目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

高僧の不倫ー四ー


おそらくは性の根源には無明の闇が拡がることでせう。

そして其の無明の闇こそが子宮の奥の闇の渦そのものです。


そして元来性と云うものは極めて強い力で個を規定しているものです。

まさに食欲などと同じで、性欲こそが自己保存欲の最たるものですがよりタチの悪いことに其れは未来を成り立たせる力でもまたある。


まさに其れは本能的規定ですが文明はむしろ其の本能的規定である性を変質させより大きな欲望の満足=アブノーマルな領域での肉欲の為に性を規定しつつあることだらう。

元より其のやうな加工は邪であり謗法そのものでのことです。



其処でかねてより宗教は性を抑える方向へと人間を誘導して来た。

其れを抑えることこそが知恵であり智慧である。

抑えることこそが、実は解放です。



なので性は抑えることでしか本質的に解放され得ない。

其れに抑えた性こそがむしろより嫌らしいとさえ言い得る。



要するに欲望の制御のままならない人間の無明性を切り崩すには抑制のみが其処で成功を収め得る。



そも其れは何故か?


人間の性規定が自然界のものとはまるで異なるものだからです。

厳密には人間の性は其処で二元的分離を受けて居ることだらうある種不明瞭な形での性です。

そのやうな性の現場で天然自然な欲望の発露のしての性などは望むべくもない。



平たく云えば元より其のままでは其処に於ける欲望が絶対化されよりエスカレートし易い性質のものである。

だからこそ宗教は人間の性自体を規定するに及んで来た。



其れがどんなに邪な欲の成就に基づくものであるか?

其の意味をおそらく貴方方は知らない。


性の放逸は無知から生じ無知へと戻る。

其のやうな永遠の循環が人間の性のあり方を刺し貫いて居やう。



左様に性の規定こそが人間の規定そのものである。

また他の領域での現代文明による放恣な様も全てが其の無明そのものへと還元され得やう。



要するに人間の性はそのままに放恣なものではいけないと云う事です。

さらに言えば文明の欲望もそのままに放恣なものではいけない。



何故なら人間は自然そのものではないからだ。

自然を宿しては居るが常に自然からは離れた生き物である。

ゆえに其の寄って立つところでの法則は自然界のものではない。



事実我我は今理性的規定による現在を成り立たせて来て居る。

しかしながら其の理性的規定には不備がある。

其れは謂わば全体を見失った不備であり同時に自己を見失ったことによる不備だ。



其処では逆に合理化が性を貶めていくことだらう。

情報化やより合理的な欲望の追求と結託した性が性をモノへと変えていくのだ。

そして性が愛と分離される。



尤も性は愛とは違う。

性は元々可成に即物的なもので観念化され得ないものだ。

かの美輪 明宏氏が仰るやうに其れは排泄などと全く同じ領域でのことだ。




然し合理化が人間の性を何処まで貶めていくものかは予測がつかない。

其のやうに現代の性の本質とはまさに其の性の破壊への危惧にこそある。



従ってかって行われて居た僧による男色や此の度引き起こされた高僧の不倫の問題などは実は取るに足らぬことだ。

其れは性自体を破壊に至らしめると云う大問題ではないのである。



さて現代に於ける諸問題の特徴は、~そのものへの破壊と云う事なのである。

たとへば地球そのものへの破壊であり、またたとへば婚姻制度そのものへの破壊であり、たとへば精神そのものへの破壊であり、そしてたとへば性そのものへの破壊である。



其のやうに現代の破壊が齎す影響は限りがない。

限度を忘れた文明が齎す破壊なればこそ其れには限りがない。



ならば其の破壊は人をして何処へ連れていくのだらうか。

実は何処へも連れていかない。

今此処で其の破壊者そのものとしての大欲望を解放しやがては自らをも壊す。



今此処でのみ人間は自己完結し死に至る。

まさに其の死に至る病こそはSEXにて感染するのだ。



さて性の負の側面につき以上で述べ切りました。



性は負の領域の拡大、破壊の拡大を齎す原動力でもまたある。

其のやうな視点からこそのみ性を規定していくことが可能だ。

其のやうな視点が無くば、性は本質として規定され得ない。



何故なら其れは生理現象であるのだから。

ところが其の生理現象としての性をそのままに解放し得ないのがまさに人間の性である。

其の悩みの種、理性にとっての牢獄としての性をどう規定していくべきかを考えるのが宗教または教育の目的である。



ところが其の宗教並びに教育が淫売窟されるに及んで居る。

どうもコレは欲の制御が、其の諸の欲の制御が社会的に機能不全に陥りつつあるからなのだらう。

何故なら近代と云う限定の解除の思想が個の領域さえをも侵し始めて居るのである。



平たく言えば兎に角いつどこでも我慢がならない。



其のやうな心的状況にいざ陥れば、もはや其れは宗教でもなく教育でもない。

須らく遥か其れ以前の話なのである。

つまりは人間の心のあり方の常識としての話。

そしてまさに幼稚園児への躾の話でもある。



此のやうに現代人の心のあり方がいつの間にか原始退行現象を引き起こす。

そして必然として悪魔化する。

其のやうな原理につきわたくしはこれまで多くの時間を費やし述べて来た。



尤も其ればかりではなく一体どうしたら其れが治せるかと云う事も同時に考えて来た。

ですがもはや治らない、と云うことが結論として其処に見いだされて来て居る。


曰く人間は治らない。

治らぬ人間程醜い存在もないが其れはさういうものである他ないのであるからまさにさうしたものだ。



性を巡る視点とはさうした大領域の問題との結合こそが必要である。



普通人は性をさほど大事には捉えて居ないことだらうが其れは人間の根本の問題である。

謂わば人として人を成らしめて居る根源的な矛盾の問題だ。

人間の根本の問題とは其の心のあり方の問題である。



即ち心のあり方を変えなければ生に於ける諸の破壊の問題も解決しない。


だが現代人は性の破壊が生じて居ること自体に気付いて居ない。

ゆえにわたくしの言って居ることが意味不明にも受け取られることだらう。


だが其れはある、あるのだ、人間の破壊が今まさに進んで居やう。

其の中にこそ性の破壊が存して居るのだ。





尚仏教にはかねてより性的な事象に摺り寄っていく流れさえもが存して居た。

即ち密教としての仏教である。




密教成立の背景には、インド仏教後期においてヒンドゥー教の隆盛によって仏教が圧迫された社会情勢がある。ヒンドゥー教の要素を仏教に取り込むことでインド仏教の再興を図ったのが密教である。しかし結果的には、インド仏教の密教化はヒンドゥー教の隆盛の前にインド仏教の衰退を防げなかった。
西アジアからのイスラーム勢力が北インドを席巻しつつあった時代にあって、やがてインド仏教は、インド北部から侵攻してきたイスラーム教徒政権(デリー・スルターン朝)とインド南部ヒンドゥー教徒政権との政治・外交上の挟撃に遭うことになる。当時のイスラーム教徒から偶像崇拝や呪術要素を理由として武力的な弾圧を受け、12世紀におけるインド密教の最後の砦であったヴィクラマシーラ大僧院の炎上をもって、インドにおける密教は最終段階のインド仏教として歴史的には消滅に追い込まれる結果になった。以上より引用



密教とは顕教ではない仏教のことですが一言で申せば多分にいかがわしいものを其処に孕んだ仏教系の宗教のことです。

ただし中には密教は仏教には非ずとの考え方もまたあります。


実はわたくしも半分位は純粋な意味での仏教ではないことだらうと考えて居ます。

さういうのがあくまで理性的判断と云うか理性に捉われた部分での密教に対する規定なのです。

然し、物事には必ずや二面があり其処で実は他面ー自己にとってのーを否定出来ないことを先にわたくしは示して来て居ります。



ですのであくまでさうした非論的要素、逆に言えば論理をも飛び越えていく生きる力の其の根源力のやうなものに密教が達して居ないとも限らない。

ましてやそればかりか曼陀羅に代表される高度に理論的な要素にも溢れて居ります。



だからハッキリ言って胡散臭いことこの上ないが何故か魅力的ではある、と云った感じでしょうか。

胡散臭いことこの上なく釈迦の仏教とは別物だが其処で何かを攫んでいないとは言い切れない。


第一密教はSEX教でもまたあるんです。


ですので密教はわたくしにとりまるで女そのものと云った感じの仏教です。

即ちいかがわしいものでしかもかぐわしいものでさえある。

おそらくは心が腐って居るのに何故か花のやうでもある。



ア○コそのものが第一腐っていやうが其処からし仏陀もキリストもまた我も生まれぬ。

他の何かからは生まれやうがなく仕方が無いので皆ア○コから生まれました。

と云った感じでしょうか。



ア○コの罪深さはもう兎に角譬やうも無くそしてまるで測り知れないもので死と生に関する全ての罪深さを其は引き受け其れでも壊れずにちゃんといつまでも機能して御座る。


もう其れだけで神であり佛であり同時に淫売窟であり悪魔である。



其のやうに極端な領域へと分離していくことこそが実は女の本性でありズバリア○コの本性である。


然し残念ながら君には其の本性まではとても見通せない。

幸いわたくしは眼が普通では無くおそらく百里眼位は持って居るから女の正体はすでに見切った。



しかしながら其の女よ、即ち現象の王、現象すること自体を疑うことを知らぬ無明のなかの無明の王、其の即物性と豊かな感性並びに無知無明である様よ。


おまけに馬鹿の中の馬鹿、其のまことの馬鹿こそは真の利口でありかつ闇の力の持ち主だ。

闇の力即ち女の魔力こそが生=性の秘密を解く鍵じゃ。



嗚呼ー、もう、兎に角ドロドロだ。

其の女の腹の奥が兎に角常にドロドロだ。

しかるに其のドロドロを理性にて規定することなどかなわぬ。


どんなに頑張っても理性のみにてイノチの息吹を齎すことなど不可能なのだ。



密教の存在意義とはまさに其処にこそある。


其れは極度に分かたれて居るのだ。

だから一面では生及び性そして人間に対して正直なのだ。

でもだからこそ其れは時に仏教としての枠を壊して仕舞う。



其処でもはや其れは仏教ではなくSEX邪教と化す。

が同時に其れは極度に観念化され仏の世界へも通じて居やう。

…のやもしれない。




「インドにおける密教は最終段階のインド仏教として歴史的には消滅に追い込まれる結果になった。」


密教は仏教としての最後の形として印度に誕生した。

即ち滅亡寸前でゴチャゴチャ、グチャグチャになりながらまさに生と格闘したのが密教としてのあがきであった。


然し其れゆえに其処でもって何かを獲得して居たのかもしれない。

理性では規定し切れないことだらうまさにドロドロの闇の内容を其れは記録して居るのやもしれぬ。



善いか悪いかと云うことで判断するならば、釈迦の教えとはまるで異なる密教の教えが善かろう筈などない。

されど密教はあえてさうすることで生き延びやうとしたのだ。

あえて不純化することで、あえて其の訳の分からぬヒンズーの神々を取り入れることで生き延びることを選んだ。



だが結局は矛盾化して滅んだ。

かうして印度に於ける仏教は滅び、逆に東方の国々の精神を規定するに至る。




また、インドにおいてヒンドゥー教シャークタ派タントラシャクティ(性力)信仰から影響を受けたとされる、男性原理(精神・理性・方便)と女性原理(肉体・感情・般若)との合一を目指す無上瑜伽の行も無上瑜伽タントラと呼ばれる後期密教の特徴である。男性名詞であるため男尊として表される方便と、女性名詞であるため女尊として表される智慧が交わることによって生じる、密教における不二智[注釈 20]象徴的に表す「歓喜仏」も多数登場した。無上瑜伽タントラの理解が分かれていた初期の段階では、修行者である瑜伽行者がしばしばタントラに書かれていることを文字通りに解釈し、あるいは象徴的な意味を持つ諸尊の交合の姿から発想して、女尊との性的瑜伽を実際の性行為として実行することがあったとされる。そうした性的実践が後期密教にどの時期にいかなる経緯で導入されていったかについてはいくつかの説があるが、仏教学者の津田真一は後期密教の性的要素の淵源として、性的儀礼を伴う「尸林の宗教」という中世インドの土着宗教の存在を仮定した[23]。後にチベットでジョルと呼ばれて非難されることになる性的実践[24]は主に在家の密教行者によって行われていたとも考えられているが、出家教団においてはタントラの中の過激な文言や性的要素をそのまま受け容れることができないため、譬喩として穏当なものに解釈する必要が生じた[25]。しかし、時には男性僧侶が在家女性信者に我が身を捧げる無上の供養としてそれを強要する破戒行為にまで及ぶこともあったことから、インドの仏教徒の間には後期密教を離れて戒律を重視する部派仏教上座部仏教)や、大乗仏教への回帰もみられた。それゆえ、僧侶の破戒に対する批判を受けて、無上瑜伽の実践もまた実際の性行為ではなく、象徴を旨とする生理的瑜伽行のクンダリニー・ヨーガ[注釈 21]による瞑想へと正式に移行する動きも生じた[注釈 22]。これらの諸問題はそのままチベット仏教へと引き継がれ、後に解決をみることになった。
一方、瑜伽行は顕教ではすでに形骸化して名称のみであったが、密教においては内的瑜伽や生理的な修道方法が探究され、既に中期密教で説かれた「五相成身観」や「阿字観」、「五輪観」に始まり、更には脈管(梵:ナーディー、蔵:ツァ)や風(梵:プラーナ、蔵:ルン)といった概念で構成される神秘的生理学説を前提とした、呼吸法やプラーナの制御を伴う瑜伽行の諸技法が発達した。とりわけ母タントラ系の密教では、下半身に生じた楽を、身体の中央を貫く中脈(梵:アヴァドゥーティー、蔵:ウマ)にて上昇させることによって歓喜を生じ、空性を大楽として体験する瑜伽行が説かれるようになった。後期密教の生理的瑜伽の発展した形は、チベット密教の「究竟次第」(蔵:ゾクリム)と呼ばれる修道階梯などにみることができる[注釈 23]。以上より引用




此の性的瑜伽と云うのはまさにとんでもない行ひです。

要するに行者によりSEXの実践行為が行われて居たと云う事だ。

其れもこと細かく女の齢ややり方などが決められた上で決行されていたらしい。




事実こうしたかっての行ひを逐一調べ上げてコレぞまさしく悪魔の行為である、所謂悪魔信仰、悪魔崇拝の一種だとして密教またはチベット仏教を糾弾して居る方が居られます。




ですがわたくしの場合はあくまで其れは違うと思うのです。



あくまで真面目に性の意味=生の意味を突き詰めていった結果其のやうな性行為の礼賛と云うか性的実践が行われたのではなかったか。

と申しますのも、生とは二元的対立を生む矛盾そのものの過程であり、其処に於いて論理即ち理性に傾いたままでの生または性の解釈がそも成り立たないからなのです。


即ち理性が性を否定すると同時に理性自体が否定されるに至る。

煩悩を否定すると同時に仏性自体が否定されるに至る。


まあ其れでもって煩悩即菩提と云うやうな考えが其処に成立したりも致しましょう。




ただしわたくしは立場上むしろ潔癖に釈迦の教えをこそ重視すべきだと考えて居ます。

無論のこと重視はすれども其れをそのままに行ひたいなどとは実は考えては居りませんが。

ただし少なくとも出家者は其れを最重要視すべきではないだらうか。



其の過激な密教系の或はチベット仏教系の性的儀式は無論のこと現在では行われて居ないことかと思われますが其のやうな行為が今もどこかの秘密めいた宗教団体で行われて居ないとも限りません。

然し日本で垂れ流しのエロ動画ではさうした儀式の過激度が増して居るやうにも思われるのでズバリ言えばむしろそちらの方こそが問題です。

兎に角現代の合理的な思考に基づく行きずりのSEX、金目当てでの売春や不倫と云った類のものこそが最も穢れた性であり悪魔の行ひそのものでせう。



確かに現れし形も大事ですが其の形、現象に込められた真の意味を見破らねばなりません。

さうした見方の出来ない人がほとんどですので、このやうなテーマを語りますと誤解を招く恐れさへありましょうがなりゆき上とりあえずは述べてみたまでです。



あくまで初期仏教に拘るのであれば密教系の或はチベット仏教系の大部分が全く別の宗教と言っても良い程のものとなることだらう。


ですが其れを言えばまさに日本の大乗各派そのものが釈迦の教えとは乖離しあろうことか神道とも融合したまるで別の宗教なのです。

つまりはほんたうの仏教ではないことだらう。


然し性力信仰に頼る仏教は幾ら何でも其れはやり過ぎと云うものです。

ただし現実的にはあくまで性=力でありしかも性=生なのです。

生が本質的には自滅過程であり矛盾過程であるのは其のやうな力の論理=現実力=絶倫の力を信仰して居るからにほかならない。


ですが生自体が壊れそうな程に理性的な方-実はわたくしもさうですが-はあえて其の性力信仰に擦り寄ってみるべきなのでせう。