目覚めよ!

文明批判と心の探求と

愛とは何かーⅢ


タルコフスキー監督の「惑星ソラリス」を私が視るのはかれこれ十年振りのことでした。

其れもまさに昨日視たのでしたが、矢張りと云うべきか感動致しました。

其処でまず感じたのが合理主義ではない映画の良さと云うものです。


逆に炙り出されて来るのが、現在の映画の、特に21世紀になってからの映画のテンポの速さや思考力の無さと云う点です。

また、合目的的に過ぎる点、即ちストレート過ぎて余韻や余白の部分が生きて来ない現代の映画、藝術表現と云う事に就いても考えさせられました。

でも余計な回り道や冗長さ、或いは前置きの長さ的な部分こそが非合理性をも内包しかつ考えさせて呉れる作品に仕上がる秘訣なのかもしれません。


合理主義の映画は何よりすぐに飽きますし合理主義の社会も何よりダメな社会です。

つまりは社会は合理化により崩壊へ向かって居るのではないかとの疑いが其処により鮮明になりました。



惑星ソラリス」を視るのは今回で十回目位かと思いますが、私の場合は映画の内容は結構良く忘れて仕舞う方なのであれ、果たしてこんな映画だったかな?などと思いつつ意外と引き込まれて視られました。

全体としては静かでかつ長い映画です。


映画のラストシーンが印象的です。

結局彼クリスはソラリスに取り込まれて仕舞う。

ソラリスは未知なる生命体?ですが、其れに取り込まれると云うよりは現実としての記憶の世界に取り込まれて仕舞う。


ですが、あくまで其れは人間的な結末です。

人間にとってはあくまで人間が大事と云うことなのであり其処で大事なのは未知の海であるソラリスでも未知との遭遇でもなく人間だけなのです。



即ち人間は人間です。

宇宙人でもなければ昆虫でも無い訳だ。

人間に興味のあるのは家族であり故郷であり思い出つまりは記憶です。

それと女です。

矢張り女には一番興味があり、ソラリスと云うのも実は其の女の化身です。



謂わば女の化けものがソラリスであり、コイツが色んなものを生む訳ですがとりあえずは其処で人間に興味のあるものばかりを生んで居る訳です。

其の女の化けものが生んだ女の化けものがハリーです。

高校時代に此のハリーを演じた女優さんが物凄く魅力的に感じられて居ましたが今見ると余計にこんな人にこそ彼女になって貰いたいものだ。



では人間には宇宙など必要がない筈なのに何ゆえ人間は宇宙のことなど考えるのだ、そも其れは不必要なことで余計なことなのではないのかとの疑いがもう否応なく生じて仕舞う。


と申しますか其れが現実であり事実なのです。

タルコフスキーの現実であり事実なのです。

そしてわたくしの現実であり事実なのでもある。


一方レムは、全くそうは考えて居ませんでした。

レムは、あくまで人間の理性の及ばない領域と理性との邂逅と云うテーマで此の作品を組み立てて居ます。



ですが、果たしてその様なことが此の世界にあり得るのでしょうか?

未知の生命との遭遇はあり得るのでしょうか。

あり得るのだとすれば、未知の女との遭遇であり未知の事故や犯罪との遭遇でありまた未知の学問、藝術、自然などとの邂逅であり其処には宇宙生命なんてものは何処にも出て来ないものです。


ですので、所謂メタ・サイエンスフィクションとしてのレムの作品よりもずっと人間の内面を掘り下げて問うて居るのがタルコフスキー作品としてのソラリスなのだと思われます。




そして人間は畢竟愛に縛られし生き物です。

愛の形は色々あれど、兎に角愛、愛がなければ実は一刻も生きて居られない存在である。


なので人間は自然と愛を求め生きていくのです。

其れが神の愛だろうが女の愛だろうが男の愛だろうが父母への愛だろうが何でも良い訳です。


未知の海への愛、即ちソラリスが提供する虚の愛だろうが何だろうが本人にとっては真実の愛であり紛うことなき現実的な愛の形なのです。

事実、真実の愛とは虚の構築のことです。



此の世での行いには全て此の虚の領域が含まれて居ります。

所謂神への愛、にさえ其の虚が含まれて居るものと仏教徒としての私はそう断じられます。

即ち虚からこそ真を生むのです。

虚であるからこそ真を生じ得るのです。



ですので、嘘は嘘ではありません。

たとへばほんたうは浮気をしたが浮気など金輪際したことはない。

とアナタ様が断ずれば女房は今夜も安眠することが出来よう。


でも女房が浮気したことを金輪際赦してはならない。

女はまさにハリーの如くに潔癖でなくてはならない。

つまりは愛する夫又は恋人の為には自決する程の覚悟でもって殿方を愛するべきである。



と云ったところでの宇宙を貫くバランスが実相としてあると云う事をこの際此の映画から確りと学んでおくべきです。




今一度言いますが、ほんたうの愛とは元々は多分に虚であり嘘であるところでのものである。

ですが、まさに其れがほんたうの愛を生むのです。


たとへば最初は何とも思わなかった風采の上がらぬ男が最近ひどく気になる。

もう嫌ひで嫌ひでしょうがなかったブ男が兎に角気になる。

それでつひチューをしてみた。

するといつのまにかいくところまでいってしもうた。



其れで宜しい。

須らく宜しい。

万々歳である。

どうも御目出度う。

兎に角ハッピーだ。




左様に愛とは、愛の構築とは条件では無い。

相手の心が腐っていようが相手が化けものだろうがまるで構わない。

兎に角他に愛を与えることで愛を成り立たせることこそが大事だ。



だからクリスは化けものとしてのハリーをあえて愛したのである。

たとえ化けものでも自分を愛して呉れるハリーを真に愛したのである。


今私は愛とはそういうものではないかと思って居ます。

何故なら言うまでもなく愛は即物的な次元のことではない。



たとえ心身共に病気の者であっても、或いは死の床に臥す者であっても真の愛を捧げ、また真の愛を受け取ることが出来る。

どんなに困難な状況にあっても、人間はまさに精神の世界で愛を創出することが出来る。

愛の本質とはその様な普遍的精神性にこそ存して居る。



また同時に愛とは特殊でもあり得る。

愛は限定の限定でもあり得る。


クリスはハリーを愛した。

其れは限定である。

ハリーもまたクリスを愛した。

其れは限定の限定である。


限定である愛が即普遍化した愛に変わる。



たとへばいつかアナタが一人だけの女を愛した。

しかしその時世界はバラ色に見えた筈。

世界は須らく幸福に充たされ、老いも若きも或は猫も杓子も全てが充たされ光り輝いて居た。


ところがアナタが運悪く失恋した。

すると全世界が闇に閉ざされて仕舞う。

うわー、全部が真っ暗だ。

宇宙なんか見えない、星なんか輝かない。

太陽は無い。

月なんか見えない。

もう、ただただ死にそうに全てが暗い。


そんなに暗いアナタ様には、兎に角愛の賛歌が必要である。

愛の賛歌とは此の「惑星ソラリス」のことである。



さて、我我五十代は今此の愛の賛歌を忘れがちなのではないだろうか。

今の五十代は頭がおかしいので日々色んな事件を起こして居るのだしこんな我我の未来はどうにもお先が真っ暗な気がしてならない。

何故そうなったのだろうと私は屡考える。



多分、愛を信じて居ないからである。

其れも仏教徒が愛を信じて居ないのとは違う理由で信じられないのである。


其れは、要するに合理主義である。

合理主義に毒されて愛を見失って居るのである。


事実私の周りにも愛に興味の無い五十代が結構な数居られる。

しかも愛の形が偏向して居て、哀しいかなそのままでは異性を愛せない人が多い。


私の場合も確かにそうであったが、それではいけないと自らはっぱをかけ異性を愛そうとさえして居る。

其れもムリにではなく、兎に角愛のある生活にいたく興味が湧いた故そのやうにして居るのである。



だからわたくしは今愛の絶対性を信じる。

けれども愛は地球を救わず、わたくしだけを救うのだとそう信じてやまない。


何故なら愛は個の絶望をも突き破り未来へと進む唯一のものなのだから。

あくまで現実的な意味では。

だが未来へは進みたくはない方は愛を否定して原始仏教の方へ行っても良いのだ。

なのではあるが成仏の方はまず無理なので愛を信じて生きることの方がより人間的かつ合理的な選択となります。


タルコフスキーも結局そんな選択を行ったのだと思われる。

惑星ソラリス 解読【タルコフスキー】



尚愛の海であるソラリスはドロドロの子宮の奥の闇の渦そのものです。

そうした意味では愛とは非合理な闇の領域をあえて引き受けると云うことなのでしょう。

ーレムはタルコフスキーに比せば合理主義者でした。だから彼のソラリスはドロドロの子宮の奥の闇の渦などではなく未知の超知性体なのです。理性には限界が認められようがあくまで理性の限度域に於いて未知なるものと対峙するのが人間の理性だとのこと。ー