目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

合理主義はふしだらである


元より合理主義的な世界観により我々の日々が形作られて来て居るのが実情です。

と言う事は其の世界の合理化の強度にも部分的に幅が存して居るのであろう。


わたくしの考えはあくまで合理化の適正な範囲を考え其れを法制化していくべきであるというものです。
人間性や人間の実存を甚だしく圧迫する部分については是非其れを違法として取り締まる必要があるということです。


即ち合理化は、本来しても良い部分としてはならない範囲とがあるのです。
何故なら人間は神仏では無いのですから其の須らくを合理化することなど不可能です。


逆に言えば完璧に合理化されし神仏の世界は血の通った世界ではないのであります。


其れが血の通った世界のように感じられるのは、宗教というダイジェスト版の真理探究の世界に於いて其の理解されない神仏を理解出来るように捻じ曲げる即ち信仰して居るからなのでしょう。



兎に角何でもが合理化されていく世の中ですがー自然を除いてー、其の全的な合理主義には自発的に背を向け自らの世界観を確立し其れに基づき行動することで精神の自立性を確保することが出来る。


要するにスマフォ病に陥らない為には精神の自立性が必要であるということになります。


然し多かれ少なかれ我々の精神の自立性は壊されて来て居るのでしょう。


なのでわたくしは其の精神の自立性の危機について述べて行くばかりなのであります。


なのであくまで精神論について述べて居ります。



本来ならばフリーセックスだの何だのということは関係ないことなのですが何せ人間とは物質と精神の融合体のことですので其の二元的要素が相互に関連し合って生きて居るゆえ其れも本当は大事なことなのです。



精神の自立性ということに関して言えば今後ますます精神の合理化は促進され平たく言えばロボット化、盲目化されていくであろうことは避けられないだろう筈です。
元来人間とは法秩序の上でさらに道徳的、倫理的に規定され其処でまさに合理化されて居るのだと申せましょう。


或は宗教による規定は其の規定の最大の部分でもあった訳です。


然し合理主義が行き過ぎることで其の最大の規定こそがまさに危うくなっていくんですね。


宗教自体が壊れかかって居るというのに其処でまさに教師くんだりが品行方正で居られる筈はない。


僧侶や神父が品行方正では無くなって居るのに警察官や自衛官、また一般大衆が品行方正で居られる筈がない。



だからわたくしはただ冷ややかーに事実としての其のことを述べ立てて居るだけのことなんですね。
冷ややかーということは基本其処でそうした風潮をバカにして居る訳ですが其処をどうのこうの云われてもこのわたくしには何ともならないこと。


何せ詩人ですもの、そうやって嫌らしいことばかりいつも言って居ることが天から定められたお仕事なんです。




今後合理主義は精神の自立性と共に精神の余裕を奪っていく筈です。
其の精神の余裕とはまさしく心の余裕のことなんでしょう。


そうした余地、余白のような部分をドンドン奪っていきますから、其れ即ち人間が精神的に追い詰められていくということです。


事実今人間はかなりに追い詰められて来て居る筈だとわたくしは判断して来て居ります。


特に六十代以前の世代での圧迫が酷いことになって来て居るかのようだ。


然し我々はそうして大きな部分で追い詰められつつも、小さな部分では仕事の忙しさや欲望や諸の雑事に追われることでむしろ小休止したりもして来て居ります。


まあそういうのが平和であることの恩恵であり小市民的な保身でありつまりは精神のバランスを保つ重要な余白の部分でもあるのです。



ところが平和は長続きしない、もしするにせよ其処で別の面での破壊にみまわれ平和であることの意味が失われるということもあり得る。


事実先の大戦の頃は犯罪者がほとんど出て居なかったそうなのです。


兎に角圧迫が大きいから、犯罪を行うも何も、其れ以前に兵隊へ行きお国の為に死ぬことや其の日の食いものを確保することに必死なのですから淫行などして居る余裕などどこにもありません。



然し今は一部の神父や僧侶、または元校長先生や教師などが好んで淫行を行うところを見ても、どうやら其処には余裕があり過ぎる、即ち精神がたるんで居る。


其れも全体的にたるんで居り乱れに乱れ切って居り所謂ふしだらである。


なので其のふしだらさを根絶すべく法制度上でのPTAのようなものをつくることがまず必要である。


PTAは常にこんなものは絶対に見てはいけません、なりませぬ、なりませぬ、ソコだけは絶対にダメ、死んでもダメ!などと良識に培われしオバサンやオジサン達が日々目を配りつつ世間をパトロールする。



PTAは過激なH画像をまず中学生のスマフォから削除すべきである。


18歳以上ですか?


ハイ。


無論のこと其れで見えるようにして居ては金輪際いけない。



ふしだらさを治す。
これこそが合理主義の振り撒きし悪趣としての精神の死の世界を抑止しやがて訪れることであろう人類破滅をなるべく先延ばしにする為の唯一の方策である。



然し我々が高校生の頃からすでにこのふしだらさは此の世に蔓延して居りました。


たとへばピエル・パオロ・パゾリーニによるソドムの市などという其処で背徳の限りを尽くしたかのような変態映画がすでに作られて居たりも致しました。
ピエル・パオロ・パゾリーニはそんな映画をつくり上げた後すぐに死んだ。おそらくは神の怒りを買ったものと思われる。ー



然しノーマルとアブノーマルの差は意外と微妙なものです。

マッドサイエンティストとまともな科学者との差のように微妙なものなのです。



然し現在の合理主義的なふしだらさはどうもそうしたかってのふしだらさ、危ないものとは質的に違っているもののように思われる。

其れは所謂負の領域の消滅のことではなかろうかと今わたくしは考えて来て居ります。

かってのふしだらさは謂わば清濁併せ呑む世の自然な形でのふしだらさだったのでしょうが、今のふしだらさは謂わば正のふしだらさであり清濁で云えば清が消失したことによる無際限な濁の膨張のことなのではなかろうか。



言うまでもなく清とは宗教性のことです。
其の宗教が合理主義の圧迫により変形されかつ解体されつつある。


従って負の世界への認識其れ自体が弱められていくのです。

すると負自体が正当化され濁流は濁流ではなくなっていって仕舞う。



嗚呼、そうか、だから負=弱者である女性や障害者は其処で逆転して正としての地位を獲得するのです。

そして濁流であった筈の性的マイノリティーの人々の性と生が清流の流れへと変わるのです。



いや、わたくしは其れが悪いと言って居るのではありませんのですよ。

ただ其の様な流れになって居るということを世を俯瞰しつつ眺めて居るだけのことなのです。


ただし其の様に清の領域が消失することが人間の精神に多大なストレスを与えるものであろうことを危惧して居るだけです。



よろしいでしょうか?

清濁、正邪、正か負かということは、二元的な要素が確立していて初めて成り立つことでもある訳です。

ところが合理主義的な世界観は合理主義を清流と見做し、まさに背徳を正と見做し負の領域ー悲観的な領域、つまりは悲劇ーを極限まで狭めていこうとして居ります。



本来は清流そのものであった筈の人間の精神の流れ即ち宗教の流れは其処に分断され、解体され陳腐化されていきます。

すると濁流を濁流とも感じ取ることの出来ない、また負を負として感じ取ることも出来ない人間を此の世に振り撒いていくこことなるのです。



要するに人間が合理主義の奴隷化されていくということです。

自律的な思考を奪われ、かの神仏からは程遠い、ただ刹那的に一時の享楽に身を任せ、ただただ貪欲にそしてソドム的なより強烈でアブノーマルな愉悦を求め、其処に清流を見失いし哀れな合理主義人間を何十億人もつくりだしていくばかりなのです。



しかしがら、あれ、あんな処にあんなに美しい花が咲いて居るのだわ。

ドロドロに腐った精神からひとつだけ頭を擡げ咲いて居るま白き花。

勿論そんな一輪の花にわたくしは以前からなりたい。