目覚めよ!

文明批判と心の探求と

ダム化と同時に葬り去られた「野の師父」ー映画『ふるさと』を視てー

尚私には其の母親の藝術的に飛んでる気質と父親の公僕的眞面目気質が共に流れて居るものですから其の二元対立の部分でずっと悩んでも来て居た訳です。

其ればかりか私は女性的に感性が細かく現實的な処理能力が意外にある。

 

なのですが他面で非常に観念的であり論理的に現實を見捉えて行くことが常に出来る。

つまり私は両刀派だったのです。

 

ただ、其れは周りの女性にもまた男性にも分からぬことです。

實は自分でも其の事を全く気付けずに居た。

 

ようやく気付いたのは五十五位からのことです。

ですが私は所謂オカマタイプでは無く見た感じではタダの汚いジジイです。

 

なのでまさか此の人が藝術に親しみ生きて居る人だとは周囲はまるで思わぬ訳だ。

 

なんですが、實は其の小汚いオヤジこそがまさに詩人だったのですね。

詩人はさうしてもうなりふりなどを構っては居られません。

 

 

詩人はもう人類絶滅のことで頭が常に壱杯でほとんどギリギリの状態なのだ。

なのでむしろ其処に努めてボケを入れて居ります。

 

即ち賢治や中也やかの北村 透谷のやうに早死にしたくは無い。

詩人はかのボードレールの如くに頭の中と生活其のものがぐちゃぐちゃになりたくは無い。

 

詩人はアノゴッホのやうにピストル自決などしたくは無い。

 

でもゴーギャンの場合は上手いこと逃げましたね。

其れはゴーギャンに現實感覚としての何かがあったからなのでせう。

 

 

兎に角詩人とはまさにとんでも無い職業ですので其処では何が起こるものやらまるで知れたものでは無い。

 

第一ヴェルレーヌは何でまたランボーをあんなに好いて居たのでせうか?

ランボーを我がものとしたのであればヴェルレーヌはもう天國へ行ったも同然だったのだらうか?

 

でがヴェルレーヌはむしろ美しくは無い👨なので其のオヤジに好かれたランボーはおそらくイヤでイヤでたまらなかった筈なのです。

まあかうして詩人とは昔から皆癖が強くまるで訳の分からぬやうなレヴェルでの感性の保持者達のことです。

 

でもたとえばマラルメの場合などは元教師ですので滅茶苦茶では無い訳だ。

マラルメはさうして學匠詩人であり或は西脇 順三郎などとも重なる部分があるのやもしれぬ。

 

ですがマラルメの詩の世界こそがまさに観念的な詩世界で壱般的には至極難解だともされて居ります。

但し個人的には難解だと思ったことなどは壱度も無い。

 

 

さうしてマラルメの詩に運命的に引き寄せられて行ったのは中学~高校時代のことでした。

マラルメの詩の観念性に於ける難易度の高さは其の中学~高校に於ける國語教育の枠をはみ出して居り、其れでもって彼の詩が國語の教科書に載ることなどはほぼ稀なことです。

 

ですが賢治の「雨ニモマケズ」は戦後修身の象徴であるかの如くに取り沙汰されこぞって國語の教科書に載った訳です。

なんですが、アレは實は詩では無く賢治の手帖に書いてあった只の走り書きでの願望なのです。

 

 

雨ニモマケズ

風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク

決シテ瞋ラズ

イツモシヅカニワラッテヰル

一日ニ玄米四合ト

味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ

ジブンヲカンジョウニ入レズニ

ヨクミキキシワカリ

ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ䕃ノ

小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ

東ニ病気ノコドモアレバ

行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ

行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ

行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

北ニケンクヮヤソショウガアレバ

ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒドリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボートヨバレ

ホメラレモセズ

クニモサレズ

サウイフモノニ

ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩

南無上行菩薩

南無多宝如来

南無妙法蓮華経

南無釈迦牟尼仏

南無浄行菩薩

南無安立行菩薩

 

【5分でわかる】宮沢賢治『雨ニモマケズ』の全文と解説・感想|ぶくらぼ。~books laboratory~ (books-laboratory.com)より

 

 

雨ニモマケズ」論争

太平洋戦争前から戦中にかけて賢治の研究・紹介を行った哲学者の谷川徹三は、主としてテーマ的な側面から本作を高く評価し、賢治に対する「偉人」的評価の象徴として本作を捉える流れを先導した[3]。これに対して戦後、賢治の置かれた社会的立場と文学性を踏まえた評論を行った詩人の中村稔は本作について「ふと書き落とした過失のように思われる」と評し否定的な立場を表明する[4]1963年、谷川が雑誌『世界』に寄稿した「われはこれ塔建つるもの」の中で中村の論考を批判、中村も『文藝』に反論「再び『雨ニモマケズ』について」を掲載したことから、世間ではこれを「雨ニモマケズ」論争と称した[5]。それぞれの内容は同年刊行された両者の単行本(谷川は『宮沢賢治の世界』(法政大学出版局)、中村は1955年版の増補改訂となる『定本・宮沢賢治』(七曜社))にも収録された。この「論争」は賢治の作品の受容においてどの点を重視するかという差に帰するものであり、研究史の上では(個々の著作自体の意義とは別に)積極的な意義を持つものではなかった。中村は2012年に刊行した回想録で「不毛な論争だった」と述べている[5]

 雨ニモマケズ - Wikipediaより

 

さて其の谷川 徹三氏こそが谷川 俊太郎氏の父君です。

結論から申しますと、「雨ニモマケズ」は詩では無くむしろ賢治が自らの人生を負け戦だったと認め其れを悔いむしろかうして生きるべきだったと云う其の願望をこそ述べた書き付けのやうなものだ。

 

ところが、其の内容がむしろ日本の共同体の維持、即ち体制維持の為に+の面があるが為に素晴らしい詩だと云うことにされて行った訳だらう。

また其れを主導して行ったのが其の谷川 徹三氏による本作への評価であった訳だ。

 

だから要するに体良く其の無私の奉仕、其れも共同体、または國家への滅私奉公のやうな論理へとすり替えられた不幸な詩の例なのだと今でもわたくしは理解しております。

 

只此の「雨ニモマケズ」の解釈もよーく其れを読みまたよーく考えておかないと色々とおかしいところが出て来るものとまた思われる。

 

1.此れは賢治の人間としての理想を述べたもので共同体や國家の維持の論理とはまた別物であること

2.實は雨にも風にも負けずに仕事したり人助けすると云うことでは無く、雨にも風にも負けぬ丈夫な體を持ちたいとあくまで詩人はさう述べていること

3.第壱此の賢治にとっての理想の人間像はむしろ共同体や國家にとり有害なものである点

 

 

賢治はさうして晩年に體を壊し結局結核に罹ったのです。

其れは詩人は大抵観念に生きさうして心を疲弊させるものであり必然としてさうなるのです。

 

だから其れはまさに運命なのだったが、何か他の生き方をすれば其れが避けられたかもしれぬ部分に就き彼は其れを手帖に書き付けて居たのです。

 

ですが其の「理想像としての賢人」とは「丈夫な體を持ち欲は無くまた決して瞋らずいつも静かに笑って居る」仙人のことだらう。

さて果たして此の人は仕事をして居ますか?

 

さて果たして此の人には例えばコロナにまみれるやうな社會的に齎される苦難が与えられて居ますか?

つまるところ其れは賢治によるあくまで観念的な意味での人間の理想像なのであり逆に申せば現實的な意味での人格などでは決して無くまた現代人にとってもまるで役には立たぬ人物像のことであるに過ぎぬ。

 

 

賢治はむしろ前近代的な人格による菩薩行の實践に就き此処で述べて居る訳です。

其の前近代的な人格による菩薩行の實践は然し現實的には決して成らぬものです。

 

何故なら近代的世界其のものが菩薩行の實践にはまるでそぐわぬ自我闘争の歴史世界其のものだからなのだ。

 

ですが、私は此の賢治によるいまひとつの理想像を評価し且つ尊敬します。

何故なら此の「理想像としての賢人」は社會の動きとは無関係にさうして己としての価値観を實行に移して居るからのことです。

 

つまるところ其れは「デクノボー」として基本的には社會の役には立たぬことだらう人格のことです。

即ちオリムピックでのやうに其処で力を競い優劣を決めること、またグローバル資本の荒波の中で揉まれ且つ其れに打ち勝ち大金を儲ける大企業となることなどとはむしろ対極での価値観のことです。

 

 

要するに放棄です、放棄。

其れも理性的放棄の様であり理性的懈怠の様なのでもある。

 

さうして放棄しますが賢治の場合にはあくまでさうして出来る形での他への「お役立ち」の様を盛り込んで置く訳だ。

まさに其の部分こそが大乗佛教に通底するところでの「利他行」としての流れのことです。

 

ですが、此の種の人種こそが近代的な合理化の波、即ち近代合理主義による世界観の確立の中に死滅させられた訳だ。

 

 

尚私の父は八人兄弟の末っ子でもって家を継ぎました。

そのうちの弐人は戦争でもって死んで居ます。

ですが壱番上の兄が我我が子供の頃良く家へ来て居ました。

 

其の方は我我子供に対し「いつも静かに笑って」居り「ほいほいー」とか言いつつ家の庭の草取りなどをして行かれたものだった。

 

ところが定職が無くごくたまに公共施設の草取りや人夫仕事にでかける位のことです。

其のまさに惣領の甚六の方こそがまさに賢治がかって思い描いたところでの「理想像としての賢人」=「野の師父」としての人だったのやもしれぬ。

 

實際に以降はこんな人を見たことは無かった。

 

其の人間の理想像としての伯父さんはしかし周りの人々には概して評判が悪かった。

何故ならさうしていつもブラブラして居て道端でオシッコなども平気でするからです。

 

ですがわたくし共子供には其の伯父さんが所謂良い人であることはしかと分って居た。

なのですが近代的な秩序世界では其のデクノボー振りなどまるで評価されはせぬ訳だ。

 

 

尚伯父さんの娘である従姉ー今七拾代ーはそんな父親が嫌で嫌でたまらず、其れでもって家の父の力で公務員となりしかも仕事がデキる男をつかまえ子が出来ると英才教育を行い結局全日空パイロットに仕立て上げました。

まあ其の全日空パイロットも今は大変かもしれませんので結局其の伯父さんの方の生き方が悪いとは言えぬ訳だ。

 

其れでもって今私が思い出しますのは決まって此の伯父さんの「ほいほいー」であり「いつも静かに笑って」居る其の笑顔だけなのです。

まさに實存としてさう選択されたところでの其の「ほいほいー」であり「いつも静かに笑って」居る其の笑顔なのだった。

 

最終的には、さうした「頑張らぬ」生の方にこそ価値的な實りが生じて来やう筈だ。

逆に申せば「頑張って」得る価値はむしろ虚的に社會が幻想するところでの価値とならざるを得ぬことだらう。

 

まさにそんな意味に於いてわたくしは賢治の思想に共鳴し且つ尊敬の念を抱きます。

なのですが現實的にはあくまで伯父さんの家は火の車で伯母さんは兎に角常に何でもやり稼いで居なければならなかった訳だ。

 

 

でも其れで良いのではないだらうか?

何故なら👩は働くのに如何にも向いて居りませうから。

 

ですが近代以降のやうにかうして🚹をこき使って来るともはや皆消耗して其れこそ皆役立たずとなるのではないだらうか。

何故なら🚹は皆浪漫派ですので浪漫が生きられぬやうにしないと次第次第に腐り始めて仕舞います。

 

さても明治維新も世界大戦もまた経済成長も皆其の浪漫の追求には恰好の場では無かったのか?

壱部の男性にとっては確かにさうなのだが父方の家の系統は革命だの戦争だのが大嫌いですのでむしろ常に「ほいほいー」であり「いつも静かに笑って」居たい訳だ。

 

つまりは其れが浪漫だ、其れも「野の師父」としてのマイナスとしての浪漫の追求なのだ。

 

 

なる程、すると「逃げ」もまた一つの浪漫なのだと云うことですね?

さうだ、實際「逃げ」程良い浪漫の持ち方は無い。

 

何故なら近代的価値はイザ其の虚としての皮を剝げばもはやみられたものでは無いことだらう。

其れはな、丁度アノ👩共の化粧と同じやうなものだ。

 

ほんたうは不細工の癖にさうして上手く塗りたくり誤魔化すから其れに騙されて我我はつい触ったりもするものだ。

だが御日様に照らし出してみたところ化けの皮が剝がれ、うわあー壱體何だコレはほとんど化け物ではないか!

 

其の正視するに耐えぬ化け物からも逃げる?

さう早う逃げぬと君達はまさに本質的に骨抜きにされて仕舞うことだらう。

 

 

さて、其れでは丁度頃合いが良いので此処としての夏休みの最後の課題を出して置かう。

 

 

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今すぐに此れを視、其の感想文を夏休みの終わりまでに書いて置かれたし。

先生は此れを昨日視たがまさに素晴らしい、如何にも夏休みらしい映画であった。

 

此処に爺が出て来るが其の爺こそが其の「野の師父」としての前近代的賢人像其のものだ。

其の「野の師父」は結局滅ぶ。

 

つまりは死を迎える。

だが爺は孫へと其の価値観の壱部を伝える。

 

 

徳山村はさうして名古屋や三重の諸都市の為にダム湖の中に沈む。

大都會名古屋そんなクソ垂れの為に美しい自然がかうして壊されて行くのだ。

 

いや、其ればかりには非ず。

 

しかも其のクソ垂れの親分級である東京とアノボケクソ垂ればかりでの大阪が常に悪さを重ねて来てもおる。

此れ等の糞垂れ共の為に自然はさうして蹂躙されしかも役に立たぬ賢人はさうして葬り去られやう。

 

 

ー揖斐川の上流部、徳山ダムの建設でやがて湖底に沈みゆこうとしている岐阜県揖斐郡徳山村(現揖斐郡揖斐川町)を描く。徳山村の出身で、同地で分校の先生をしていた平方浩介の著書『じいと山のコボたち』(童心社)を映画化したもの。痴呆症の老人と少年の親交を描きながら、消え行く徳山村の美しい自然を表現している。文化庁優秀映画奨励賞など多数の賞を受賞し、主演の加藤嘉モスクワ国際映画祭の最優秀主演男優賞を受賞した。ーふるさと (1983年の映画)より

 

個人的には其の加藤嘉氏の演技がまさに其の伯父の「ほいほいほいー」とどうにも重なって仕舞い懐かしいこと此の上無かった。

 

また加藤嘉氏は此の映画を撮り終えて五年後に實際に死んでもおる。

其処からもまさに素晴らしい演技と云うか演技を超えた老いと云う迫真の力だったのではなかったか。