自然とは何か?ー四 かって岐阜の付知にて培った我が観念としての洞察力ー
【恐怖】 攻撃してくる熊が速すぎる "Bear Attack" - YouTube
此処で🐻に食われる恐怖を是非味わってみたかったがまるで野良🐕のやうな弱い熊でオッサンの声の方がむしろ怖かったです。
11月4日17時15分家を出る。
17時25分、中根ー白砂ーのセヴンイレヴンにて通販購買品の支払いを行う。
其の作業分だけ現地への到着が遅れた。
昭和高校の北側を🚴を押して歩くうちに🎆が始まった。
ドオオーン~~~。
うわあー、始まったぞ凄い臨場感だな。
弥富幼稚園ホームページ (aichishiyo.or.jp)ー我が出身幼稚園ーの裏手の山の上より是非其れを観たく急な坂を上る。
ドオーン、ドオーン、ドオーン。
坂より振り返り観ると其の🎆の輝きが兎に角凄い!
何故なら至近距離で観て居るのと昨夜は夕方より強風が吹き都市に於ける汚染物質が吹き払われ光が異常に綺麗な晩だったからなのだ。
坂を上りつつ何度も振り返り🎆を観る。
サア、着いたぞ。
是非此処から目壱杯🎆を観やう。ーまさに其処が昔時折夜景を観に来たところだー
観客は近所の人人で壱杯である。
其の岳見は可成の高級住宅街でかって此処の近くには高級車のコレクションハウスを建てた邸宅などもまたあったものだった。
例えば人に瑞穂区東部の住環境の高級さを伝える場合には此の昭和高校裏手の岳見の豪邸の様子を話すことなどが多い。
また此の辺りは低山の頂にある故兎に角急な坂が多く所謂まさに「山の手」の地域である。
…。
ところが🎆が其れ以降上がらない。
…。
どんだけ待っても🎆が炸裂しない。
其れでもって周りを見渡すと皆さんすでにお帰りになって居るではないか。
つまるところ我はちと考えが甘く其の🎆見物の所定の位置に着くのが遅かったのだった。
其の🎆の上がった時間が大體参分程。
でもって我が坂を上って居た時間もまた大體参分位だった。
- 清水定彦 - 元東邦ガス社長、会長
- 鏡味国彦 - 英文学・比較文学者、立正大学名誉教授
- 胡桃坂仁志 - 生物学者、東京大学教授
- 山田正紀 - 小説家
- 足木孝 - 外交官
- 森元孝 - 早稲田大学教授
- 牧義夫 - 衆議院議員、元厚生労働副大臣
- 野沢尚 - 脚本家、小説家(向田邦子賞、江戸川乱歩賞等を受賞)
- 大島真寿美 - 小説家(直木賞受賞)
などとなかなか偉い人達が出て居る高校なのだが余りに🎆の時間が短くはないか。
兎に角モヤモヤがおさまらぬので石川橋までサイクリングしてから家へ帰った。
尚其の直木賞作家の大島 真寿美は名古屋市立萩山中学校 - Wikipediaの参學年後輩である。
尚本日は御天気も宜しくだが相変らず忙しさには変わりは無く主に布団の丸洗いに勤しんで居た。
問題は其の布団に🐈の毛が付いて居りさうして洗ってもなかなか其れが取れぬ点である。
すると布団が乾いたにせよ其の🐈の毛が眠って居る私の鼻の穴などに侵入し其れもただでさえ神経質だと言うのに其れでは一晩中咳き込むことにもなりかねぬ。
故に布団をまた念入りに叩かねばなるまい、其の布団叩きにて。
またそんな御洗濯の合間にも「透かし」をして遊んで居た。
また石の「透かし」でもって遊んだので?
皆はさう思うことだらうが僕の場合みんなが思うこととは違うことを其れもワザとやるんです。
だから今日は文房具を陽の光に翳し「透かし」て居ました。
1.JINHAO100ー中華万年筆ー
2.文鎮ーオニキス製ー
此れ等を透かしましたところ意外と「透け透け」となりましたものです。
實際に其のJINHAO100は参本程を透かしてみたが實に良く透けるペンである。ーアクリル系樹脂軸ー
なる程、するとペンもまた透ける物があるのだと?
セルロイド軸の万年筆などもまた透けるがセルロイド軸は光に弱いと思われるので其れは止めて置いた方が良いことだらう。
セルロイド軸はまた水分にも頗る弱い。
最悪の場合は光や水分にて分解され挙句に自然発火するので恐るべき話となる。
エボナイト軸の場合は大丈夫ながら強い光に当てると茶変する。
また強い光には当てずとも経年劣化にて矢張り表面が茶変する。
其れを黑に染める手が實はあり、
1.米國から専用の塗料を取り寄せる
2.パイロットのブラックインクに浸し込み染める
ことなどが可能だ。
また逆にエボナイトの軸の茶変を愉しむ方法なども無いでは無い。
此の場合は綺麗に茶変させると其れなりに味わいがあり其処は良いがむしろ汚く茶変する場合の方が多いので上級者向けの技である。
でもって今日本の戦前の萬年筆を2.の方法でもって染めて居るが實はこちらの方もまた簡単な技では無い。
つまるところはエボナイトの軸の表面にインクが染み込んで行き易い状態にするのが壱番であるがまさに其れがハッキリとは分からないのである。
従って結果壱、弐箇月程も浸け込まねばならなくなる。
だが其れでもって戦前の萬年筆の見栄えの部分が生き返る場合などがまた多い。
尚本日はまさに収穫の秋、錦秋に染まる季節らしく黄金色の万年筆もまた陽の光に翳しつつ眺めて居た。
まさに其れが此のペンだ。
尚此の萬佳さんのペンは蒔絵万年筆だが此の黄金色の漆塗りであるところが極めて珍しいのだと言える。
よってつい今年買って仕舞った御品であるが實は筆記状態に於けるキャップの固定が悪く両面テープを軸に貼り付け其れでもってキャップを固定させて居る。
でもって金ペン先では無くタダのステンレスペン先ながら其のペン先自體の質は上等の部類のものだ。
尚かうして物に耽溺する趣味は壱種卑しいことなので其れを分かった上で是非やって頂きたい。
他にも高級腕時計、高級車などの趣味も全てが同じである。
此の世で壱番高級なのはむしろ「考える」ことであり即ち観念的営為ばかりなのだ。
但し「考える」こと其れ自體も言語の性質としての相対的価値分離を免れ得ずつまりは矛盾化せざるを得ない。
だから此の世には絶対の価値領域など何処にも無いのである。
其処を強いて言えば壱神教に於ける「全能の神」の営為こそが完璧に絶対である。
でも言語領域=考え得る領域の範囲では其れはまた虚化して行かざるを得ない。
なのであえて其れが分かった上で其の全能の神を信ずると云う訳だ。
まあ其の位のこと位までは考えておきませんと自分のことを人文のインテリさんだとはまさか言えぬ訳ですね。
さて其の虚の神はまたウソの神とはまた違いませう。
個人的には科学技術の神の方がウソコキの神のやうに思われてなりませんのです。
でも本日述べたいのは左様な観念論議では無くコチラの番組のことです。
NHK名古屋放送局が中部地方の大自然を特集する「中部ネイチャーシリーズ」を10月14日から放送 - ヤマケイオンライン / 山と溪谷社 (yamakei-online.com)
伊吹山「花と生きものたちの楽園」 - 中部ネイチャーシリーズ - NHK
「薬師岳〜岳は五たび色が変わる〜」 - 中部ネイチャーシリーズ - NHK
「北アルプス“地図にない温泉”」 - 中部ネイチャーシリーズ - NHK
「巨石が支えた山城 岐阜県 苗木城・岩村城」 - 中部ネイチャーシリーズ - NHK
こちらで視られるものと思う。
ところで最近「中部地方 - Wikipedia」とは何かと云う事を考えて居たらとある事にハタと思い至りましたのです。
中部地方とはズバリ此処日本で最高レヴェルでの山岳地帯を含む地域のことだ。
まさに其れこそが関東圏や関西圏では望み得ないことだらう日本で最高レヴェルでの自然としての価値を有することである。
だからナゴヤが高層ビルなんぞをドンドコ創ってはダメである。
むしろナゴヤは逆に「ネイチャー」壱本槍にてやってかなイカンのである。
でもって金の方は大TOYOTAと世界のイチローがもうしこたま稼いだのでむしろコレから愛知がやらねばならんこととは自然の価値を謳う詩人に壱億円づつを寄贈し自然を讃美する詩集を是非出して頂くこと以外には無いことだらう。
なので僕がいつも言い続けて来たことこそがつまりは正解だった。
でもってすでに此の持続派詩人にはどうあれば文明が持続可能なのかと云う事などは其の全てが分かって居る。
ですから詩人に其の啓蒙活動をしかと依頼し連載でも講演でもやって貰えば良いだけの話である。
ひょっとして君等は僕の其の能力を疑って居はしないか?
そんなことを疑う位ならばまずは自分の頭のまともさをこそ疑うべきだ。
なので兎に角今僕は其の「自然こそが神であり佛である」と云う部分をこそ世に訴えかけたい。
また其れは金でも無く女でも無くさらに會社でも政府でも無くまた藝術でさえすら無く自然こそが最上位の価値だと云う話である。
でも所詮は其の金キラ万年筆が好きな俗物詩人さんでせう?
馬鹿者!
其れはな、アノ秀吉公がな、チョット我の中にも入って居るだけのことよ。
なのだがアノ家康公のな、本が大好きの其の人文インテリジェンスの凄さがな、また同時に我の中には混在しておる。
さらにな、アノ信長公のな、ドドドドドドド、ドッカーンてなブチ切れ方がまた我が専売特許なのだからして。
うーむ、其処に参英傑が揃い踏みと云う事か。
さうだ、まさに其の参英傑のゴタ混ぜが此の尾張の大詩人の心中にてさうして初めて可能となったのだ。
詩人さん、では自然=究極としての価値であるのならば此の今やってる文明って壱體何ですか?
まあ倒錯としての価値の推進のことじゃろうよ。
だが其れを言うてもおそらくは拾指にも満たぬ人人にしか伝わらぬ筈だ。
例えば倉本聰 - Wikipedia氏や畑正憲 - Wikipedia氏また養老孟司 - Wikipedia先生などの諸先輩には伝わりさうだが君等にはなかなか其れが伝わらぬのだ、其れもまことに惜しいことにさうなのだ。
とりあえずはさうしてまだ皆生きてた。
だが五年後にはもう居ないだらうな、皆。
詩人もまた何せかうして俗物性が無いので五年後にはもう此の世に居ないやうな気さえもがする…。
はっ!
だからあえて黄金色の万年筆を使うのか!!
さうなんだ、詩人の場合はさうしてむしろ俗物根性に浸りに浸った方がより望ましい訳だ。
さて其の中部地方の自然程豊かなものもまた無い。
但し山岳地帯が多いと云う意味での。
だが個人的には山へはむしろ出向かない。
山へ出向くにせよ決まって近くの猿投山 - Wikipediaなどの低山や或は付知峡 - Wikipediaの巨木林や段戸原生林愛知高原国定公園 - Wikipedia、段戸高原県立自然公園 - Wikipedia、鳳来鳳来町 - Wikipediaなどである。
我が人生で最も価値のある體験を重ねたのがまさに其れ等の山の中をトレッキングしつつ得た智慧の部分である。
尤も其の智慧の部分は自然と我が心根とが呼応した其の結果齎された部分である。
だから山や森へ入れば勿論誰もが哲學者や仙人になれる訳でも無いのだ。
要するに心の根本のところで必要となる思考としての素養、心の傾向性の部分がまた大事なのだ。
さて個人的に其れこそハードな高山への山登りなどは好まず主に自然と触れ合いつつのたくり歩く散歩の方が兎に角好みなのだ。
だからあくまで自然を征服せんが為に山や森に入るのではむしろ無い。
宮島キャンプ場 – 付知町観光協会直営キャンプ場 (tsukechi.jp)
付知峡県立自然公園 森林キャンプ場|観光スポット|岐阜県観光公式サイト 「岐阜の旅ガイド」 (kankou-gifu.jp)
かうして付知峡などは昔からアウトドア―ライフのメッカとして有名なところです。
ですがわたくしが付知峡に通った参拾~四半世紀程前はかうしたところは利用せずに独りでもってドンドン奥地へと入って行く訳です。
尚其の付知峡の奥地に渡合温泉なる秘湯の場がまたある。【公式】ランプの宿 渡合温泉旅館 | 付知峡の秘湯 (doaionsen.jp)
此処だけは是非行きたかったがいまだ其れが果たせずに居る。
かって研究所に居た頃に川崎製鉄から出向で来て居た自然が好きな人ー拾歳位上の知多の人ーに此処を教えてあげたところ夫婦で訪れ至極良かったとさう言われて居た。
さて此の渡合温泉だが兎に角滅茶苦茶に山奥だから皆様が想像する場とはおそらく違う筈である。
もうほんたうの山奥に壱軒だけ此の宿があるのだから。
其の温泉の手前の右手の方に巨木の森が見えて来る。
此の巨木の森でのトレッキングを目的として参拾代のわたくしは弐、参箇月に壱度位の割合いで其処を訪れて居たものだった。
だから都合拾回以上は行って居る訳だ。
いいや廿回程は訪れたのやもしれぬ。
岐阜県・中津川市をめぐる車中泊の旅 <付知峡「不動の滝」、夕森公園「龍神の滝」、そして車中泊 編> - ウェイクで行く車中泊の旅 (pisukechin.com)
此処では付知峡とはまた違うところの写眞も混じるが付知峡とは大體こんな感じのところである。
付知川や其の支流の川や渓谷が清流であり兎に角水が綺麗である。
おそらく奥三河の山山の水よりも綺麗なのではないか。
尚当時のわたくしは川の遡行即ち川を遡り源流方面へと向かうことなども毎回のやうに行って居たものだった。
此の売店から続く道を兎に角何キロも奥に入って行く。
しかしながら壱番のお目当ての方はむしろ巨木との會話である。
場所は違うかもしれないが大體こんな巨木がしかも其れが林立する場所が付知峡の奥地にあったのだった。
No.3 付知の森を守る木こり/中津川市 (nakatsugawa.lg.jp)
かうして木こりの方方などは其の付知の巨木の森を良く御存じの筈である。
裏木曽古事の森育成協議会 ホームページ【裏木曽古事の森へ】 (urakiso-kojinomori.jp)
裏木曽古事の森育成協議会 ホームページ【ウォーキングマップ】 (urakiso-kojinomori.jp)
まさしく其の「裏木曽古事の森」なるものである。
範囲
岐阜県と長野県の境の阿寺山地の西側で、江戸時代に尾張藩の支配地域である。この地域は中津川市の一部(付知地区・川上地区・加子母地区)に属している。
その他
国道256号(中津川市下野交差点~万賀交差点)と国道257号(国道41号交点~万賀交差点、下野交差点~国道19号交点)の付知川沿いの国道を裏木曽街道という。
其の巨木の森を知って居る人はしかしながら少ないのではないか。
何故なら多くの人は👪や友人と付知に来てキャンプや車中泊などをして主に観光地を巡りさらに店にて美味いものでも食い早早に帰って行く訳だ。
だからそんな奥地までワザワザ行きさらに其処で自然探訪する人などはまさか居ない訳だ。
いや中にはカルト人間が居て其れをやる訳であるが其れも何人居るかと云う位でのレヴェルなのだらう。
でもってわたくしはかうして自然とは単独で向き合う主義ですので其の観光は壱切抜きにて何処までも行っちまう訳である。
兎に角此の森は素晴らしい。
其れも壱級品である。
尤も原生林では無く言わばかっての尾張藩の御用林のやうなところだったのだらう。
自分は何でも壱級品がまた好きなのでもありよってタダの安物詩人、庶民派詩人の類なのでは断じて無い。
つまりは両方を理解し且つやるが服装なんぞはどうでも良いと云うつまりは見た目なんぞはどうでも良い派だと云うことなのだ。
其の壱級品としての檜の森にて我はかって歩きながら考え事ー哲學ーを良くして居たものだった。
即ち我が思考力とはまさに其処にて培われたものである。
だから其れは地元の相生山や猿投山などでは無く岐阜の付知だの奥三河の鳳来などで培って来た観念力なのである。