清浄なる菩薩の境地である
愛淸淨句是菩薩位 男女の愛も、清浄なる菩薩の境地である
慢淸淨句是菩薩位 自慢(じまん)する心も、清浄なる菩薩の境地である
莊嚴淸淨句是菩薩位 ものを飾(かざ)って喜ぶのも、清浄なる菩薩の境地である
意滋澤淸淨句是菩薩位 思うにまかせて、心が喜ぶことも、清浄なる菩薩の境地である
光明淸淨句是菩薩位 満(み)ち足りて、心が輝(かがや)くことも、清浄なる菩薩の境地である
身樂淸淨句是菩薩位 身体の楽(らく)も、清浄なる菩薩の境地である
色淸淨句是菩薩位 目の当たりにする色も、清浄なる菩薩の境地である
聲淸淨句是菩薩位 耳にするもの音も、清浄なる菩薩の境地である
香淸淨句是菩薩位 この世の香りも、清浄なる菩薩の境地である
味淸淨句是菩薩位 口にする味も、清浄なる菩薩の境地である
ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/ 理趣経



とのことです。

が、おそらくコレは肯定ではないことと思われる。

ただし否定ではないであろうこともまた確かです。


其の煩悩の肯定と云うか否定に傾かない部分と云うものは大乗仏教としてのひとつの特徴です。


まさに煩悩即菩提でもって煩悩なくば其処に悟りはないと考えていく訳です。



ですが、あくまでそのままに煩悩を肯定して居る訳ではないのです。

まさに方便としての欲望の肯定主義であり、其処で欲望自体に深く捉われて居る訳ではないのであります。



が、そうなればこそ其処で間違へ易くもなりましょう。

ちなみに初期仏教の経典では以上の文言とはまるで正反対のことばかりが延々と述べられて居ります。



特に部派仏教に於いては聖者=阿羅漢になることが人間の目的なので元々誰もが成仏出来るものではないとさへ捉えられて居る。


其のやうな限定の仏教こそが小乗仏教での流れなのです。

わたくしはハッキリ言ってこちらの方が分かり易いかと思います。



特に昨今は皆利口になり、昔のやうに文盲の人や極度に貧しい人などが大きく減りました。

皆其の位のことは分かりましょうから逆に大乗仏教に於ける諸の規定が現代人の理性的解釈とはそぐわない部分も出て来て居やう筈だ。



であるから、兎に角現代人がそのままで仏になどなれる筈がない。

さいいうレヴェルではなく、むしろ幼稚園児並の躾のレヴェルにて其の心のあり方に於ける問題が噴出して来て居やう筈。




ですが、以上での仏教としての秘教ー密教ーの解釈にもまた一理があります。


生がまた性が矛盾化された過程である以上、其の分離度に応じた両面を見なければならない訳だ、其の両面を。



ところが其の両方を普通見ることが出来ない。

利口はあくまで利口でしかもバカはあくまでバカで、さらに男はあくまで男でしかも女はあくまで女である。



其のやれないことをあへてやろうとしたのが大乗仏教としての本質だとも言えそうだ。


ですが其処はあくまで小乗仏教の方がより分かり易くもなりましょう。







歓喜仏と云うのはかの宮澤 賢治の文語詩にも登場するのですが其処では実際物凄い性的結合のエネルギーです。

生命のエネルギーと云う点では最大としての無生命としてのエネルギーである核融合にも匹敵することだらう何かしらとんでもない力のことだ。


と云う事は実は其れ程に生はしつこいものだ、要するにどうにも滅するに滅し切れないものだと云う事です。



現象すると云う事はまさにかうした二元的エネルギーの奔出のことだ。

其の二元的エネルギーの奔出を釈迦は乗り越えた訳ですが普通其れは乗り越えられないものとして我我の心の中に溜め込まれます。



其のエネルギーを逆流させ内側へ向ける、などとも密教では屡云われているのですが其処はどうも良く分かりませんね、わたくしにはまるで理解出来ない。



然し性自体がエネルギーであること自体は間違いない。



其れを否定すると言いますか放棄するー否定も肯定もしないーことで彼岸へと至ることが可能なのかもしれないが其れは俗人には不可能なことです。


そも俗人には其れが不可能なので大乗仏教に於ける自他救済か、または強大な性としてのエネルギーの流れの制御の方法などが模索されていったのかもしれない。






仏教において顕教では、男女の性行為はどちらかといえば否定される向きがある。これに対し『理趣経』では上記のように欲望を完全否定していないことから、「男女の交歓を肯定する経典」などと色眼鏡的な見方でこの経典を語られることがあったり、十七清浄句は欲望の単なる肯定であると誤解されたり、また欲望肯定(或は男女性交)=即身成仏であると誤解されたりする向きも多い。しかしこれは真言密教の自性清浄を端的に表した句偈である。 『理趣経』の最後の十七段目は「百字の偈」と呼ばれ、一番中心となっている部分だが、「人間の行動や考えや営み自体は本来は不浄なものではない。しかし、人たるものそれらの欲望を誤った方向に向けたり、自我にとらわれる場合が問題なのだ、そういう小欲ではなく世の為人の為という慈悲の大欲を持て。大欲を持ち、衆生の為に生死を尽くすまで生きることが大切である」と説き、「清浄な気持ちで汚泥に染まらず、大欲を持って衆生の利益を願うのが人の務めである」と説かれていることがその肝要である[3][注 2]
中村元は「欲望を持ち、煩悩に悩まされている凡夫の暮らしのなかに、真理に生きる姿を認めようというのが『理趣経』の立場である」と解釈している。以上より引用



其の「自性清浄」の意義は大きいですね。

二元的に分離された人間の欲望もまた本来ならば自性としての清浄を保つものなのだらう。


尤も二元的に分離されて居るのは動植物も同じことかとは思われますが、其処に限れば確かに変な意識は無いですね、だから人間の場合には其の変な意識にこそ問題がある。


男女の性行為=一元化のことで、誰しも肉体的に欲望としてさう規定されて居ること自体に何ら問題は無いが其処に変な意識を交へエネルギーを「誤った方向に向け」ることで性自体が貶められていくことだらう。



勿論性行為自体が手放しで肯定され得る由縁もない。

肯定して仕舞へば即価値の一元化でもって矛盾化しおそらくは永久に其の欲望の虜となって仕舞ふ。


其処であくまで正しくは肯定に寄りかからず否定にも寄りかからない立場を維持しなければならない訳ですがどうにも難しいのである、其の力加減が難しくて我我にはそも其れが不可能だ。



尤も不可能のゆえの可能?のやうな部分をこそ担ひ大乗仏教自体が存立して居ることでせう。

矛盾を乗り越える力、其の不可能の可能の力をあへて戒律や常識に捉われない形で大乗各派は追求して来たことだらう。



さうした意味では其の大乗のあがき、みたいなものの価値が分からないではない。

非論理的な部分、またあへて破戒や謗法と云った闇の力の部分にまで目配せして居ると云う点に於いて大乗仏教は決して侮れない。




日本天台宗の開祖である最澄は、当時はまだ無名で若輩の空海に辞を低くして弟子入りし、弘仁3年(812年)11月から12月に密教の伝授を受け、灌頂も受けた。最澄空海の仲は当初非常によく、二人の間にやり取りした手紙は現在23通現存している。しかし、最澄は天台教学の確立を目指し繁忙だったという理由で、空海から借経を幾度となく繰り返していた。空海は快く応じていたが、弘仁4年(813年)11月23日、この『理趣経』の解説本である、不空の『理趣釈経』を借りようとして空海から遂に丁重に断られた。これは、修法の会得をしようとせず、経典を写して文字の表面上だけで密教を理解しようとする最澄に対して諌めたもので、空海密教では経典だけではなく修行法や面授口伝を尊ぶこと、最澄が著書で不空の法は自分の奉じている『法華経』より劣ると密教をけなしたこと[4]、面授や修行なしにこの経文を理解することは師匠も弟子も無益で地獄に落ちる振る舞いであることを理由に借経を断ったという[5]。俗に、この『理趣経』の十七清浄句が、男女の性交そのものが成仏への道であるなど間違った解釈がなされるのを懼れたためといわれているが、これは空海の上げた最後の理由を分かりやすく一般信者に伝えたものにすぎない[注 3]
空海は、その後東寺を完全に密教寺院として再編成し、真言密教以外の僧侶の出入りを禁じて、自分の選定した弟子にのみ、自ら選んだ経典や原典のみで修行させるという厳しい統制をかけた。
また、鎌倉時代には、『理趣経』を依経[注 4] とした真言密教の一派である「真言立川流」が発生し、後に江戸時代になり、淫祠邪教だとして「真言念仏」と共に弾圧されて消滅した歴史もある。(ただし、立川流を弾圧した側の書物はたくさんあるが、肝心の立川流側の書籍は全く残っていないため、それが本当に邪宗視されるべきもであったかどうかについては議論される余地がある。)以上より引用



何故空海最澄からの申し出を断って居るのか、と云う事に関しては諸説あるやうです。

ですが確かに最澄は『法華経』信奉者で其れが結果的に密教を貶した形となったのやもしれない。



最澄が「理趣釈経」の借用を申し出たが、空海は「文章修行ではなく実践修行によって得られる」との見解を示して拒絶、以後交流は相容れなかった。)



かねてよりわたくしが尊敬する最澄は腰の低い學僧でもってまさに真面目な人だったことでせう。

対して空海は実にエネルギッシュな人なので其処でそも性格が合わなかったと云う事が一番大きな問題だった可能性が高い。




即ち最澄はもうまるで學者気質ですね、學者そのもの。


だから密教をも理性にて解釈しようとしたのでしょうが、どだいそんな性力信仰のことなど學者には理解が及ばぬことだったのやもしれぬ。

其れも見た途端にビックリ仰天になって仕舞う虞が大きくある。


どだいSEX仏教はある意味で特に解釈が難しいもののひとつです。

いえ最も難しいとさえ言えるものだ。



性とはさうしたややこしさ、難しさを必然として抱えた領域とならざるを得ない。


あくまで理性にとっての其れがまるで不可能なことであるかのやうに理解し難いものです。

ところが子宮の奥の闇にとっての其れは実は難しいものでも何でもなくむしろありふれていてごく普通にあるものです。





其のやうに分離されそのままに本能として其処に息づいて居るものだ。


けれど其れをそのままに肯定すれば即「自性清浄」ではあり得ないものとなる。



或いは邪な方向へ進めば、其処で即性は悪魔化し自身へと刃を向けることとならう。



つまるところ、性は理性にて規定すべき問題には非ず。


しかれども、其処をあへて理性にて規定せずば其は即悪魔となりて我と我が身を滅ぼすのみ。




其れは謂わばより大きく二面に分かれて居る。


人間の行ひの中ではおそらく最も大きく分かたれしものなのです。



其処に曰く其は男性原理と女性原理の結合である。


要するに論理性と現実性の合体と云う事なのでしょうか。


或いは非現象的な要素と現象そのものとの合体のことか。




いずれにせよどんなに言葉を弄したとしても性は論理的には規定出来ず矛盾化ー論理として破綻ーします。


其の矛盾こそが性の本質でもあり、生の本質でありかつ女の本質です。




と云う事は性は破壊でもまたあるんです。


命は其の破壊の為の利己的な欲望の過程でもある。



破壊しないとそも其の子宮の奥の暗闇が成立しない訳です。


ならば謂わば破壊者である悪魔の仕業なのか。



でも他方では其れは愛としての「自性清浄」の世界なのでもある。


まさに無私無償としての母の愛、どこまでも寄り添う慈愛の光そのものでもある。




謂わば分離度が高くなれば高くなるほどに其の聖と魔としての振幅が激しくなる。


無論のこと性は其の最大値としての聖と魔の領域なのだ。




尚わたくしは何だか絶倫僧っぽい空海のことが好きではないです。


好きではないですが、まさにとんでもない御坊様であったことだけは間違いないことでせう。