アホな人間が、こうして日々大量にエネルギーを使い生活を成り立たせて居る。
かっては其れが自然のシステムの内側で行われ循環して居ただろう生の営みが、いまや其のすべからくが自然の外側で行われ維持されるようにさえなって来て居るようだ。
だが果たして我々は其れで良かったと言えるのだろうか。
其の大量の消費と社会の上でのあらゆる速度への固執、そして飽くなき欲望の流れこそが逆に我々を追い詰めて来ているのではないか。
人間は元々アホで、其れはどんなに科学や技術が進んだにせよ変わってなどいない。
人間がアホだからこそかって法や宗教の力で縛る必要に迫られたのだろう。
其のアホな人間が、今や神仏を超えるまでになって居る。
だが其の錯覚こそが我々に破滅を齎すのではなかろうか。
昔、宮澤 賢治が詩の中で「科学は暗い」とも書いて居る。
暗い即ち明るくはない、また明らかなのでも無い。
事実原爆を開発したオッペンハイマーは原爆投下の五年後に次の如く述べて居る。
ー科学は人間の暮らしを物質的にも精神的にも変えてしまった。
人間にはもはや疑問を持つ余地も決断をする余地もない。
進化し続ける知識によって未来の科学が何を発見するかは誰にも予測することが出来ない。ー
そう予測することなどもはやかなわぬ。
然しひとつだけ言い切れることがある。
道義無き科学になど意味は無いということ。
そして倫理無き科学は我我を破滅させるということだ。
アホな人間は、そも自らが今仕出かして居ることの意味が分からない。
何でも速くなり便利になれば其れでよかろう、万々歳だとそう思って居ることこそが其のアホだ。
さてかの天才アインスタイン博士は原爆開発を米国に進言しそのせいで原爆開発が進められやがて日本に二発の爆弾が落とされる羽目となった。
ここからしても科学こそが自己矛盾性の最たるもの、まるで矛盾の塊のようなものなのだ。
其の通りに科学が暗いというのは、詩人には其れがそうハッキリと見えるといふことである。
ところが概ね人はそんなことには気付けない。
そんなことよりも何か他のものばかりを見ているのだろう。
ならばまず其の科学の暗い面を真正面からみつめていかねばなるまい。
神秘主義と宗教観
擬人的な神を据え置くというレベルの宗教を超えた場合には第三の宗教体験が存在し、それをアインシュタインは「宇宙的宗教感覚」と名付けた[21]。この感覚の中では擬人的な神の概念は全くないし、体験したことのない者にこの感覚を説明するのは難しいということである[21]。また、「宗教のない科学はかたわ、科学のない宗教は盲目」と例え、理性における成功を強く体験した者は誰しも万物にあらわれている合理性に畏敬の念を持っているとし、科学、宗教、芸術など様々な活動を動機付けているのは、崇高さの神秘に対する驚きだとしていた[21]。
こうしてアインスタイン博士は晩年人間の内なる世界のことばかりを考えて居られたようである。
博士曰く、
ー空想は知識より重要である。知識には限界がある。想像力は世界を包み込む。
過去から学び、今日のために生き、未来に対して希望をもつ。大切なことは、何も疑問を持たない状態に陥らないことである。
学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知であるか思い知らされる。自分の無知に気づけば気づくほど、より一層学びたくなる。
情報は知識にあらず。
シンプルで控えめな生き方が、だれにとっても、体にも、心にも、最善であると信じています。
自分自身の目で見、自分自身の心で感じる人は、とても少ない。
優れた科学者を生み出すのは知性だと人は言う。彼らは間違っている。それは人格である。ー
然し人間にはもはや疑問を持つ余地も決断をする余地もない。
即ちもはや何も疑問を持たない状態に陥っているのだといえよう。
「宗教のない科学はかたわ、科学のない宗教は盲目」というのは、しかしながら興味深い問題を孕む命題である。
言うまでもなく宗教が非合理性の象徴であるとするならば、科学こそが合理性の象徴なのであろう。
ところがこの非合理性と合理性はなかなか上手く混じり得ないのである。
謂わば合理性と非合理性の中庸の地点を構築することは屡矛盾化して仕舞うのである。
そして科学者の道義上の責任と成果上の栄達を両立させることも極めて難しい。
此の世での諸のことは、このやうに必ずや二辺の領域に分かたれて仕舞うのである。
批判的合理主義
ではあるにせよ合理主義には其れが行き過ぎたものとならないような仕組みが是非必要なのだろう。
されど其の点については次回に考えてみることとしてみたい。
其れは、
「今の文明においてもっとも大事だと思われる事柄を、いちばん意見を交換したい相手と書簡を交わしてください」
というものであったそうだ。
其の折にアインシュタインが選んだテーマは、
「人間を戦争というくびき(縛り)から解き放つことはできるのか?」
というものであったそうだ。
選んだ相手は精神医学の大家フロイトであった。
…私のような人間から見れば、戦争の問題を解決する外的な枠組みを整えるのは易しいように思えてしまいます。すべての国家が一致協力して、一つの機関を創りあげればよいのです。この機関に国家間の問題についての立法と司法の権限を与え、国際的な紛争が生じた時にはこの機関に解決を委ねるのです。
(裁判が)何かの決定を下しても、その決定を実際に押し通す力が備わっていなければ、法以外のものから大きな影響を受けてしまうのです。私たちは忘れないようにしなければなりません。法や権利と権力は分かち難く結びついてるのです! 司法機関には権力が必要なのです。
やがてアインシュタインは議論を移して、人間の心についてフロイトに質問する。いまだに戦争を無くせないのは、人間の心に問題があるのではないか?と。そして人間の心を特定の方向に導き、憎悪と破壊という心の病に冒されないようにすることはできるのか?と問う。
対するフロイトの回答はこう記されていた。
ー逆説的に聞こえるかもしれませんが、こう認めねば成らないことになります。人々は焦がれてやまない「永遠の平和」を達成するのに、戦争は決して不適切な手段ではないだろう、と。戦争は大きな単位の社会を作り上げることができるのです。中央集権的な権力で暴力を管理させ、そのことで新たな戦争を二度と引き起こせないようにできるのです。
つまりフロイトは戦争による自己矛盾的な過程を逆に描き出してみせたのである。
戦争は戦争を止めることにより生じるものではなく、むしろ戦争を行うことで初めて止めることが出来るものである。
即ち「平和のためには戦争が必要である」という逆説を語ったのでした。
ちなみにわたくしはフロイトの意見の方がより正しい認識であるとそう考えて居ります。
「永遠の平和」は世界政府といったような国際的な機関による話し合いのシステムでの裁定により実現し得るものではないのであります。
其の理由として幾つかの要素が考えられますが、其の点についてはまた後日語らせて頂きます。
要するに、常に精神の領域のことを考えて居たフロイトには人間の心のあり方というものが良く分かっていたと申されるべきなのでしょう。
元より恒久的な形での平和というものは其れがたとえ成立するにせよ限定的なんです。
地球全体、或は文明全体が永遠的に平和であるなどということは考えられないのであります。
また「人間の心を特定の方向に導き、憎悪と破壊という心の病に冒されないようにすることはできるのか?」という問いに対するフロイトの返答はこうです。
「人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうにもない!」
其れ即ち人間は元からアホなのでどうしようもないということなので御座います。
其の攻撃性というのは本能のことでしょうな。
そしてSEXなどもまた其の本能のことです。
本能=煩悩、でしょう。
ですのでまさにまさに人間ですもの、本能なんて其処で滅し去りようが御座いません。
そういう低級な何か、だからこそわざわざこうして世に出て来るので御座います。
しかもわたくしがかって示しましたが如くに、理性は自己矛盾化して本能化ー野獣化ー致します。
だから近代以降利口になった筈の人間は逆に大虐殺ばかり行って来て居りますわな。
だから憎悪の連鎖と破壊の連鎖を止める手立てなどは其の本能ー煩悩ーの中には無いのであります。
ただしかのフロイトは書簡の中で一筋の希望を指し示して居ります。
「文化の発展を促せば、戦争の終焉に向けて歩みだすことができる!」
とそう述べて居ります。
しかしながら此の文化というものがまた一筋縄ではいかぬものなのです。
文化とは謂わば文のお化けで言葉による実としての虚の構築のことです。
対して破壊とは本能ー煩悩ーのお化けでもってして力による実としての虚の構築のことです。
サテ、このどちらがより強いのでしょうか。
そりゃ桂冠詩人になるよりは金のメタルを手中にするつまり競争相手を組み伏せて一番になれば現実的には何でも強くなって仕舞うのですぞ。
其れは何故かというと、もう其れはタダそういう世界でしかないからなのですね。
其処をあえて詩人でいくとなると、これはもう随分弱くなりますわよ。
ただし其の弱さー短命ーと引き替えにして本能ー煩悩ーのお化けとしての力の論理を脱していくことが可能です。
なので何でもイチかバチか、或は身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、なのでしょうね。
ゆえに永久の平和は共同体単位でそれぞれが勝手に追求し破壊の代わりに皆が詩人になるということでもうスッカリ実現されましょう。