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そんな「上智」との對話ー+江戸川 乱歩と相生山の石英の話ー

そんな「上智」との對話ー+江戸川 乱歩と相生山の石英の話ー

 

 

 

 

江戸川乱歩デビュー100年、自伝「貼雑年譜」の全容公開へ…「戦争も小説の材料に」 : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)

 

其の江戸川乱歩 - Wikipediaですが彼はほぼナゴヤ人です。

 

ー2歳の頃父の転勤に伴い三重県鈴鹿郡亀山町(現・亀山市)、翌年、愛知県名古屋市に移る。以降、大人になっても引越しを繰り返し、生涯で46回引っ越した。

旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)を卒業後、早稲田大学政治経済学科に進学。ー江戸川乱歩 - Wikipediaより

 

彼江戸川 乱歩の作品には所謂猟奇的な趣味、さらにエロでグロで残虐な要素が色濃く出てつまりは通俗的な意味での「味わいの濃い」作家です。

また其の「濃さ」こそが「赤味噌」的なものであるとまずは自分は考える。

 

さらに瑞陵高校は我が母の母校である。

だからわたくしも其処へ行きたかったのだが全然別の高校へ行って仕舞った。

 

で、其の大作家である江戸川 乱歩のことはまた後日纏めて書きます。

 

 

このような状況のなかで、2015年にカトリック教会のローマ教皇フランシスコは『回勅 ラウダート・シ』を発表し、深刻化する環境問題を正面から取り上げました。

教皇は、聖書中の前述の神の言葉が、決して人間による自然の無制限な利用・搾取を許したものではないとしつつ、「わたしたちキリスト者が時に聖書を誤って解釈したのは事実」であると率直に認め、行き過ぎた「人間中心主義」を改めるべきことを強く主張したのです。そして、人間は自然を保護し、自然の生態系を守る責任を持っていることを明確に述べたのです。

 

教皇は、キリスト教の基本的な人間観、すなわち、神が自らにかたどって最後に創造した人間が人格を持ち、自己意識・知性・自由意志を備えた特別な被造物であることを否定したわけではありません。しかし、人間に先立って創造された大地、植物、動物、それらが形成している生態系が、人間にとっての有用性ではなく、それぞれの固有の価値を持っていること、その点では人間と対等な被造物、共に暮らす家族であり、人間がそれらを害すれば、その害は当然に人間自身にはねかえってくることを、明確に論じました。

教皇が提示したのは、人間を含むあらゆる「被造物」が相互に依存しながら共に栄える世界観です。これは、人間が他の被造物を「適切に」管理・利用することで栄えるという、従来の人間中心的な世界観とは似て非なるもの、カトリックの教義や思想にブレイクスルーをもたらしうるものといっていいでしょう。

 

 

しかし、より注目すべきは、同書がキリスト教以外の宗教から高く評価されたことでしょう。すべてのものの相互依存関係を「縁起」と表現してその思想の核に置く仏教をはじめ、その世界観は、さまざまな宗教が共有しうるものだったからです。

すなわち、全人類が直面している環境問題という重大かつ喫緊の課題について、宗教観の対話・協働への扉が開かれたのです。

 

 

宗教的価値観は人間の生命と尊厳を守り、人類全体の平和と共存を志向しながら実現されなければなりません。しかし、もしも、ある宗教的価値観が人間の生命と尊厳を否定し、人類の平和と共存を拒絶する方向に向かうならば、人類のサステナビリティを脅かすことになります。この問題に関して、眼前の事例に目を向けないわけにはいきません。

 

このように特定の宗教的価値観が別の価値観とぶつかったとき、さまざまな緊張や対立が発生します。残念ながら、ときに悲劇的な事態が起こることもあります。しかし、衝突・矛盾を解消し、共存・連携への道を拓くすべもあることを、過去の歴史のさまざまな例が示しています。

環境問題、そして戦争。宗教的価値観をサステナビリティに結び付けるには?:上智大学の視点 ~SDGs編~:読売新聞オンライン(読売新聞) (yomiuri.co.jp)より

 

まさに其のフランシスコ教皇は立派な人格者です。

またかってアッシジのフランチェスコ - Wikipediaはまるで佛教の沙門の如くに「清貧」の宗教活動の中に生きた人であった。

 

ー日々の食事は、様々な肉体労働もしくは托鉢で得た[37]。金銭は受け取らず、初期のフランシスコ会でも同志たちはそれを忌み避け、手を触れることさえ嫌がった[38]。こうした活動のスタイルから、フランシスコ会は同時期のドミニコ会と共に「托鉢修道会」と呼ばれるようになる[39]

こうした活動の指針を与えたのは福音書に書かれた、キリストや弟子たちの行動である。ある日、ポルツィウンクラの小聖堂で行われたミサの中で福音書が朗読され、イエスが弟子たちを各地に派遣するときの言葉にフランチェスコは感動した。その中でイエスは「行って、そこかしこで「神の国は近づいた」と伝えなさい。あなた方がただで受けとったものは、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も入れて行ってはならない。旅のための袋も、替えの衣も、履物も杖も、もっていってはならない」と弟子たちに命じており、それに従ってフランチェスコは直ちに履物を脱いで裸足となり、皮のベルトを捨てて縄を腰に巻いた[40]

福音書でイエスが命じている全てをそのまま実行し、イエスの生活を完全に模倣することがフランチェスコの生活の全てとなっていた。「裸のキリストに裸で従った」のである[41]

アッシジのフランチェスコ - Wikipediaより

 

左様にまず宗教者は「所有」してはならないのだ。

エス様だらうが御釈迦様だらうが其のことはまるで同じなのだ。

 

つまりはイエス様も御釈迦様も「裸」同然である。

要するにルンペンさんと大差無い。

 

なのに新興宗教の教祖の其の贅沢振りとはさても何のことだ?

 

だから其れは金輪際神でもまた佛でもネエ。

なので其れは御前ダケの宗教のことだろ。

 

 

ーまた、フランチェスコの思想の性格をよくあらわしたものに、彼の死の床で歌われたという有名な「被造物の讃歌」がある。この讃歌は、「もの皆こぞりて御神を讃えよ、光のはらから(同胞)なる日を讃えよ」という著名な一節から「(兄弟たる)太陽の讃歌」と呼ばれることもある[124]。そこでは太陽空気大地を「兄弟姉妹」として主への讃美に参加させ、はてはまでも「姉妹なる死」として迎えたのである。フランチェスコ自身の内部では、清貧と自由と神の摂理とが分かちがたく結びついており、この三者が調和してこそ、簡素で自然で純朴な、明るい生活を営むことができるのであった[123]。こうしたことから、彼は西洋人としては珍しいほど自然と一体化した聖人として、宗派を超えて世界中の人から敬慕されている。ーアッシジのフランチェスコ #思想 - Wikipediaより

 

以前此処で其の「被造物の賛歌」を取り上げたことがある。

つまり「清貧」でないと本物の宗教は見えずよって宗教者が「所有」だの「権威」だの「教義」だのに拘って居るうちは本物の宗教はまるで見えては來ぬものだ。

 

「自然と壱體化した聖人」

あれ、もしや其れは僕のことかいな?

 

 

ーフランチェスコが求めたものは異端を帰順させたり、いかがわしい聖職者を断罪することではなく、ただ神を讃美し、小鳥やオオカミなどをふくむ神のあらゆる被造物を自分の兄弟姉妹のように愛し、福音を伝え、単純と謙虚の道を歩むことであった[125]。フランチェスコは、ウサギセミキジハト、ロバ、オオカミに話しかけて心がよく通じ合ったといわれる[125]に説教を試み、オオカミを回心させた伝説が知られ、とくに小鳥に説教した話は有名である[注釈 1][123]。『聖フランチェスコの小さい花』にも、説教を聞く者がいないときフランチェスコは小鳥を相手に説教したという逸話が収載されており、同様の伝承は数多く伝えられている[126][注釈 2]

フランチェスコの以上のような事績から、1978年から2005年まで教皇位にあったヨハネ・パウロ2世は、1980年、フランチェスコを「自然環境保護の聖人」に指定した[127]

フランチェスコにとっては、人類すべてのみならず、天地の森羅万象ことごとく、唯一神たる天の父とマリアを母とする兄弟姉妹なのであった[124]。こうした「万物兄弟の思想」はフランチェスコとその修道会を貫くものであり、フランシスコ会の修道士が「フライアー」friar と称される由縁である[124][注釈 3]アッシジのフランチェスコ #思想 - Wikipediaより

 

聖フランチェスコはそも心根が清いのでさうして動植物と心を通わすことが自然に可能だった。

實は自分もまた似たところがあり動植物の心が分かる。

 

だが其れを言うと逆に「村八分」となりかねぬ。

だからなるべく言わないやうにして居るが兎に角分かるものはさう分かる。

 

いやだから、其の唯壱神たる天の父とマリア様にさう拘らずに別に其れは八百万の神天照大御神でも良いのではないか。

また大日如來などでも良いのだと思う。

 

そんな風に神と佛はそも親戚なのだ。

其れはヨシとして問題なのは大衆の側の認識力の乏しさなんだ。

 

だがそんな「心貧しき者」をクリスト教や浄土教は決してバカにしたりはしない。

個人的には其処こそが偉いのだとさう感じて居る。

 

 

さて「宗教的価値観」こそが現代文明がたった今仕出かして居る「罪深き所業」と対峙し得るものと成り得ることであらう。

つまるところ其れは「國家」や「政治」の単位でもって太刀打ちし得るやうな問題には非ず。

 

「宗教」やまた「哲學」などのより大きな精神的な括りの中でこそ其れと向き合うべき問題なのだ。

だがそんな時によりにより「邪教」を頑張ってやるとは其は何事か?

 

だからもう「邪教」は要らん。

邪教追放!!

 

其れも此の際そんな邪教を教祖ともども🚀に乗せ宇宙へと抛り出さう!!!

 

 

そこで注目されるのが、「ナッジ(Nudge)」と呼ばれる手法です。ナッジとは本来は「(行動を促すために)わきから小突く」という意味です。これは、行動変容に関わる意思決定について迷っている人に適切な情報を提供して、「さあ、あっちへ行きましょう。」と社会にとって望ましい意思決定に導く方法です。

 

また、些細なことで行動変容が起きる可能性もあります。たとえば、同じことを伝えるにしても、違う伝え方をするだけで行動変容が起きることがあります。「これから、それをすれば得をするよ。」と伝えるよりも、「今それをしていないことは、損をしているよ。」と伝えることが行動変容の誘発に効果的なことがあるのです。また、現在存在している補助金の水準を変えずに、補助金を受けるために必要な書類手続きを簡素化するだけでも、行動が変わる可能性もあります。

どのようなナッジによってどの程度の農家や消費者が行動を変容させるかということは、まだ明らかではありません。ここまでに述べたナッジによる政策には、補助金や税金と比較して、社会全体にかかる費用が低い可能性もあるという利点もあります。その観点からも、この分野における研究は、今後ますます重要になります。

 

農業を通したSDGs取組に求められる人々の行動変容:上智大学の視点 ~SDGs編~:読売新聞オンライン(読売新聞) (yomiuri.co.jp)より

 

おそらく所謂「功利主義」的且つ技術的な試みは抜本的な「行動変容」には繋がらぬことかと個人的には思う。

故に問題はむしろ「人文學」の領域にこそありはしないのか。

 

「人文學」が弱る即ちヘタリ込んで居るからこそまさに聖フランチェスコの如き「清き心根」が育たぬのだ。

故に「人文學」の領域に「魂を叫ぶが如き」まさに僕みたいな人が居ないからこそ其れが弱り且つ腐って來る。

 

またアノ畑正憲 - Wikipedia氏などを見ろよ。

此のジジイはな、明らかに偏執者だぞ。

 

其れもドーブツに命を預けた變態の壱人だ。

でも結局其の變態を見事に貫いたぞ。

 

まあ彼は聖フランチェスコとは違うのやもしれん。

でも彼は彼なりに「自然と會話」することが可能だった。

 

だから其の彼の「文學」より是非學ぶべきなのだ。

みんなはさうして動物とまた植物と御話をするべきだ。

 

何とても其れは出來ない?

此の「洗脳人間」めが。

 

 

まずは畑先生のやうに猛獣に頭を齧られてみよ!

ガリッ。

 

痛!!

うわあーなんじゃこりゃー血がダラダラだー。

 

またとない良い體験をされましたね。

おい、どうした、返事が無いぞ。

 

彼はたった今お亡くなりになりました。

さうか其れは良かった。

 

猛獣に食われて死ぬるなんて其れはむしろ最高の死に方だらう?

やうし、コイツを是非鳥葬 - Wikipediaにでもしてやらう。

 

但し此処🗾で其れをやると犯罪となる。

なのでコイツをチベットへと運び鳥に喰わせる。

 

 

環境保全型農業」とは要するに昔の農業の仕方がまさに其れに当たるものです。

ですが個人的に「環境保全型農業」を推進するのは國や自治體などの「社會」の側のことと思われる。

 

つまり其の「社會」の考えがそも變わらなければ其れはあくまで無理なのだ。

 

どだい「環境問題」と云うほとんど人類に取り最後の大問題を引き起こしたのはそも誰なのか?

まさに其れが近現代社會であり其の社會的営為により其れが引き起こされた。

 

ですが相も變わらず近現代社會は「豊かさ」へと眞っしぐらです。

そんな思想のもとで果たして何が出來得るのか?

 

 

なので以前よりわたくしは壱種過激な意見ですが「たまには猛獣にやられてみよ」とさう述べて來て居たのです。

第壱🐵は猛獣が怖いので「豊かさ」などはあえて追い求めない。

 

嗚呼エライなあ、御🐵さんは。

じゃあ其の🐵の方が人間より上なので?

 

いやほんたうは人間の方が上だが自分の方が下だとむしろさう遜る態度こそが人間に取り常に大事なのだ。

 

 

よく名言や教訓、あるいは理想や理念などが「人生哲学」「経営哲学」などのように「〇〇哲学」と呼ばれることがありますが、それらはいわば哲学の副産物であって、哲学の本質は、それらを導くために問いを立て、考える行為そのものにあると、私は考えています。その意味で『君たち~』は、本来の意味での哲学にいざなう本といえるでしょう。

「問いを立てて考える」本来の哲学がいまこそ必要とされている:ニュースを紐解く:読売新聞オンライン(読売新聞) (yomiuri.co.jp)より

 

まさに仰る通りに哲學とはまず「自分で考える」ことでせう。

わたくしは其のことが得意でよって哲學の方面が得意な訳です。

 

実は日本人は、自ら問いを立てて考える「哲学」を、これまで得意にしてこなかった、と私は考えています。空気を読んで和を保つことが重んじられ、下手に正論をもって異を唱えると「理屈をいうな」と非難される、そういう文化だからです。その土台には、同質的な文化の中で、価値観が共有できているという暗黙の了解があるように思います。

いま、そのような了解が思い込みにすぎないことに人々が気づき始めている。そのなかで、多くの人が大きな不安や恐れを感じ、自分の中に秘めていた問い、たとえば生きる意味、自分が社会の中で果たすべき役割、正義とは、公平とは......そんな「問い」たちがアタマをもたげ、自ら答えを求めずにはいられなくなっているのではないでしょうか。また、お互いに空気を読みあい、異論や問いを「理屈を言うな」といって封じる文化は、息苦しいだけでなく、多様な人々の共生を危うくし、創造的な活動を妨げます。そのことにも、人々は気づき始めているのではないでしょうか。

 

「問いを立てて考える」本来の哲学がいまこそ必要とされている:ニュースを紐解く:読売新聞オンライン(読売新聞) (yomiuri.co.jp)より

 

仰る通りに此処🗾で「自分で考える」人はむしろ要らん異分子ですのでついには「村八分」化されるものと相場が決まって居る。

だが其れも最終的には「自分で考える」人の方が正しくなる。

 

何故なら其の「全體主義」的な意思決定はほぼ「洗脳」に等しいものであるが故に。

例えば今の政治の問題にせよまさに其の「全體主義」の問題なのだ。

 

そんな「全體主義」をやりあえて「洗脳」されヘラヘラと嗤いつつ喜んどる奴等の気がしれんわい。

 

 

ちなみに、子どもたちが立てた「問い」の中でこれまでの傑作というと、小学校では「将来の夢は持たなければいけないのか?」、高校では「個性ってそんなにいいことか?」というものです。「問いを立てて考える」本来の哲学がいまこそ必要とされている:ニュースを紐解く:読売新聞オンライン(読売新聞) (yomiuri.co.jp)より

 

「夢其のもの」や「個性其のもの」つまりは「世間で良いとされる価値」に就きより掘り下げて考え且つ其れに評価を下すのは立派な「哲學」としての仕事である。

 

 

哲学は、要するに、人が生きるなかで出会うさまざまな問いを、立ち止まって、ゆっくり、じっくり掘り下げて考えることです。考えることができる人なら、だれでもできること、きわめてシンプルなことです。ところが、いったん真剣に考え始めると、私たちがふだん当たり前だと思っていたことが当たり前ではないことに気づき、多くの問いがそう簡単に答えの出ない問いであることに気づきます。考えても、考えても、元の問いに戻ってきたり、新しい問いが出てきたりする。途中で耐えられなくなったり、空しくなったりしそうです。そこが難しいところです。それでも考え続けることの意味は、先ほどお話ししました。

過去の哲学者たちがしていたことも、基本的には同じことです。ただ、歴史に名を残すような哲学者たちは、鋭い切り口で問いを立て、驚異的なねばり強さで徹底的に考え、問いを掘り下げ、なかなか常人の行けないところまで行き着くことがあります。そのたくましい思考の展開に、なかなかついていけなくて、哲学書は難しい、ということにもなります。

 

「問いを立てて考える」本来の哲学がいまこそ必要とされている:ニュースを紐解く:読売新聞オンライン(読売新聞) (yomiuri.co.jp)より

 

尤も「思考」することが得意な人と其れが苦痛でしか無い人の差がしかとあることかと思う。

わたくしは明らかに前者のタイプですので後者のタイプの人の気持ちは基本的に分からんです。

 

「哲學」も其の「學」としてのレヴェルに到達することが極めて難しい訳です。

ですが「學」としてのレヴェルに到達しないやうな哲學的思考に限れば例えば藝術家や宗教家の方方などは其れを行って居る可能性が高くある。

 

其のやうな観点よりレヴェルをあえて落とす形で考えてみるのも壱つには「大衆の為の思考術」と成り得るものだ。

まさに哲學者の如くに徹底的に考えられはしないのだから自分なりに疑問を持ち問うてみる位のことをして行けばまた自身の心のあり方も變わって行くのではないか。

 

 

現代の「祭り」が抱えるジレンマ受け入れてうまくつきあう工夫が必要:ニュースを紐解く:読売新聞オンライン(読売新聞) (yomiuri.co.jp)

 

非常に面白い議題ですが本日はすでに時間切れです。

其れと云うのも夕方迄相生山へ行って居たので本日は作文の方に時間が取れなんだのだった。

 

ところで石はあった?

石目的で無く気晴らしが目的でしたが石もまた幾つかありました。

 

其れがヤバい位に良い石である可能性もまた60パーセント位はある。

尚物をバカにしてはならない。

 

物もまた「思想」の壱部分です。

市内が展望出來るところより相變わらずの大都市ナゴヤを眺望し「何で文明はあんなデカい🏢ばかりを造りたがるのか」と云うことに就き考え其の直後にベンチの後ろの地面を観たらまさに其処に上物の石英が置いてありましたのです。

 

實は本日拾った石は皆さうしてワザワザ其処に置いてありましたものばかりです。

又は其のやうに感ぜられたと云うこと自體が自分の石採りの能力の段階がまた壱段上がったことであるのやもしれません。

 

まさに不思議なことではあるが其れもまた充分に有り得ることだらう。