3.宗教に親しみ其処から学ぶ
人間の精神活動は概ねより低いところで成就しようとする性質を持って居ます。
其れは謂わば、花より団子、難しいことよりも目の前の現実が大事、観念的、理念的な制限よりも現実的な快適を求めて仕舞うということです。
然し本来ならば逆に精神とは謂わば武士は喰わねど高楊枝、でなければなりません。
このように精神とは抽象を現実化する為の階梯なのです。
抽象とは、目に見えて居ることとは別次元での真理領域のことなのでしょう。
目に見えて居ることとは別次元での真理領域がもし要らないのだとしたら、たとえば其れは自然そのものの世界のことでしょうが其の自然そのものの世界を幾ら推し進めていったにせよこの抽象領域が具象化されることはありません。
だから抽象領域とは神や仏の領域のことでもあり、しかも其れは人間存在にだけ門が開かれた最も高い次元での観念領域のことなのです。
ゆえに自然そのものには実は神仏など要らないのです。
自然は全き秩序であり、其れ自身で謂わば完璧なものですが残念なことに其処には観念領域が欠けて居ますので其の成就はあくまで本能領域でのものとならざるを得ません。
無論のこと人間もまた自然の一部ではあるのですが、自然の必然的進化としての人間が生み出されて来る理由もまたこの部分にこそ存して居るのです。
つまるところ、人間とは抽象領域を開拓して具象化ー顕在化ーさせるべく運命を担った存在のことです。
ですので其れは中間者であり、自然そのものでもなくまた抽象領域そのものでもないのであります。
ですので我々はパンのみにて生きる存在ではなく、また餓鬼、畜生道に住まう存在でもないのです。
ですが精神を失うと人間は容易にパンのみにて生きる存在ともなり得、かつ餓鬼、畜生道に住まう存在ともなり得ましょう。
精神の意味とは実は其処にこそあるのです。
其れはそうした領域へ落ちない為の枷のようなものです。
ただし其れ自身が必ずしも良いものでもなくかつ楽なものなのでもない。
其れは中間者である人間存在にとっては必要悪である何ものかなのです。
観念は必要悪であり、ゆえに宗教もまた必要悪であり、人間存在もまた必要悪なのです。
必要悪としてこの宇宙に生じて来て居る我々現代人はひとつの使命としての観念化の方向性を常に突き付けられて居ます。
其れが人間にとっての真の意味での仕事であり、従って食うことや子をつくることや長生きすることは人間の本質的使命ではありません。
無論のこと神仏とはまさに其の抽象であり観念のことでもあります。
実体としての神仏があって我々が居るのではなく、我々が神仏のことを考えるから其れが抽象から具象に置き換えられ実体化して来るのです。
そして元々考えない自然には神仏が発生する余地などない訳です。
其のような人間が生きて居ることの根本の原理を是非学びましょう。
そうしたことは、仏教やキリスト教などの確りした宗教に深く縁すれば誰でも分かって来ることです。
或は生まれついての藝術家の方や社会的に苛烈な体験をされた方などにはこうした部分での悟りの目もまた開かれようというものです。
だから人間はそうした精神の段階に至ることが義務づけられて居るものでもある。
人間とは元々そんな、難しいものである。
カンタン、タンジュンな者ではない筈だと私は考えて居ます。
対して近代的な価値観は人間から其の難しいもの、ややこしいものを遠ざけようとして来て居ます。
何でもお手軽でいちいち考えなくても良いようなものばかりにして来て仕舞って居る。
私は其の思想こそが誤りであろうとそう考えて居ります。
少なくとも人間は団子よりも花の部分を常に見続けて居る必要があろう。
いや、団子には団子の良さというものが確かにあるものだが、団子ばかり見続けることで根の方の花の美しさを論ずる力が損なわれて仕舞っては困るのだ。
何故なら先にも申しましたように、人間とは抽象と具象の中間者であり抽象を具現化していくという自己矛盾性を与えられし存在だからなのだ。
ー抽象を具象化していくという過程はあくまで自己矛盾領域での行為です。其れは自然そのものには与えられて居ない次元での自己矛盾領域のことなのです。ゆえに其の自己矛盾性の成就ー人間が観念としての抽象を具象化していくということーそのものが正しいことだとも、また善行つまり良いことだとも言い得ない訳です。然し其の成就により人間は確固としたアイデンティティを得ることが出来るのですから少なくとも精神的には其処で充たされることとなります。むしろ其処にこそ精神が充たされるということです。-
観念により抽象を具現化していくということは、あくまで良い悪いで云えば良いとも悪いともつかないことなのです。
然し其の行いにより人間存在には本質的な価値が付与されるということです。
この大宇宙の中に地歩としての自らの生を刻んでいくことが出来るということです。
其のような本質的な価値なくば、人間界は即虚無主義化してあらゆる価値の解体、破壊が引き起こり得ることだろう。
ところで其の本質的な価値の解体、破壊とは一体どこから始まって来るのだと思われますか?
其れが実は非常にカンタンなことから引き起こされて来るのです。
其れが本能に基づき行われる、良かれと思って成して仕舞うことの総体です。
たとえば、
猫が可愛いのでつい餌を沢山与える→結果肥満猫となり逆に早く死ぬ
子供が可愛いのでつい甘やかし育てた→結果モンスターチルドレンになりまさにとんでもない奴をこの世に一人ばらまくこととなった
兎に角儲けが欲しいので派遣社員ばかりを増やす→結果ブラック企業が現出し社会が根本から不安定化した
グローバリズムは良いことだと思う→結果脳みその中身が破壊され尚且つ地球自体も破壊された
私は教師だがたまには教え子にもちょっとだけ手を出してみたい→教師は是非宗教家になるべきである このわたくしのように
本能ということは、左様にとんでもない悲しみや破壊を齎すことの淵源です。
よって是を抑えることを現代人は是非学ばなければなりません。
過度に持つ欲望は破壊乃至は魔の領域に繋がる。
其の逆に欲望をすべて捨て去ると死の領域へと踏み込みます。
然し抽象を具体化することは、生きて居る時にのみ可能となることです。
死んだらもはや観念は無く、成仏への機縁もまた滅し去る。
成仏とは鬼になり切ることであり、抽象を具体化し切ることでもある。
自身が具体的な抽象になるのですから、元より其れは庶民の生きる道などではない。
よって庶民は観念上の誤りだけを正していけば良いのです。
あやゆることに対して甘やかすのではなく、逆に鬼になって観念を断行していって下さい。
すると逆に浮かぶ瀬がまた出て来ようというものです。