目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

高僧の不倫ー参ー


全ての物事が二元的にしか捉えられない現象界の理性には必然として其処に悩みが生じましょう。

勿論迷ひの方も生じて居るのですが其れは根源苦のことで其れに加え理性的格闘による苦が付け加えられます。


ところが理性による分解苦が少ない人もまた居られます。

ですが文化を形作って来たのは例外なく逆に悩み多き=理性勝ちの人々でした。



今思えばかの夏目 漱石や芥川 龍之介などはまさに其の理性との格闘に殉じた作家達でした。

まあ其処では人間としてほとんど最大限に悩んで居たのだと申されるべきでせう。

かと言ってお二方とも普通に妻を持ち子をなして居られましたが。



其の理性が強ひタイプですと、女が言いたいことを言うやうになった現代では特に兎角女とは縁がなくなりがちです。

何でですかねえ。

兎に角分かるみたいです。

多分女は利口な男が嫌ひなんじゃないでしょうか。



理性的格闘=理性による苦が生命力を弱らせていくこともまた確かなことです。

其の動物力の減退を或は女共が嗅ぎ取って居るのやもしれない。



ところが借金まみれの不倫男でも或は絶倫なのか兎に角モテるやうです。

そんな訳で女は兎に角生きようとする生き物なので直感的に何らかの力にすり寄るものです。

第一そんな五十億もの資産があればどんな下らないジジイだらうが其処に自然と女が摺り寄っても来ましょう。


第一金のあるクソジジイで女が居ない男など居りません。

対して真理に生きる男性は普通女とは縁が御座いません。

だから女が悪魔であるのは至極当たり前のことです。



なのでいっそのこともはや生を止めたいやうな方は金輪際女に近寄ってはならない。

ですがまだ生きたい、まだ住宅ローンも残って居るし、バカ息子がようやく三流大へ入ったばかりで毎年学費が百萬以上はかかる。

おまけに不細工な妻なれどとりあえずはわたくしの方から手を付けた女だ。

なので責任を取りたい、第一おまへが居ないともはや生きていけない。



そんな状態では女が悪魔から菩薩様聖母様へと変身して居ります。

そうです、其の二面性こそが女の正体なのだ。

鬼子母神であり夜叉である女が時にマリア様観音菩薩様におなりである。



即ち欲が深いから必然として其のやうに二種に分かたれる。

であるからあくまで女を否定することが出来ない。


女を否定した途端に汝もまた否定されて仕舞ふ。



と、其のやうに考えていくと、逆に女を肯定してみてはどうかと云う考えに支配され、其処で何を勘違いしたものか好んでピンサロだの出会い系サイトだのを利用してみるやうにならないとも限らない。

然し大方の場合そんな理性勝ちのアナタ、アナタに限ればまずは本質的に不器用だから兎に角悪い女に引っ掛かり易い。

女に引っ掛かり大金を毟り取られたりはたまた淫行で逮捕されニュースで実名報道される位のことがオチだ。



だから一切女には手を出さないと云う考えの方が実は偉い。

勿論其れが可能なのであれば偉い。

然し、男性の性機能は女無しではそも成り立たない。



対して女性の性機能は男無しでも成り立つ。

其処が実はとんでもない不平等である。


女性はSEX無しで済まそうと思へば死ぬまで無しを押し通すことが可能だ。

だが男性はSEX無しだと次第に体が弱って来やがて使い物にならなくなる虞が出て来る。



つまるところほんたうのほんたうは、ちゃんと性の営みがある方が男女共体にとっては良く勿論長寿にも繋がらう。


然し合理化されし現在では其の動物的な流れを理性が受け容れられないケースも多い。

さらに様々な他の様々な理由で異性と付き合えない場合さえもがある。



ただしわたくしの実感からは、矢張り人間はパートナーを得て時には理性をぶち壊した上での喧嘩、そして仲直り其の後にエロズバリSEXだ。

コレを行ふことこそが大事だ。

しかしながらエロ無しでお付き合ひをすることも今はあへて認められるのではないだらうか。



わたくしの理想はまさにカント級と佐伯啓思級の理性の絆でもって結ばれた男女が現代文明の行く末を死に至るまで共に見つめていくといふものであり、つまるところは其処に肉欲などはまるで入って居ない。

即ち純粋理性の同伴過程であり、実は其れを実現するにあたり最も適役のパートナーはズバリ女医である、との結論に至りつつある。


嗚呼、女医様。

たとへば其の美人の歯科医さんなど。



ところで女医様のパンツはどんなでしょうか?

普通のパンツと違うやうな気がしてならぬが実際のところはどうなのだらう。




さて、そのやうに性を善きもの、望ましいものとして捉えていく傾向が我が國にはあると以前から述べて来て居ります。

無論のこと性はまさに淫靡なもので恥ずかしいことこの上ないものなのですが其れが現象としての実質上は欠くべからざる重要な営みであらうことは間違ひなきことです。



されど一面では其れはまさしく悪魔の行ひでもまたあるのです。

即ち善があれば悪があり即ち神として祀る行ひであり同時に悪魔としての斥けられるべき行為なのでもある。


事実神道ではSEXは神の行ひとして祀られたとへば注連縄と云うものがありましょうがあれなどはズバリ蛇の交尾の様を具象的に写し取ったものです。



そして男根崇拝やまたは女陰信仰と云うものが日本の各地に今なお残って居ます。

おお、デカい魔羅が其のギンギンの魔羅が神輿に乗って担がれていくぞよ!



しかしながら其の魔羅程苦労させられるものもまた御座いません。

俗人でも実際其の制御に苦労致しますが、僧侶ともなれば其の苦労やまさに尋常では御座らぬ。


兎に角其れが横着者である。

其れも毎日ギンギンなので其の悶々とした感じは永遠に女共には分からぬことだらう。




其処で古来より女犯の破戒を避ける為代わりに男性の可愛い子をSEXの対象とすることが広く我が国では行われて居た。



大規模寺院における稚児[編集]


 平安時代頃から、真言宗天台宗等の大規模寺院において、剃髪しない少年修行僧(12~18歳くらい)が現れはじめ、これも稚児と呼ばれるようになった。皇族や上位貴族の子弟が行儀見習いなどで寺に預けられる「上稚児」、頭の良さを見込まれて世話係として僧侶に従う「中稚児」、芸道などの才能が見込まれて雇われたり腐敗僧侶に売られてきた「下稚児」がいた。禅宗では喝食と呼ばれた。

髪形は垂髪、または、稚児髷で、平安貴族女性と同様の化粧をし(お歯黒も付ける場合もあった)、極彩色の水干を着た。又、女装する場合もあり、その場合、少女と見分けがつきにくかった。

真言宗天台宗等の大規模寺院は修行の場であるため山間部にあり、また、女人禁制であるため、このような稚児はいわば「男性社会における女性的な存在」となり、しばしば男色の対象とされた(ただし上稚児は対象外)。中世以降の禅林(禅宗寺院)や華厳宗などにおいても、稚児・喝食は主に男色、衆道少年愛の対象であった。

特に、天台宗においては「稚児灌頂」という儀式が行われ、この時に「○○丸」と命名された。これを受けた稚児は観音菩薩と同格とされ、神聖視された。また例えば華厳宗東大寺の宗性のように、およそ100人の稚児と関係を持った僧侶も存在した。

室町時代に書かれた「お伽草子」には僧侶と稚児の恋愛や稚児が観音菩薩の化身として現れる“稚児物”と呼ばれる作品群があり、また稚児を巡る社会風潮を批判するために書かれた『若気嘲弄物語』のような作品もあった[1]。以上より引用


   


でも正直わたくしは男色にはまるで興味が無い。

どうしてかと云うと、男性ってそも汚いので触ると実に汚ささうです。

わたくしは可成にメス的でもあるので、兎に角さういうのが性に合わない。


また抱かれてみたいと云う気分もまるで御座いません。

ただしあくまで男性を精神的に好きになることは出来さうな気がして居ります。

さうした意味でのまさにプラトニックな愛は多分いけることでせう。


それにつけてもそんな「華厳宗東大寺の宗性のように、およそ100人の稚児と関係を持った僧侶も存在した」とのことですからさそや其の御坊様は絶倫、即ちギンギンだったのでありましょう。ーつまりはピンピコピンのギンギンー


しっかしそんなチビの時にクソ坊主の魔羅の相手をさせられるなどまあ何ともえげつないお話では御座いませんか。

全く人権もクソも無い話ですね。

どんなに金を積まれてもわたくしの場合はクソ坊主の魔羅のお相手などは絶対に出来ません。



其れと矢張りと云うべきか坊主はなかなか性欲が強くあるやうだ。

何せ禁じられて居ますからね、其の女の股の間こそが触るだけで地獄へ堕ちる最短距離ですので其れに絶対に触れてはダメだ。

しかし女の乳房、コレを揉んで魔羅を慰めると云う手も或はあったのではないか。



まあおそらくは厳密には其れもダメなのでせうが。



兎に角女は其の魔羅の苦悩がまるで分かって居ない。

謂わばほんたうに苦悩であり苦行なのだ。

であるからこそ女共は是非ひれ伏して魔羅を拝んでいなくてはならない。



さて、かように性自体が二面の姿を持ちます。

善なる生に対して意欲的な側面であると同時に悪なる破戒者としての側面です。

俗世間では前者の価値が価値として捉えられやうが、宗教的な価値観の上ではむしろ其れは破戒であり悪魔としての行為なのです。

ところで何故宗教的に性は認められないのでしょうか?




仏教…解脱に至ることを妨げる最大の悪趣として捉えられる。ただし僧侶に於いてであり、在家にあっては不倫のみが戒められて居る。

キリスト教…神の意に背く形での邪な性欲の解放は固く戒められて来て居る。



ではありますが、大乗仏教は上記の如くに性規定が極めて緩い。

女犯がダメなら男犯があるさ、と云うのがかっての大乗仏教各派の考え方だった訳です。

然し其れは○のあり方がまるで違うのではなかろうか、まあ其れでも結局は同じか、其のギンギンの魔羅にとっては。



残念ながらキリスト教も堕落しかかっては居りますがとりあえずは性規定に関しては潔癖だと見て置いて良いことでしょう。

ですが性が大解放されて久しい米国の性秩序などは明らかに行き過ぎのところがあります。

たとへばバックパッカーみたいな女の子が見ず知らずの男の変わった家へいきなり泊まり込みに来たりするのですから其処で何が起こるか知れたものではない。



だからもう少し性として普通になる必要がありましょう。

ただし現在独身者が急激に増加して居ります。

なので赤線は是非復活させるべきです。

然し逆に女子学生の売春などを容認して居ては絶対にいけない。



何故そんなことが分からないのでしょうか。



其れと結婚し易い社会としての環境を整えなければより性は無規定化されていくことでしょう。

即ち今後より性犯罪には繋がり易くなりましょう。



然し御坊様が率先して不倫などして居て一体全体どうする御積もりなのでしょうか?

或いは大乗仏教の僧侶には女犯の意識などとうの昔に薄れて存在して居ないのかもしれない。



然し女犯の罪は必ずやあらう。

其の罪の段階につき考えてみました。

A級犯罪…結局此の世にて子をなした。
B級犯罪…女と交わった。或は男色に耽った。
C級犯罪…女陰を見た。或は魔羅を見た。
D級犯罪…ロリ系のエロ漫画をいつも読んで居る。或はエロ動画の鑑賞が趣味である。



とのことで次第次第に性が善きものとは思えなくなって参りましたが兎に角そんな風に性の性善説と云う考えは古来より確かに存して居りましょう。


尚人間と云うものは思い込みの生物ですので、全体的理性には従わない分理性的性規定ー内在するーと本能的性規定の間を常に行ったり来たりしてどちらかと云えば性の性善説の方へと傾き易いもののやうです。


ですが一神教の方での性規定はむしろ厳しいものがあります。

たとへばムスリムに於ける現実としての性規定なども矢張り非常に厳しいものがあらう。

そして完全に近い形での性の性悪説に傾いたのは初期の仏教やジャイナ教など、それからイエスの説いたキリスト教なども明らかにさうです。

勿論他にも色々とあるものと思われる。



尚個人的には性は必要悪であると考えます。

其れは善なる悪としての生の推進力そのものだとも言える。

そも善なる悪の行ひこそが悪魔の仕業である訳ですが、其の悪魔であることに気付かずに人間は其の生涯をただ繰り返していくのです。

其処からしても宗教の規定する性または生はまさに一面での真理を宿して居ります。


宗教が無ければ、人間が経験せざるを得ない生老病死すら性善説の方へと傾き易いことだらう。

また人間の性規定自体も性善説の方へと傾き易いことだらう。