目覚めよ!

文明批判と心の探求と

啓蒙思想を学び直す必要あり


科学者の社会的責任
2015年11月27日
学術研究フォーラム
池内了(総合研究大学院大学名誉教授)
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ガンジーの言葉
「人格なき学問、人間性が欠けた学術にどんな意味があろうか」



元より科学者には社会的な責任乃至は道義的責任というものが大きく存して居ります。

されど基本構造として、合理精神には自らの行いを反省する部分が大いに欠けて居るのであります。

即ち自分は正しい、よきものであると常にそう思い込んで居るのであります。



然し人間は近代に於いてそうした理性により齎される過剰な自信に常に苦しめられて来たのではなかったか。

謂わば虚である自己や欲望に常に振り回されて来なければならなかったのだろう。



言うまでも無く現在の文明世界を形作って居るのは其の理性による人間の行いの集積です。

ところが其の理性には本来限界があり、しかも理性とは謂わば爆発物のようなものなのですから常に監視し制御しておかねばならないものだったのです。



また其れは容易に原始的退行現象を引き起こします。

例1ー原爆を造ってはいけないことなど誰でも分かる筈なのに其れを造って仕舞うのは国家間の競争や科学者の栄達または科学的成果の部分に目がくらみまさに合理的に目的を推進して仕舞うからである。

例2-金ばかり儲けるのはロクでもないことが普通分かる筈なのに資本主義を金融化するという合理主義により根源的に格差構造を生み出した。




つまるところ、こうした事例で働いているのはむしろ小学生でも分かることが分からないという知性の盲目性のことなのです。ーいわゆる無知の知の反対の面か?-


頭の良い奴が多数集まって毎日此の世を良くしようとして躍起になり頑張るのですが其の思いとは裏腹にむしろ悪い方向へと舵を切っていって仕舞うのです。

そしてそういうのが人間なんだ、ということです。



しかも21世紀の問題とはそうした諸矛盾とは別個の角度で設けられた破壊の側面を孕んで居ります。

20世紀的なものとは異なる破壊が人間の精神のあり方を蝕んでいって居るようにも思われます。




ちなみに昔私は世の中が悪いとさる心理学者に話したことがありましたが、逆にお前さんの考え方の方が悪いのではないかと諭される始末でした。

ま、どちらが正しいのか、其れは歴史が証明していって呉れることでしょうが。



元より私の考えでは人間というものは元々心の治り様が無いもので謂わば其れは病気に罹って居る。

其れも全体的に人間として罹って居るのでそんなものは治しようがない。

だから其の悪を前提とした上で諸に規定していくべきである。



法の力、共同体の力、家族関係の力、労働の力、自然からの諫め、宗教、そうした実質的なそして身近な力でもって人間は規定されていくべきである。

つまるところ其処には大きなものなど何処にも必要とされて居ない訳なのです。


法と言ったって其れは国際関係を調整するような大きなものは本来ならば必要がない。




即ち大きなものを成し遂げようとして躍起になり理性を拡大解釈、過信したところにこそ人類の不幸と混迷の原因があります。

だから問題の本質的解決の為には解体こそが必要ではないかとそう思われるのです。



其れが近代の拡張主義の解体であり人間の自由な可能性の解体です。


そして縮小です。

さらに欲望の制限です。



欲望の制限により足ることを知る為には宗教の次元での世界解釈が必然的に必要となりましょう。

即ち合理主義一本やりではダメだということです。

其れでは自滅の為の文明を形作らざるを得なくなる。



尚、合理主義に何より欠けているものこそが反省であり自制であり自省の心です。

即ち心というものは、本質として錯誤であり瑕疵であるところでの悪だと捉えておく方がより自省的なのです。




ところが近現代の思想はむしろ其の枠としての負い目の部分を撤廃していく流れを生み出していきました。

だから求めることは何でも悪ではなく善なのであり、女性はドンドン家庭を出て社会進出すべきなのであり、障害者は全部健常者と同じなので運転でも何でも臆することなくこなしていかねばなりません。



こうした一種全体主義的な強迫観念思想は、全て合理主義による合理的な思考により生み出されて居るものです。

勿論其れを否定するものではありませんが個人的には随分やり過ぎだと思って居ります。



さらに性の自由化とは堕落の固定化だということを合理主義の論者共は何で分からないのでしょうね。

其れもまた小学生でもすぐに分かることなのですがね。





安保理改革Q&A



兎に角大は国家から小は幼稚園児に至るまで合理思想の蔓延により人間の心の領域が破壊されかかって居ります。

然し先にも申しましたが如くに大人たちは皆理想の人間の社会の建設の為に働いて居るというのに其の行いがすべからく矛盾化していって仕舞うのであります。



ということは、其の問題の根底に横たわる理性というものの持つ本質的瑕疵性、不具性のようなものに突き当たる。

ゆえに理性的な社会とは一体何であるのか?という問題が常に其処に突き付けられて居るのであります。



其の合理主義というものも、結局はキリスト教の自己矛盾過程から生じたものである可能性が高い。

おそらくはキリスト教の自己矛盾過程としての唯物主義、合理的世界観が近現代という時代を形作ったのである。



つまり、非合理領域の自己矛盾化が合理領域の確立と蔓延を許したのである。



尚、かの哲学者カントは、まずこの理性がいかなるものでそして理性により何が可能となるのか、また何が可能とはならないのか、ということをかってトコトン考えてみたのでした。

実際カントは変な人で、生涯独身を通し規則正しく生活し人間にとっての道徳律というものを重視した観念論者でした。



其のカントは世界政府の樹立による恒久的平和の不可能性を指摘していたのでありました。


其の点ではまさに私の考えと同じでありますが、ただ国民国家間での調停、調整役としての大きな組織を否定していた訳ではありません。

そうしたカントの考え方や他の啓蒙思想の考え方が連なり世界大戦後の国際連盟国際連合の設立に繋がっていったのだと思われます。



然しカントによる世界平和の為の提案は非常に現実的なものでありある種道徳的であり倫理的なものでもある。



要するにカントは人間をハナから信じてなど居ない訳です。

だからこそ何の為の法秩序であるか、何の為の道徳であるか、または規定性であるか、ということを性悪説の方から理論的に組み立てていって居ります。



尚ルソーの場合もそうなのですが、啓蒙思想家の思想には最初からこの性悪説のようなものが組み込まれて居ります。

人間は文明状態では悪の存在であろうから法秩序乃至は国家の力で其の悪を踏みつけておく必要があろうが其れはあくまで民主的と云うか共和制的なものでなくてはならない。


つまり当時の西欧の事情である矛盾ー度重なる戦争ーを乗り越える為にどう理性と理性以前のものとのバランスを取るかということをそれぞれに模索していたことだったでしょう。



なので私はむしろ今こそ啓蒙思想を学び直す必要があるとそう考えて来て居ります。

この21世紀には大戦こそ起きては居りませんが破壊の度、対立の度はむしろ当時以上になって来て居るのではないでしょうか。


最も重要なのは当時は人間による人間の精神の破壊ということにつき考慮する必要が無かったという点にあります。

つまりは其処まで合理性を是とすることだろう社会が成り立っていなかったからなのです。