それにしても実にふしだらな世の中になって来たものです。
元来根がふしだらなわたくしなんぞでもそう思えて仕舞う位なのですから、実際コレはもう相当なものです。
ふしだらの二乗程には多分完全に嵌り込んで居るのではないでしょうか。
其れで、某タレントのAV界転身だの性病の蔓延だの相変わらず下ネタ花盛りの状態なのであえてカターいお話を続けさせて頂こうかと思って居ります。
さてふしだらとは、しまりがなく、だらしないこと。
そしてこのふしだらが、大は文明から小は幼稚園児に至るまで蔓延して来て居ります。
何よりだらしがなく、しまりがない。
不潔である。
また馬鹿である。
つまりはアホ。
まさにまさに釈迦やキリストが到達せし精神の高みの対極としての現状を呈して来て居る。
しかも誰も其のことには気付いて居ない。
何故ならもはや現代人の常識的道徳観や常識的倫理性がふしだらの方に振られて仕舞って居るからなのです。
だから教師だろうが警察官だろうが自衛官だろうが皆おかまいなしで其のふしだらの方に歩み寄って居りましょう。
なので此のふしだらさはもう誰にも治せません。
上祐氏だろうが大川氏だろうが池田氏だろうがもう誰にも治せません。
それどころか現役の僧侶や神父でさえ治せません。
ましてや宮澤 賢治や加島 祥造でさえ治せないことだろう。
すると、早晩世は滅ぶこととなりましょうがそんなことはもう自明のことなので誰も危惧していないのです、むしろそんなことは。
そんなことは心配のタネではなく本当に心配なのは今日の快食快眠快便であり一家の繁栄であり国家の安泰であり文明の継続です。
そして兎に角幸せに生きて幸せに死ぬことです。
でもそれって矛盾して居ませんか?
悪い世の中の中でそうして生きて居て、果たして楽しいものでしょうか?
いや、確かにあなた方は楽しいのかもしれない。
でもわたくしは少しも楽しくはないですね。
なので其処に宗教が生まれます。
即ち釈迦が、キリストが、さらに上祐氏が大川氏が池田氏が出て参ります。
キリスト教は世を捨てて神を取るという一元化を果たしていくものでしょう。
ただし現実的には善悪の二元的構造は残ります。
対して仏教では二元的対立という世界の構造自体を捨て去るという究極の一元化を目的とするものです。
さてどちらがより良いのかはわたくしには判断がつきかねます。
良いか悪いかというよりも変な言い方ですが救われるのは矢張り仏教の方でしょう。
救われる即ち脱出するということです。
救われる即ち酒池肉林の世界に溺れるということが無くなる。
即ち無い方が良いのですよ、無い方が。
在るよりも無いことの方がより真面目であり清潔であり完璧なのです。
つまるところ完璧というものは面白いものでも何でもありません。
其れはすごく冷たく感じられるものです。
また惹きつけられるようなものでもない。
ですので仏だろうが神だろうが何だろうがそうしたものは皆究極的に冷たいものであり人間の感覚では捉え切れないものばかりです。
其れが本当の神仏の姿であるということです。
ですので貴方様が今お持ちになられて居る神仏のイメージは其れはあくまでアナタ様の神仏であるに過ぎないものです。
上祐様が大川様が池田様がどんなに大きくなって見えるのだとしても所詮は彼等も人間ですもの、本当の神仏とはまるで違うものだと申すほか御座いません。
ではどんなものが本当の神仏かと言えば、当然ながらまず其れはかの宮澤 賢治や加島 祥造先生のことではありません。
次に可知か不可知かと言えば当然ながら其れは不可知です。
従って本質として其れ等は捉えられないもののことです。
つまり人知では推し量れないもののことです。
存在するのかどうかと言えば其れは存在して居ります。
然し我々の存在のあり方とは其れは本質的に違うのです。
謂わば存在しないからこそ彼等は実質的、実体的に存在して居るのです。
つまり何処にも居ないからこそ本当に居る。
間違いなく絶対に居て仕舞うんですね、コレが。
対して我々は存在して居るようで居て実は存在してなど居りませぬ。
まず存在して居るとそう思い込んで居るのはまさに嘘であり虚でのことです。
ですので自分はあくまで居ません。
ココには居ないのであります。
同時に父母や妻子や友人や恩人も皆同じ理屈でココには居ません。
じゃどこに居るんだ?と思われるかもしれませんが居ないものは居ないのであくまで居ないと申すほかは御座いません。
その代わりに其の勘違いで幻影を見つめ続けて居るアホな自分だけがソコに居ります。
ということは其れを続けてばかり居ると虚の生活を繰り返す羽目になるので良い事にはならない筈だ。
と釈尊はかって考えて居られた訳です。
ただしご注意下さい。
今の生き仏様や鎌倉時代位からこのかた生き仏様達は聖人釈迦とはまるで別物の方々であるに過ぎません。
要するに悟って無いのに悟って居ると皆仰られて居るのですからこれはもう余程にタチが悪いと申すほか御座いません。
其のアホを治すには徹底的に人間であることを捨て去っていかなければなりませぬ。
或は、神に其のアホを委ねて仕舞わなければなりませぬ。
なので宗教というものはそうした非人道的な行いを人間に強要するものなので御座います。
だから宗教が大嫌いな人はわたくしの身近にも何人も居られます。
前のわたくしの上司やKさんなどが大嫌いなのですが何故か共にB型ですね。
対して何故かA型の人は宗教へは行き易いようにも思われます。
さて、存在とは、在るものは無く、無いものは在る、のです。
そして無いものの方にこそ迷いや苦が生じて居るのです。
在るものつまり神仏には迷いや苦が生じようが御座いません。
其れはそも無いので煩悩も原罪も其処に生じようが御座いません。
何せ完全ですもの、苦どころか大きさも時間も劣化も何も無いということになります。
従ってこういうのを目指し修行を積むのが宗教の目的ということとなります。
ですが無論のこと其処まではどうやっても行けないのでして、其れで少なくとも世間知に捉われし濁った眼でものを見ることを止めよう。
そしてふしだらな生活を改め自分なりにものの見方を変えていこうというのが在家の修行者としての心のあり方なのでしょう。
こうして宗教は真面目になればなる程むしろ危険な領域に入り込む、ということが良くお分かりになられたのではないでしょうか。
ところが其の危険とは、実は救済のことなのであり我々にとっての安全思想とは実は悪趣そのもののことである。
つまりふしだら=世間知であり、常識的な考えのことでもまたあります。
そこからしてもふしだらなのを禁ずる宗教は概ね真面目だとは言えますね。
すると過激な欲望に身を委ねて居るのは現代の常識のことか?
だとしたら現代は本当に悪い時代だ。
かのソドムの町や大バビロン並に悪い。
悪いから、ふしだらになります。
悪いからこそ常にモロ見えでモロ出しです。
さて生とは、謂わば神仏の自己矛盾過程です。
生きては居ない神仏には元来矛盾の生じようがありませんが、人間に生きることが許されて居るのは其の神仏の自己矛盾過程のみです。
つまり虚としての神仏の自己矛盾過程だということです。
虚の虚だ、虚の虚的過程だ、其れが其れこそが人間なんだ。
だって兎に角人間ですもの。
元より存在の本質は虚ですので、此の世で起こったあらゆることに拘泥すべきではない。
上座部ー小乗ー仏教では妄執を滅する為人間の死骸を何日も見つめ続けるという修行さえもが御座います。
そういうのは、勿論今の日本人には刺激が強過ぎる教えの内容です。
然し、今のこの乱れた日本、特に性的に乱れ切った日本には何だか効き目のありそうな修行なんですね。
もう其れ位しないと淫行や姦淫の撲滅には繋がらないのではないかしら。
何せ教師が率先して淫行して居る位ですから、もうこれはどう考えてもまともだとは思えません。
だらしがなく、しまりがない、というのは、其れはあくまで人間の精神がそうなって仕舞って居るのですね。
何故だらしがなく、しまりがないかと言えば、其処で考えないからそうなって仕舞って居るのですね。
其れでは考えた女はそんなこと絶対にしないかと言えばそうではないんですね。
つまり頭と体は別物、良く云われるが如くに上半身と下半身は別物でもあるんですね。
清く正しく美しくの反対はドス黒く売女でケダモノだー、ということでしょう。
ちなみに家の猫は現在16歳と15歳ー母と娘ーで共にメスですが娘の方なんか生後一年位でふと気付いたらすでに腹の中に五匹も仕込まれて居たんですね、コレが。
昨日その話を彼女にしてみたら、家の猫は一歳と三歳ですが生後半年ですでに仕込まれて腹の中に五匹も入っていたのよー、という話でありました。
嗚呼、何ということでしょうか。
この動物の力こそはもう誰にも止められないものなのではなかろうか。
たとえ宗教がどんなに諭しても決して止まることなきかのケダモノの力。
ただ、人間はケダモノではありません。
ゆめゆめ其処を間違えてはなりませぬ。
そして存在は罪です、煩悩です、悪趣の巣窟です。
従って存在であることを、或は存在だとつい勘違いして居ることを是非楽しまないように致しましょう。
然しこう幾ら訴えても人間の方に聞く耳が無ければそんな説法も心には届かぬが。
AVとかにほいほいと出演して多くの男性との性的接触を重ねると揚句の果てにこんな若さで死んじゃうんだよー。
多くの娘たちよ、君等のお父さんの代わりにこのわたくしが教育してあげよう。
性は快楽の為にあるものではなく神聖なる儀式である。
従って出来れば貞操を一生守り神仏に仕えて日々をお過ごしなさい。
或はこれならばと決めた男にだけチラリと見せそして少しだけ触らせてあげなさい。
タップリ触らせる場合にはまず結婚を前提として其れを許さなければならぬ。
男は男で其の女を死んでも守り抜く覚悟をもってして触りなさい。
女に触り地獄へ墜ちるのであるから、元々其処には決死の覚悟が必要です。
よろしゅう御座いますか、くれぐれも其の様な清く正しき男女の付き合いから素晴らしい家庭が築け良い子に恵まれ立派なサザエさん一家が生まれるのですぞ。
くれぐれも、くれぐれもお願い致しますぞ。
そうではなくケダモノのやうな性愛は其れは動物の行為であり人間界では認められて居りません。
そのやうな不埒な行いが増えると日本はかのソドムの町化し即神に滅ぼされて仕舞うのですぞ。
そしてケモノ共は皆地獄へ墜ちる。
そしてソドムは死の町と化す。
其れで万事宜しい、何の問題もない。
だから今の日本の現状は滅びへと転げ落ちていくばかりだ。