さて自然とは云っても何が自然で何が自然ではないかということを考えると実はかなりに難しいことです。
実際自然という概念を何に対して置くかということで其の意味する範囲が大きく異なったりもするものです。
Wikipedia-自然
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6
ここに「自然は人間文化と対峙するという見方」「自然のなかに文化的模範を見つけるべきとする見方」「自然と人造物が一体となるのが文化的景観とする見方」等々が自然観である、とも書いてありますがそうだとするならば一体人間とは何者なのでしょうか。-Wikipedia-自然より引用-
人間は元々自然から産み落とされているのですから、自然の一部だという見方も一方では成立する筈です。
其の様に自覚出来る人は真面目乃至は善良であり、そうではない考えの人は不真面目であり悪心を抱く者に過ぎないのでしょうか。
第一自然が好きだと云ったって、其れは自然そのものが好きだというよりは自身が自然を愛でて居られる立場で居られることを望んで居るだけのことなのかもしれない。
尚私はこれまで随分と自然とは仲良くして来たつもりですが、其処では自然そのものの無機的な法則性のようなものばかりを見つめ続けて居ると何だか嫌になることさえありました。
それから所謂弱肉強食の世界、餓鬼道畜生道の世界のことでも其れはありますので、そういうのを日常的に眺め続けて居ると逆にそうした部分がよりマイル ドな人間社会の温かみのようなものを感じたりもします。
ですから一体全体人間とは何者なのでしょうか?
其れが自然そのものであるとはもはや云えないのだとして、そうかと言って自然と切り離された者でもなく全部を人工的に生きられる存在でもない訳です。
だとすれば、人間の本質とはこの屈折の部分にこそあるのかもしれません。
人間とは屈折する自然である。
とでも云えそうな感じです。
屈折した、謂わば中間者です。
天と地、または神と魔との中間に位置する存在なのではなかろうか。
という事を、三十代の頃私は山の中で独り考えて居りました。
其の中間者である人間存在とは一体何者なのでしょうか。
然し此の世の中にはむしろ問えば問う程に分からなくなることが結構あるものです。
こうした形而上の問題は元々答えを出すべきようなものではない。
其れ自体が問題ではないということなのです。
よって謂わば人間が中間的な、まさにどっちつかずの存在であること自体に問題がある訳では実はない。
其の様に変わった存在である人間が現実にどんな問題を此の世界に対して引き起こして来て居るかということのみが問題なのです。
今、現実に問題があるのだとすれば其れは破壊ということだろうと私は考えます。
破壊は此の世界に於いて起こり得る。
破壊とは社会的な破壊であり物理的な破壊でもあります。
この破壊ということは、自然の根本の原理である生成や成長ということとは逆方向の流れであるように思われる。
確かに自然界には屡破壊が引き起こされますが其の破壊とは謂わば生成、再生の為の破壊なので本当は其れを破壊とは呼べないものです。
つまり自然は部分を破壊したとしても全体を破壊するようなことは決してありません。
然し人間という中間存在のしでかす破壊は時に全的なものともなろうということを考えておかねばなりません。
何故なら人間は魔人にもなり得る存在だからなのです。
あくまで悪魔ではないのですが、魔の方向性に近づくことは容易に出来て仕舞う存在でもまたある。
其の魔とは何だろうかと問うてみますと、畢竟其れは欲望という自己矛盾性のことなのです。
欲望という矛盾的活力により我々は逆に近代的な形での生を維持して来て居ります。
だから欲望に忠実であればある程矛盾の度を増していきます。
其の欲望の成就を目指す思想により生身の自分の首を絞め続けていく訳です。
元より其のような思想は誤ったものですが近代三百年を経て現在に辿りついた我々にはもはや其の事が見えなくなって仕舞って居る。
一方で自然界にも欲望つまり煩悩が深く根付いて居りますが其れが世界へ及ぼす破壊の範囲は常に小さいので自然自体、世界自体を破壊するようなことにはならない訳です。
この欲望こそは、其の様に制限的に成就されるべきものです。
其の制限的に成就された例こそが自然そのものの様です。
自然は理想郷のようなものではありませんが、そうかと言って無制限に欲望を成就させるようなところではない。
自ずと制限されたものである為、自然なのです。
自然に規定されて居るものであるからこそ自然なのである。
然しながら中間者である人間はいつの間にかこの規定されることに対する拒否反応を持ち合わせて来て仕舞った。
其れは丁度あの原発のようなものなのです。
現代文明に必要なエネルギー量を確保する為には原発による膨大な発電量が是非必要です。
現代人の精神性を継続する為には人間を制限されることに対する断固とした拒否反応が是非必要です。
つまるところ、現代というこの瞬間を成り立たせる為には自然を破壊するかもしれない禁断の領域に手を染めるほかなくかつ精神を破壊するかもしれな い禁断の思想に入信するほかはないのです。
現代という時代でのこの一瞬一瞬がそうした究極の選択を強いられしものなのです。
我々は物質文明という一種甘い香りのする檻の中でそうした選択を突きつけられ実際にそれらを選んだことにされて仕舞って居る。
そうです、実は一人一人が選んだということになって居るのです。
何故なら何せ民主主義の世の中ですので。
そして知らず知らずのうちにこの破壊活動に加担していくのです。
何を破壊するのかと云えば、究極的には自己を破壊するということになります。
自然と精神を破壊することで、人間としての一種の自己破壊が成就するということです。
破壊とは、其の対義語とされて居る建設の逆です。
或は創造という言葉の反対の方向性でもあります。
何かを生むことと、其れを生成、成長させること、謂わば生命現象のようなものは、どう考えても破壊ではありません。
もっとも生命現象が善であるか悪であるかという段になれば、其れはなかなか決めきれない部分さえあります。
宗教で云えば仏教では基本的に生命現象を悪と捉える向きがありますが、此の世に生まれて来る目的が仏道修行の為と捉える限り必ずしも其れは悪ではないことともなります。
キリスト教では神と繋がらない現世での生を悪と捉えますが、一方で生命現象は否定されて居らず其れはむしろ神に認められし善である、良いことであるという理解がなされているようです。
生命現象が善であるか悪であるかということを決めきれないのは、きっと生命が自己矛盾領域で展開されて居る何ものかであるからなのでしょう。
また人間が生育者であるか破壊者であるかということを決めきれないのも、おそらくは人間存在が中間的な立場に生きて居るものだからなのでしょう。
ということは生命が悪であれ善であれ、また人間存在が悪であれ善であれ、其のようなことは実は決めきれないことなので元々考える必要がなく、一番大事なことは破壊者であるかそれとも建設者であるかということではないかと私はそう良く考えるのです。
謂わば破壊ということこそが悪なのであり、建設ということこそが善なのです。
より良く生きたいと願い行うことは一見善のことであるようにも見えますがまさに過ぎたるは猶及ばざるが如しであって、其処で人間だけがより元気に生きて居られれば其れで良いのだというような精神性の低い生き方をして居ては世界を破壊する魔人に成り下がって仕舞う虞が多分にあります。
建設と言ってもむやみ矢鱈と文明を拡げていけば良いということではなく、あくまで地球環境や人間の精神を破壊しない範囲で大人しくやっていきなさいというそういうことなのです。
さてそれでは一体どうしたら人間はそんな心に至ることが出来るのかという点につき以下に述べます。
1.屈折について学ぶ
2.真面目な人から学ぶ
1.文學や藝術は屈折した人間存在が余計に屈折することの大事さを教えて下さいます。是非ここから学びましょう。
2.真面目な人、わけても自然の好きな人は大人しい人が多いので其の大人しさ=精神的洗練度から是非学ぶべきです。
学ぶ=建設、であり、学ばない、これらを無視すること=破壊、に繋がることです。
21世紀の人類が学ぶべきこととは近代的なイケイケ主義なのではなく一種植物的に洗練されし地味な人間の考え方です。
そうした考え方こそが何か大きな転換を文明に齎して呉れることでしょう。
尚、生命が自己矛盾領域で展開されて居る何ものかである以上、生命の生成が最終段階まで進めば必然的に自己破壊即ち自滅の道を辿るということにもなろう。
これは恐ろしい考えですが最近はより真実味が増して来て居る考えのようにも思います。
ちなみにキリスト教にはこの考えと全く同じような終末論というものがあります。
即ち其処では此の世界はドンドン悪くなり最終的には是非一度滅びる必要があるのです。
其の後にこそ神を信じる人々にとっての神の王国が成立するのです。
いずれにせよ、このままでは文明を存続させることが難しいということです。
屈折する自然としての我々は今後これまでとは逆方向に舵を切る必要がどうしてもあるのです。