目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

蟹🍱を食うー春の喜びは其の全てがかうして具象的なものだー

3.春の喜びは其の全てがかうして具象的なものだー性欲→食欲と物欲へー

 

 

 

 

さて天気予報が外れ本日は洗濯などを済ませてから自転車にて蟹屋を訪れました。

 

其処で「かにセイロ」の折壱個と「かにちらし」の折壱個及び「ホワイトロール」壱個を受け取り税込み5143円を支払いました。

其れも参つでもって五千円以上の食いものを自分で買うのは拾年振り位です。

 

何故またあえて蟹屋にて「ホワイトロール」などを買うのだ?

 

其れは僕が甘党だからなのです。

第壱僕はかうして頭を良く使いませう。ー糖分は脳にとっての最大のエネルギー源ー

 

其れは世間の人人に性欲が強くあるのと同じやうなものででも僕の場合には其の性欲其のものが甘党へと変化して仕舞って居る訳だ。

でもって最近はズボンの中へ腹の出た部分を押し込むのが決まって大変です。

 

でもコレは夏場にかけて運動量が増えて来ると簡単にへっこむ腹の出方です。

事實此のところ弐年連続で八月にはズボンがスカスカとなりましたものです。

 

 

其の「ホワイトロール」を食った感想はどうか?

…うみゃい。

 

正直驚きました。

しかもロールの生地の部分が何と米粉!だとのことでした。

 

たとえ米粉でも洋菓子がかうして出来るのですね。

 

 

ところで、またイキナリ何でそんな贅沢をして居るのだ?

いや色色とありつまりは色んなものを解約するとかして出来た金で今だけやってることだ。

 

別に金に余裕がある訳では無論のこと無い。

 

 

「確か弐、参年に壱度は来て居た筈でしたが閉店とはいやあ其れもこんなご時世ですからねえ。」

「また是非お願いします。」

「さうですね、27日までに何とかもう壱度。」

 

こんな日常的な光景こそが實はすでに壊れかかって居ます。

其の壊れて行く様をしかと見詰めることこそが文人の仕事なのではなからうか。

 

故に今多くの作家や詩人、歌人俳人の方方が其其れに色んなことを述べられて居ることでせう。

僕は僕で結局プロの文人にはなれなかったがなんぞものを言う口だけはかうして常に持って居る。

 

ですが僕は結局かうして欲望がダラダラでもってドロドロですので其の食欲の方につい負け食い物ライターの方を今して居るところです。

ほんたうは食い物ライターをやりたかったのか?

 

…是非やりたかったです。

かうして確かに哲學詩人、宗教詩人ではあるが本音のところでは物欲と食欲の方での三文ルポライターなのですから…。

 

うわあ、すっげえ弐極分離だな。

 

 

ところで君の性エネルギーは壱體どうなったのだ?

ごく弱くなって居りまさに風前の灯です。

 

エロ動画を最近は視ない?

視てません。

 

逆に美味いものを食うことに命を懸けて居ります。

なる程、佛法を半分やりつつ半分はやって居ない訳だな。

 

ところが世間はまさに其の「性エネルギー」の塊でせう。

でも「性エネルギー」を噴出させると認識の方が曇ります。

 

つまりは下らぬ抽象的価値の方に認識が捉えられて仕舞うこととなる。

すると世間を壊して行く力とは其の根源的な「性エネルギー」なのか?

 

より正確には世間を壊して行く力でありまた此の世界を創り出す力であり其れを維持して行く力こそが其の「性エネルギー」です。

逆に「性エネルギー」が落ちて来るとさうした生臭い欲望からは解放されより美ー死ーへの感度が高まって来る。

 

 

さう言えばアンタはかって此処で『性の堕落でもって日本は滅びる』とか何とか書いて居たよね。

さうなんです。

 

其れが今壱番若い人人に読まれて居るやうだ。ー其れもスマフォなどから視られて居るやうだー

其れと實践倫理宏正會のことを論じた記事なども結構カルトに人気があります。

 

 

さても其の「性エネルギー」とは悪なのか?

 

今の僕の理解では認識上は悪だが現實上、實際上は逆に善です。

何で認識上は悪となるのだ?

 

おそらくは利己主義をより増長させる方向へと其れが進む為だらう。

では逆に「性エネルギー」が無い程利己主義には陥らぬのか?

 

だって遺すものがすでに無い訳なのだから。

僕が今此の世に遺せるものは此処の内容と物だけですが物は次第次第に処分する積もりなので結局ココー観念ーしか遺らないこととなる。

 

 

さて其の「性エネルギー」のことですが、最近屡思うのは「性エネルギー」が盛んな時には眞の意味でのものが見えて来ない、即ち認識が曇りがちである、つまりは其の「ムラムラ」にてパワーが吸い取られて仕舞い壱種バカにならざるを得ないと云う部分です。

 

イキナリまるで宮澤 賢治のやうなことを言い始めたな。

又は如何にも👩嫌いのショーペンハウアーやカントのやうなことを。

 

いやほんたうにさうなんです。

ですから其の「性エネルギー」は分散化するつまりは限定して置くのが賢い人ー理性的な人ーの生き方でせう。

 

1.中性化する

2.他の欲へと転換させる

 

僕の場合は此の弐点をやることで次第次第に性欲を弱くして行った。

さらに、

 

3.還暦以上の齢となる

 

ことで、自然と肉體的にもさうなって来る。

 

 

じゃあオカマにでもなれば良いのか?

いやTVに出て来るやうなオカマ共は性欲の対象が倒錯して居るだけのことなのでむしろ欲望自體は強い訳だ。

但しマツコ・デラックス - Wikipediaなどは其の性欲の強いオカマでは無くむしろ其の欲が食欲や物欲へと向いて居り其処が意外とインテリジェンスを感じさせるところでもある。

 

だけれども如何にも食い過ぎなのでおそらくは其のうちに死ぬることであらう。

でもカルトチックなマツコの番組は屡我も樂しみつつ見て居る。

 

實は此の1.2.3.の要素が複合的に合わさりようやく其の性欲からの離脱が可能となる程に其の性欲の縛りこそが大きい訳だ。

だから其の欲望から遠ざかりつつある人はむしろ喜んで置くべきだ。

 

だが世間の価値観は決まって倒錯なので僕が此処でかう云うことを書くとまた僕のPCのネット広告でもって精力剤やら何やらのものが増えるのである。

ーおそらくAIか何かが其れを選び広告として選ぶのだらう、だが明らかにこれでは監視社會其のものだらうー

 

 

世間の価値観と云うものはかうして概ね眞理方面とは眞逆なのだから故に其処での認識もまた曇りに曇る訳だ。

其れを逆に何か金科玉条の如くに信奉しつまりは大事なもの、かけがえの無いもの、命に代えても守り抜くものだなどと考える訳だがこと眞理方面から見ればまさに其れぞ全くの茶番劇だ。

 

ではアナタに取り今さうして👩に触らずまた家も墓も地位も名誉も社會にも拘らず其の代わりに「ホワイトロール」だの蟹🍱だのを食うこととまたさらに中國製の万年筆でもって何かをシコシコと書くことだけがズバリアナタの法悦境其のものなのですね?

ズバリ言えばまさにさう云うことだ。

 

其れと常に自然と戯れることだね。

むしろ其のことをこそ大事にして置きたい。

 

 

アンタもしや頭がオカシクないの?

全然オカシクは無い。

むしろ世間の頭ー観念としての価値観ーの方がオカシイ、もうまるで狂ってる。

 

要するに釈迦的に申せば「生臭い」もの程悪なのだ。

逆に申せば「生臭く無い」状態とは「性エネルギー」がむしろ奪還された状態でこそある訳だ。

 

ところが若いうちはむしろ其の「性エネルギー」を資本として今を生きる訳だ。

なので僕もかってはまさにさうであった。

 

ところが其れだと、釈迦流に言えば「認識が曇って居て解脱にはほど遠く」、また我の説としては「認識が曇って居て理性的には生きられて居ない」状態へと必然として陥って行く。

いずれにせよ其の「性エネルギー」は観念的エネルギー其のものへは転換することが出来ない。

 

 

そも、

観念⇔本能

なのだから互いに関係はして居ても本質的には転換することが出来ない。

 

だからむしろ別の欲望へと転換して行くのである。

兎に角我として最近は「ズボンの中へ腹の出た部分を押し込むのが決まって難儀」でもあるので余計に👩にはモテなくなりつつありむしろ其れが目出度いなどとも内心思って居る始末なのだ。

 

さても其の人間の抱え持つ問題、また文明の課題とは其の本能と理性との関係性の課題へと結着するのではないか。

だが言うまでも無くまさに其こそが大問題である。

 

 

ところで蟹🍱の話はさてもどうなったのか。

いや、其の「かにセイロ」「かにちらし」をそれぞれに弐分割し其れでもって壱人前となし母と弐人で食したのであるが其れが至極美味かったのである。

 

即ち共に良いところがあるので其のやうにした方がより樂しめる訳だ。

また流石は料理屋のものらしく至って上品な味付けであり其れも好ましかった。

 

 

でもって其の蟹🍱を本日堪能出来たのはまさに世界情勢ともまた今後の文明のあり方ともまるで関係の無い具象的現實であり實存的現在なのだ。

 

「今に生きる」とはまさにさうしたことなのであらう。

要するに周りには惑わされずに我が道を行くことの方がより望ましく有意義な體験を重ねることが可能なのだ。

 

でもこんな贅沢な食は釈迦の認識に於いては勿論✖なのだ。

だがわたくし流の認識に限れば「性エネルギー」が食欲へと転換されし上での飽食なので其れもあくまで○なのだ。

 

 

ちなみにかの三島 由紀夫先生は蟹料理が大嫌いだったさうである。

でもって實は我もまた昔蟹は壱切食さなかった。

 

神経質な我はアノモジャモジャと生えた蟹の足がまるで蜘蛛の如くに見え兎に角気持ちが悪かった。

僕は多分前世がアゲハ蝶か何かなのでおそらくは太古の昔に其の蜘蛛の網に捕えられ其れでもってアノ沢山足のある嫌らしい生き物が近寄って来て結局ムシャムシャと食われたのである。

 

だから蜘蛛が死ぬ程嫌いだったのだ。

なのだが、四拾位の頃だったか、猿投山を歩いて居たとある日にとても美しい蜘蛛の網を見た。

 

何故か其の頃より蜘蛛其れ自體が、其の醜い生き物自體が何か美しい生き物にも見えて来たから不思議なものだ。

以降特に蜘蛛を嫌うことは無くなり同時に蟹などもまた結構喜んで食うやうになった。

 

其の時我は其の蜘蛛の網の美しさに神の営為としての自然の美しさを見たのだと思う。

 

 

だから最近は家の中にデカい蜘蛛が出てもお構いなしでむしろ嬉しい感じさえもがして居る。

何故なら昔は押し入れに弐米級の🐍やデカい蝦蟇が庭に出る家だったのだが其れ等はすでに絶滅し今出るものと言えばまさに其のデカい蜘蛛ばかりなのだ。

 

嗚呼、其れとヤモリなどもまた良く出たのであるが其れもまた近年減って居るやうだ。

参年前だったか玄関の硝子戸に張り付いたヤモリちゃんの頭を撫でてやった覚えがあるのだが其れ以降出て居らぬやうな気がするのだが果たして大丈夫なのか。

 

 

世間の価値観が倒錯するのはさうした自然の大事さがまるで分かって居らず「性エネルギー」の追求にばかりつまりは人間のことばかりに認識力の大部分をむしろ取られて居る部分である。

其れと残りの認識力を世界情勢や経済発展へと振り向けて居たりもする。

 

其れも僕に言わせるとまさにさうしたところこそが「曇った認識」であり「倒錯せし認識」なのだ。

だからむしろ正しいのは養老先生や我のやうに「性エネルギー」をカットして自然と戯れる感覚を是非培うべきなのだ。