再度『火天の城』を視て今思うことー古き良き🗾の男達の意思決定に就いてー
「ヒガシでは無理だ」ジャニーズ広告“見送り”で大打撃…事務所関係者は「ここまでとは予想していなかった。一気にイメージが…」 (msn.com)
さても其の東山氏が好きだ、何故ならまずは自分があり頭が良さそうだから。
また其の井ノ原氏が嫌いだ、何故ならまずは自分が無く頭が惡さうだから。
今は只東山氏の演じる「必殺仕事人シリーズ」をまた是非視て見たいばかりである。
だが何せ有料なのでなかなか其れも視られぬ。
さうして自分は兎に角頭の良い自分の強い人がむしろ好きである。
人間関係とかそんなものでは無くズバリと自分の意見を言える奴、自分流に生きられる御仁こそが兎に角好きである。
北海道函館「花びし」監修和洋中おせち 三宝 (skynet-c.jp)
兎に角🦐モノが食いたく本日家用にコレを頼んだ。ー視たところでは左様に🦐が多くしかも値段が安いー
京都東山 料亭「道楽」監修おせち 平安祝重 清新 (skynet-c.jp)
母の在所用にはこちらを弐つ。
其の「道樂」は何せ自分自身がある意味では道樂者なので元元性に合う。
自分は左様に何だかんだと言いつつ所詮は道樂者の壱螽斯詩人である。
つまりは🐜の如くにはまるで働けぬ無法者であり且つ無頼の徒なのだ。
道樂者は何かに溺れ其れを何処までも追及することだけを其の人生の目的となしておる。
だがわたくしの目指すところとは「美と観念の追求」にこそあり所謂飲む、打つ、買うの追求には非ず。
ちなみに「清新」は九月までが四千円引きである。
大阪の蟹屋はいや大阪其のものがさう云うことを兎に角したがるものだ。
「裸になろうが、ソープ嬢を演じようが…」元祖・お嫁さんにしたい女優、竹下景子70歳が持つ「等身大の魅力」 (msn.com)
其の竹下 景子はバリバリのナゴヤ人です。
かうしてナゴヤ人は意外と芸能界を侵食して居ます。
また松原 智恵子などは南区の銭湯の娘です。サウナに行ってきた『東(あずま)温泉』名古屋 | 雨の星 探検記 (amenohoshi.com)
さてユーチューブの方で『火天の城』を視ましたのですが今回で六~七度目の視聴となる。
何せDVDの方も持って居り定期的に視て居る映画ですが此処弐、参年は御無沙汰の映画でした。
其の感想としての結論から言えば映画としての評価が拾段階評価での九で即ち最上質としての日本の映画であることはほぼ間違い無い。
兎に角全ての日本人に壱度是非視て頂きたい作品である。
尚ユーチューブの方は中国語の字幕が入るが其の中国語とはつまりは漢字なのでほぼ意味が通じると申すか意味を推しはかることが出來る。
要は🗾文化の基本がまずは其の漢字ですので東洋の文字の漢字文化圏に今でも我我🗾人は生きて居るのである。
だから中國を嫌う謂われなどは元來無い筈なのにかっての歴史とまた中國が共産圏となったが故に多くの🗾人はむしろ中國が嫌いです。
ですがわたくしに限ればむしろ中國が好きです。
逆にアノデズニーランドなどが大嫌いです。
要は🗾の大衆的な意思決定のむしろ逆をやっておる訳だ。
だからわたくしの本心はなかなか理解し難い。
ほんたうは自分でもソレを理解し難い。
そんな癖の強い人間ですのでまるで赤味噌のやうに諄くてしかも味わい深い。
まあ確かに其の人間としての癖の強さだけは認めて置いても良いことだらう。
ですがたった今わたくしが考えて居ることはそんなことではまさか無く「出来るだけ早う北海道産の🦐フライを食いたい」とのことばかりです。
どだい「北海道産の🦐フライを食った」ことが此れ迄に無い。
ちなみに家に來る掃除のオバちゃんの旦那がまさに其の北海道の人とのことだが今北海道の別荘地の値段が高騰して居ると云ったそんな話が良く出るのださうな。
北海道はやがて類稀なる自然資源として中國人やまた世界の金持ち共の標的となり買われて行くことになるのやもしれぬ。
美味い水、清い空気、豊かなる自然。
兎に角そんなものへと金持ち共の関心はやがて向かうことだらう。
なんとなれば金は食えずまたたとえ火星へ行っても人間は生き抜いては行けない。
だからやがて金持ち共は「自然」をこそ買い占めやうとさう動く筈だ。
嗚呼、たった今壱億円があればなあ。
壱億円あれば其の北海道へと逃げるのですか?
いや寒いでせう、何せソコは。
自分は何せ寒いのに弱いので温暖な地の方が向いて居るがでも今日などは極端に蒸し暑くつまりはずっとエアコンを入れっ放しでした。
そんな北海道でも灼熱の大地と化すことだらう2050年以降文明はどうするの?
其れはしかしながらもはやどうしやうも無い。
そんなどうしやうも無いことは「知らん」とさう考えて置くのがむしろ壱番エエ。
兎に角此の文明はダメだからむしろ過去の美をこそ追求しやうではないか。
何で此の文明はダメなんですか?
ダメなものはダメだし即ちあくまで零点は零点で百点は百点だらう。
此の文明がダメなのはそもデカルトやヘーゲルの思想に間違いがあったからだ。
では百点の思想は誰が語ったものなのですか?
まあ其れは梅原 猛先生だとかまた西田 幾多郎だとか其れにショーペンハウアー→ニーチェ→ハイデガー→實存主義→レヴィ・ストロース→脱構築だとかでありもっと遡れば老荘思想などが其れに当たるかと思う。
だから其れはニーチェの間違いだな。
だから其れはハイデガーの間違いだな。
でもデカルトやヘーゲルの思想の御陰で文明は進歩しアナタはかうしてたった今近代的生活を堪能出來る。
ですが其れがそも間違って居るのですよ。
間違って居るとさう怒るばかりでは単なる感情論ではないか。
ならばいっそ理論化しても良いが其れでは話がまるで面白くはならんだらう。
でもまるで関西人みたいになって來たぞ君は。
さうかなあ、何時の間にか秀吉公化して來たのかな。
でも『火天の城』の主役はあくまでかの信長公である。
其の信長公がかって築きし夢の城である「安土城」の御話である。
ちなみに夏八木勲 - Wikipedia氏が此の映画で石工頭役で出て居るが其の夏八木氏は個人的に最も好きだった俳優さんである。
主役級としての夫婦役である西田 敏行氏と大竹 しのぶ氏は共に必ずしも好きでは無い俳優さんながら其の演技はむしろ素晴らしい。
さて此の映画で最も印象に残る部分は熱田の宮大工の棟梁として岡部又右衛門 - Wikipediaが木曾へ材木を探しに行く部分である。
さても杉にせよ檜にせよ兎に角木材は木曾の物をかって使った訳だ。
参拾代の初め頃自分は何故か其の木曾の森ー所謂裏木曾としての付知奥地の森ーばかりを訪れて居たものだった。
其処はかって尾張藩の御用林であったところであり兎に角巨大なる樹木の林立する壱種聖なる場のやうな処である。
わたくしは毎月のやうに其の森を訪れ其処を歩きながら良く物事を考え続けたものだった。
だが其れは所謂「普通の趣味」からはまるで外れて居たものであったことだらう。
何せそんな尾張藩の巨木の御用林を歩きながら常に「哲學」して居るのだからそんな人は多分わたくしダケだったのであらう。
でも自分はそんな「思考の変態」なのでは無く弐拾代の頃の趣味はむしろ百貨店での「御買物」だったのだった。
が、其の反動からか兎に角参拾代からはまさにそんな「思考の変態」となって行く。
其の「思考の変態」はもう👩遊びも止め酒も飲まず兎に角そんな深き森での「哲學」ばかりだ。
そんな深き森での「哲學」こそが自分に取り快樂なのであり逆に百貨店だのデズニーランドなどは次第に苦行の場へと化して行くのであった。
またピンサロや大酒を飲むことなども同時に苦行化して行ったのだった。
つまりは其処に「価値観」がスッカリ逆転して仕舞う。
其の頃自分はさうして巨木の森を歩きつつ主に「人間」や「文明」のことばかりを考えて居た。
まあさう云う人もまず世間には居らん筈である。
つまり壱言で言って彼はレアーな頭の中を持つ人、なのだらう。
「人間」や「文明」のことを深く考えつつ得た当時の思考としての結論は無論のこと今でも使えるものが多い。
また其の時に初めて詩人は「哲學化」を果たしたのだった。
哲學詩人はまさにさうして其処に誕生せり。
だから彼は其れ以降何でも言えるやうになる。
何でも言うと決まって皆に嫌われるにせよ決まって彼は其れを言っちゃう。
だが「レアーな人」がそんなに偉いのか、何やら威張ってるぞ!
まるで威張っては居ません、其れに只🦐フライが食いたいばかりなのだよ。
そんな「思考の変態」は其の後長年に亘り付き合った👩と別れ石が好きになって行く。
もしや其処でもって石と結婚でもしたのか?
石と結婚出来るもんか、ちゃんと考えて物を喋りなされ!
例えば此の石が大事でコチラなどもまた大事で…。
さても『火天の城』の話の続きはどうなった?
つい忘れて居ました、どうも御免なさい。
そんな訳で『火天の城』ではむしろ其の半分位が「自然」の御話である。
だが残りの半分は所謂「人間関係」の御話なのでもまたある。
しかも其の「人間関係」は複雑で且つ所謂ドラマに満ち彩られて居る。
よって所謂「泣ける場面」が幾つか其処には用意されて居る。
だが映画を視終わりストーリーを振り返ると其の全ての物語が昇華されて居る。
即ち天下壱の城を築くとの尾張の宮大工の意志其のものへと其れが昇華されて行く。
しかも其のことを「皆」でやる。
さうして人間が多く集い其れ其れのドラマを演じつつも最終的には皆が壱丸となり「安土城築城」と云う大いなる価値を實現するに至る。
故に實は今の自分が壱番引っ掛かった部分こそが其の部分であった訳だ。
何故なら「人間が多く集いやることにはむしろロクなことが無い」とたった今自分は考えて居る。
だがあくまで此のフィクションとしての映画の中には其のことの価値が紛れも無く語られて居る。
しかも「安土城 - Wikipedia」は其の完成からたった参年余りで焼け落ちた城なのだ。
其れでも尾張の宮大工達は其の安土の山に天下無双の城を築くことを目指した訳である。
「築く」とは本質的にはむしろさうしたことなのではないか。
「築く」とはむしろ其の「結果」によらず「信じた」上でさう「築き上げる」ことなのだ。
翻りもしや此の文明のあり方もまた其の「結果」によらず「信じた」上でさう「築き上げる」ことなのか?
まあさうなんでせうがでも環境破壊や生物種の絶滅の加速は如何にもヤバく文明を正当化することなどはまさか出來やせぬ。
じゃあ安土城の築城はむしろ〇でありあくまで文明は✖なのか?
まあ✖でせうね、安土城の築城では別に環境破壊をして居る訳では無い。
アレ、然し待てよ、まさに環境破壊をして居るぞ!!
ー発見されない蛇石
秀吉は観音寺山と長命寺山の谷から大石を引き出すため人足を集めた。石引きの歌声が天地にこだまする有様は、「昼夜山も谷も動くばかり」(『信長公記』「安土御普請の事」に津田坊が運ぼうとしたと記述)だったという。なかでも「蛇石」という巨石は五間余(約10メートル)、推定三万貫(約112トン)あったが、しかし引き上げる途中で綱が切れ、横滑りした蛇石に150人余が挽き潰された。その後蛇石は安土山頂まで引き上げられたはずだが、現在までに幾度の発掘調査を経ても、未だ発見されていない。安土城 - Wikipediaより
映画の中で其の秀吉公が音頭を取り巨石「🐍石」を引き上げる場面が克明に描かれる。
夏八木勲が演ずる石工頭は此の石を動かせば祟りがあるとさう述べるが信長公は其の注進に耳を貸さず兎に角巨石を天主迄引き上げよとさう宣うばかりである。
信長公と秀吉公はどうもさうして自然に對する畏れのやうなものを持ち合わせて居らなんだ可能性が高くある。
どだい其の「安土城築城」は安土の山壱つを丸裸にし其処に天主をはじめとする要塞のやうなものを築く計画であったことであらう。
だからさう云うのは明らかに権力や権威の象徴であり其の権力や権威の為には「自然」なんて思うが侭にしてやらうと云う壱種不遜な態度なのではなからうか。
ありゃ何時の間にかそんな天下人信長公と秀吉公への批判の作文となっちまった。
また他方で此の映画にて壱つの美談が語られるのである。
其れは木曾 義昌配下の杣人の長である緒形直人 - Wikipediaが演じるところでの大庄屋 陣兵衛の意思決定に関する部分である。
当時は武田領であった其の木曾の森から檜の大木を伐り出すことは無論のこと御法度である。
其処を覆したのが「天下壱」の城を築くとの岡部又右衛門の熱意であり決意である。
其の心意気に応じ大庄屋 陣兵衛は伊勢神宮の式年遷宮の為の大事な檜を安土城築城の為に伐り出すこととなる。
よって即刻彼は打ち首となるがさうなる前に「相応しい場に相応しい木を送り出すのが木曾の杣人の仕事だ」とさう言い張り死んで行く。
其れが史實かどうかは別として何とも「男らしい」物言いであり意思決定である。
自分などはむしろ「👨らしく無い」人間なのでそんな男らしい台詞にはもう参って仕舞う。
そんな男らしいまるで嘘のやうに男らしい👨がかって此の🗾國には結構居たのであらう。
さて自分は「マルクス主義」ばかりでは無くそんな古き良き🗾の意思決定の壱ファンなのでもまたある。
どだい自分は所謂進歩思想が大嫌いで今でも「文明を止めよ!」とさう言って居るのであるが其れは「近代文明を止めよ!」とさう述べて居るのであり古來より続く「🗾の文明を止めよ!」とさう述べるものでは無い。
だから安土桃山時代やまた江戸時代に此の🗾國は其れも出來得れば戻った方が良い。
さすれば大庄屋 陣兵衛の如き心意気の部分がまた🗾の👨共にも戻るやうな気がしてならぬ。
そんな「男臭い」毛むくじゃらの人がもしやお好きなので?
さうですねえ、例えば京の公家などよりはそんな獣臭い人の方がタイプですわ。
いずれにせよ環境破壊ダケはイケません。
例え其れが天下壱の城であるにせよ其の環境破壊だけは断じてなりません。
尚此の映画のロケ地にもなった赤沢自然休養林をかって自分は何度も訪れて居る。
さうして自分が参拾代の頃は兎に角盛んに岐阜や長野の森を訪れ従ってほとんど眞面目に働いて居なかったやうな気が今はして居る。
だが其の代わりにむしろ眞面目に哲學を其処にてして居た訳だ。
よって自分が「自然派」なのはむしろ当時よりそんな筋金入りの「自然派」とのことなのだ。
だからおそらく皆は引いて仕舞うのやもしれぬがまさに其の「自然」こそがまさに大事なのでまずは「自然」なのだ。
無論のこと其のことは「文明」以上に其れが大事だとのことである。
だがさう言ったにせよ其のことはおそらく現代人に伝わらぬことであらう。
そんな意味から巨木の森だの巨石だのが出て來るー其れも物語の上での重要な役回りとして登場するー此の映画こそが其の「自然愛好者」に取ってのまさにバイブルの如き映画と仕上がって居る。
また其ればかりでは無くむしろ「人間関係」が好きで其の「人間関係」により何かを成し遂げたい方などにも此の映画はまさに御勧めである。
でもって個人的には此れ程素晴らしい🗾の映画を自分は他に知らないのである。
つまりは此の火天の城こそがまさに🗾史上最高の映画作品なのであり現代の🗾人に取っての様々な意味での課題としての映画なのだ。