『萬年筆の秋』の画像が語る本物としての美の世界ー物の画像より語り継ぐ理想としての美の世界ー
「接待は吉野家」の稲盛和夫氏がエメラルドの高級指輪のなぜ…女性の恨みを買う因縁も (msn.com)
但し其の人造の💎と自然の営為が創り出したところでの自然の💎は似て非なるものである。
人造💎もまた文房具などに使うーペンにアクセサリ的に付けたりまた文鎮に出来る程大きなものもまたあるーには役立つものである。
だが観賞石としては明らかに味わいに欠け要するに其れは「化学記号」的な産物とならざるを得ない。
「化学記号」的な産物は「生きて」居ないが自然石はむしろ「生きて」居る。
石はさうして死んで居て冷たく見えて實は地球の営為により生かされて居る。
また其のことは感度の悪い人人には見抜けないが感度の高い人人ならばすぐに了解されることだ。
なので現存在が抱える問題とは其の感度の低さや見識に欠けたところより生じる暗愚さのことなのだ。
勿論其の意味での等級、価値ヒエラルキーの部分を我は例外的に認めて居るのである。
だから其れは所謂佛説などとはまた違う眞理の解釈となる。
其の佛説こそが完璧な理法であるが其れは人間には所詮出来ぬことなのであえて相対分別の世界を引き受けー矛盾をも受け容れーさらに壱神教をも認めて行くと云う考え方なのだ。
まさしく其の感度を高めさらに見識を磨いて行けばやがて其処には美の世界が切り拓かれまるで其れが己がものであるかのやうに見えて来る。
まさに其れが幻想としての美の世界であるが其の美に殉ずる形にて生きて行けば此の世での下らぬ現象に惑わされずとも良くはないですか?
其のやうな壱種の高踏的な世界観であり其の精神と美の世界を連動させたところでの孤高主義をこそ我はもう長く生きて来たのだと言える。
さらにさうした部分こそがかっての詩人や画家、また文人墨客などにも共通したある種の精神の貴族主義でもまたある訳だ。
なので自分の場合はあくまで物質界を卑しいものであるとは見ては居ない訳だ。
精神界⇔物質界
其の分離過程自體に優劣は存在せず逆に其の要素が相剋し且つ相即するやうな関係性を保つやうに精神的にバランスを取って行くのである。
なのだけれども實はどちらにも偏り過ぎれば即其れは下品化する。
だからウンコ其れ自體が下品なことなのでは無くウンコばかりになるのがまさしく其の下品な精神のあり方なのだ。
だって詩人さんの作文は毎回ウンコまみれのやうですが…。
あれさうでしたか?
でもソイツは酷いねえ。
まあいい、あくまで其れも僕の此の複雑な内面即ち藝術的な資質を是非理解させんが為にあえてさう書いて居ることなのだから。
さうかなあ、なんかかう毎回もうイヤになるんですが、多分私だけでは無く皆さんさうだと思うのですよ。
其れはどうも御免なさい。
正直カルト詩人なもので時に悪戯が過ぎたりもまた致します。
ですが我には左様に精神界と物質界の双方に對する「愛」が何より存して居ます。
愛?
さう其の壱種臭ーい「愛」の世界こそが。
うーん、すると「愛」は臭いので?
はい、其れは間違いなく臭みのやうなものでせう。
また同時に類稀な芳香ですらある。
なる程、すると御釈迦様は其れを否定なさるがあえてアナタは其れに飛び付くのだと?
へい、確かに其れに飛び付くが「生もの」よりも「生もの以外」のものに其のものの美を見詰めて行くと云うことだな。
其れではまるで「生もの以外」への愛を生きたのが詩人さんの生涯だったと言わんばかりでのことですね。
だって事實としてさうだったのですもの。
さうして自分は美の世界の渉猟者です。
また其のことをこそもう長きに亘り続けて来た。
さて美は何処にでもありまた頼りなげで儚げな愛しいものです。
其の美其れ自體への欲求こそが我が欲望としての最終過程でのものだった。
何故なら「破壊」ですら「美」を放逐することなどは出来ない。
「破壊」の中にすら「美」は表現され得るのだと思う。
例えば廃墟だとかの美のことですね。
廃墟 • 日本の廃墟 - The Beautiful Ruins of Japan (haikyo.org)
いやあー、此処はまたすっげえところだな。
廃墟はカルト美の最たるものでせうが其れは要するにマイナスの要素が美になって居るところが凄いんです。
ところで其の「マイナスの価値に飛び込む」旨はかの岡本 太郎氏が常常語られて居たことださうですね?
まあ藝術家は其のやうに皆同じやうなことを言うものです。
個人的にはでも別に廃墟マニアや廃線マニアでは無く要するに自然の力が強く出た原生林のやうなところへ出向きたいばかりでのことなのだが。
さうか、尾張の詩人さんの場合は何せ元元が文明嫌い、其れもそも人間嫌いなのでソコへボッチでもって行きたいばかりなのか。
でも壱種寂しい人生ですねえ。
いえ全然。
むしろ物凄く豊かな人生航路でしたよ、特に40歳以降は。
其の頃はもうバンバンと大金を注ぎ込み高価な万年筆とかも買って居たのだし其ればかりか掲示板にて作家人生も始まったし兎に角充實した日日を送って居た。
まあ其の高価な万年筆も還暦までに参分の弐程も整理しましたけれど。
じゃあ壱體全體何の為の趣味ですか?
まあ趣味も👩も所詮はそんなものですよ。
所詮其れは其の種の移ろいゆくものでしかあり得ません。
ならば先日仰って居たやうに観念の方が大事なので?
観念もまた大事ではあるが其れもまた本質的には移ろいゆくものでしかあり得ません。
要するに此の世にはそも固定化、絶対化し得るものが何処にも無い。
但し壱神教に於ける絶対の信心を除いては。
でも其れ邪教化のことですか?
いいえ邪教では無くむしろ正当な信心のあり方です。
では其れに近いものが詩人さん、アンタの其の「美への信仰」なのか?
まあとりあえずはさう受け取って置いても良いのだと思う。
何故なら佛陀は其の死の直前に頻りと「此の世は美しい」とさう述べられて居たさうです。
アーナンダよベーサーリーは楽しい
ウデーナ霊樹の地は楽しい
ゴータマカ霊樹の地は楽しい
七つのマンゴの霊樹の地は楽しい
タフブッダ霊樹の地は楽しい
サーランダ霊樹の地は楽しい
チャーパーラ霊樹の地は楽しい。
仏陀の教え-仏陀最後の旅-この世界は美しい、人生は甘美である (buddha-osie.com)より
但し佛陀の説法はあくまで対機説法「対機説法」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書ですので其処は常に注意が必要です。
そも釈迦の認識は壱切皆苦一切皆苦 - Wikipediaから出発して居るので其れが壱切皆樂にはなり得ない筈だ。
個人的には「美」は苦樂を見据え切った上で見詰められる精神のあり方なのではないかと思う。
要するに「美」はまた精神的な段階を示してもまた居て本質として其れは己自身としてまさに其の美を創造して居るかどうかの問題です。
むしろ其の己自身として美を創造し得る心の階梯に置いて初めてそんな造物主による美の世界と呼応することが出来るのではなからうか。
又は其の佛が述べたところでの「美」のあり方と邂逅することが可能となる。
其れがヘーコラ生きてさうして食っては寝て會社へ出てと其ればかりをして居りますと「美」もクソもねえじゃねえですか。
よって美とは、其の神の美とはまた佛の美とは今のアナタが感じて居るやうな美には非ず!
まーた始まった。
また唯我独尊の藝術家モードに入ったな、君は。
いやさうでは無い。
まさに其れはさうでは無くさうである。
ほれまた何を言うとるのかまるで分からん。
さう、其の「分からん」と云う観念の死闘の果ての御花畑に咲くものこそが「美」の本質であり正體なのだ。
うーん、要するに其の観念の上での死闘をやった藝術家乃至は精神の貴族だけに見えて来る世界こそが「美」の本質であり正體なんですね?
まさにさうしたことである。
でもって美はパッと分かるものでありつまるところはむしろ言語概念以前での直感的解釈に属するものである。
すると直観でも無くあくまで直感で?
さう、直観の方ですと其れは眞理規定となり或は永続する性質を帯びるのやもしれぬが直感の方はむしろ限定されし美への指向性のやうなもので其れは現存在が死ねば即消え去るものなのだ。
でも何故か僕は其の両方をイッちゃうので實は其のドチラにも強いんだな。
では早速ながら其の両面者、即ち両面具有者としての「美の追求」の世界を是非以下より展開してみたい。
また壱體何をおっ始める御積もりで?
まさかテロとかデモとかまた文明否定の隠遁生活とか其れを僕等に強いる積もりなのではありませんよね?
まーさか。
要するに「昔我が撮った写眞ー画像ーを以降頻繁に此処に貼り付けて行くから其れでもってして愉しみませう」と云う話だけでのことです。
なあんだ、でもそんなつまらない君の過去の写眞の壱體何処が良いのでせうか?
だから其れこそが藝術なんですよ、僕の其の藝術。
ではまずは御花の写眞でもってイキます。
其れもヤフーフォトの移行データからの画像ですがかって我は兎に角御花が好きで膨大な量の画像がまた此の程出て参りました。
こちらはかって庭に咲いて居た花ですがかうしてなかなかに美しい。
🌸は其処に只咲いて居るだけのものですが其処には決まって人間の心に訴えかける何かがあるものです。
尚ヤフーはかってヘタをこいてヤフーブログなどもああして全滅し其の前にも訳の分からんフォトの移行があったのでしたがでもヤフオクの御蔭でかうして四半世紀程の間に多くの貴重な萬年筆や鉱物標本が得られました。
だからヤフオクよどうもどうも有難う、其れも心より感謝して居りますのです。
ちなみに此れ等の画像は2005年~2015年位の間に撮影されたものがほとんどです。
尚此処でのカテゴリーとしての『美の世界』とはまさに其の画像を中心に展開して行く部分でのものです。
其の多くが当時東京の万年筆の掲示板にて使って居たものである。
故に特に万年筆の画像はクオリティが高いものが多く中にはほとんどプロ級の画像なども混じって居る。
つまるところ『美の世界』とはわたくしに取りあくまで「過去の保存」の場のことです。
ですが其の「過去」の中にこそ美はしかと宿って居る。
また其の失われた緑陰広場の木立とまたさらに大木も我が思い出の中にはしかと宿って居る。
「美」を見詰めることとはまさに其の過去に存した世界の様をこそ見詰めることでせう。
かうして過去は古いだけなのではなくしてさうして常に美しくあっただらうものです。
其れは過去の美化なのでは無くむしろ此の世での美の世界の発掘作業である。
わたくしは昨夜遅くまで其れ等の画像と向き合い其処に何よりも「美」を感じさせられた。
其の「美」は決して失くしてはならないものです。
むしろ永遠に残されてしかるべきものでせう。
またこちらは『萬年筆の秋』と題されしところより選んだ画像です。
ヴィンテージ萬年筆と枯れ葉のコラボ作品であり紅葉した葉っぱは確か何処ぞの公園より拾って来たものです。-おそらくは🏥の横の公園か?-
其のヴィンテージ萬年筆もまた過去形でのものとなるがとどのつまりは現行の万年筆は此れ等時代の遺物にまるで敵わない訳だ。
要するにヴィンテージ萬年筆の方が万年筆としての価値は高いものがあり即ち上なんです。
ところが筆記大衆は其の事を深くは追求しないので分からない=無知なのだ。
だから其の無知の侭では無くちゃんと探究さえすれば其のことが分かるのだがまさに其のことは學問や藝術の分野のことなどにも通じて居るのだと思う。
要するに其処で大衆的に皆でもって「流されたり」、「落ちたり」することを止め自我として独り能動的に學んで行けばまさに此処で本物の「美」に気付けるとさう云うことである。
さうした意味での本物志向での世界観こそがかって我が泳いで来し世界だったのであり其れをすでに過去のものとして蔵入りさせるのでは無くむしろ積極的に白日の下に晒して行くと云うことに尽きて居る。