目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

『ふるさと』と名古屋論と資本主義批判の本に就いて

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『ふるさと』は評価の高い映画であり評価の高い邦画のDVDはかうして概して高価である。

 

ー昭和30年代徳山ダムの建設が計画され、徳山村は全村が水没することを知る。個人的にはダム建設に反対であったというが、「国がやろうと思うことは戦争もダムも必ずやるから、反対するのは大河に蟻がさからうようなもの」としてこの事実を受け止めた。

その後は徳山村の記録を残したいという思いから、当初はテープレコーダーで村の行事や生活音を録音し始め、1977年(昭和52年)10月10日徳山村運動会から写真を撮り始め、消え行く村の人々の表情、四季、自然、家、建物、風景、祭り、風習、民俗など、ありとあらゆるものを撮り続けた。写真を撮り始めた理由は、「もし夫が帰ってきた時に村が無くなっていたら説明のしようがない」と考えたことからで[3]、写真集にも同じ趣旨の記述が見られる[5]。村が廃村となった後も、最晩年まで転居先の岐阜市内から徳山村へ通い続けた。徳山村を舞台にした映画『ふるさと』(神山征二郎監督、1983年)にも出演している。

生涯に撮影した写真は8万枚に及び、没後には10万カットに及ぶネガと600冊ものアルバムが残された[3]。写真集『故郷-私の徳山村写真日記』(じゃこめてい出版、1983年、絶版)『ありがとう徳山村』(影書房、1987年、絶版)『増山たづ子 徳山村写真全記録』(影書房、1997年 ISBN 4-87714-239-8)等を出版し、全国各地で写真の展覧会を開いた。ー増山たづ子より

 

「国がやろうと思うことは戦争もダムも必ずやるから、反対するのは大河に蟻がさからうようなもの」

まさに左様で國乃至は文明がやることはやると決めれば結局やるのであるから止めさせられやせぬものだ。

しかしながら國乃至は文明がやることは大抵は近視眼的な利益享受の為のことであり其処には熟慮もまた哲學もまるで無いが故にかうして誤ったことをして仕舞う訳だ。

 

従って廿世紀に地球を壊し続けて来たのは誰あらう、其の権力のある人間様側の方だ。

で、其の其の権力のある人間様側の方にこそまさに熟慮が足らぬ傾向即ち如何にも頭が悪いと云う癖があるもので結局文明は滅んでみるまで何も変わりはしない訳である。

 

 

もしも今上陛下に明治憲法が規定して居た如き統帥権のやうなものがあるのであれば自然が大変お好きな陛下のことであるから或は徳山村ダム湖には沈めなかったかと思われるのだがしかしながら國家の発展の為には大都市部による経済活動を是非支えねばならず、其れでもって結局は沈めたくは無いのだが沈めねばならぬと云うまさに其の矛盾的な特攻の論理のやうなもので結局は日本の里山の森もさうした論理にて次第に杉林ばかりにされて仕舞った訳である。

 

其れでもって結局は、

訳に立つ仕事=自然破壊へと直結する仕事⇔役に立たない人=自然を大事にして生きる無能者か又は理想論だけに生きる左翼

 

とのこととなるが、其処は矢張り長期的視野に立てば明らかに自然の破壊はやらぬ方が良い訳だ。

だが我我日本人はいや日本の政府は特に戦後自然の保持、保全よりも開発の方に重きを置き進んで来た訳だ。

 

ではあるが此れ迄にも特定の人々は其の価値観をこそ改めるやうに主に藝術の分野などで其れを訴えて来て居た訳だ。

 

藝術は矢張りと云うべきか直観的に価値を構築する分野なので金まみれー利権絡みーだのまた國や自治體の都合などで自然を壊してはならぬこと位は分かって居るのである。

また宗教も間接的にではあるが自然を大切に扱う姿勢を貫いて来た筈である。

 

だが壱番自然をないがしろにし其れを破壊し続けて来たのは誰あらう、其の國を豊かにする為の経済発展を支える為の國策である。

左様に自然破壊のほとんど全ての原因をまさに資本主義社會が齎す儲け主義が牛耳って居る訳だ。

 

また其れと連動する形での科学技術によるより進歩した価値構造こそが其れを担う訳だ。

故に其れは國家がまた自治體がさらに近代と云う進歩がつまりは人間社會其のものが齎した破壊であるより他は無い。

 

 

そんなおかしな価値観に洗脳されみんなでもってさうして悪をやる即ち赤信号をあえて皆でもって渡れば早晩地球は壊れ次第に最低限の食事さえをもとれなくなるのであらう。

其れはさうした抽象的な利益にばかりかまけて眞に大事なものの価値をすでにまるで見失って居るからである。

 

其の中でも最悪の倒錯上の価値観が國家間の経済的科学的競争原理であり所謂進歩主義の履行である。

 

其のやうなことをしたにせよそれでは國家の見栄がよりデカくなるだけのことで人類の幸福に資することなどには決してならぬ筈だ。

だからまずは其の國家に於ける認識論のあり方がまるでダメであり其ればかりか大間違いばかりなのだ。

 

 

三遊亭多歌介さん、54歳コロナ死去 (msn.com)

ワクチン打たぬとかうして死ぬ?

だがワクチンを打ちたくない。

 

 

さて今回は我と云う名古屋人によるカルトな名古屋論を是非展開させて頂きたいと思う。

 

1.私はかうして変わり者ですが其れは名古屋人としては非常に珍しい部類でのキャラクターである点

2.私にはかうして発信力もあるのですが、其れも名古屋人としては非常に珍しい部類での表現力である点

3.名古屋人は地道で大人しく体制に順応的である点=眞面目な人が多い点

4.名古屋人は其の多くが第弐次産業従事者であり🏭に勤める労働者である点

5.対して第壱次産業従事者もまた多く農産物の収量が可成に多い点ー愛知県としてはさうー

 

つまりは仕事にかまけて他の地域のことなど気にして居る暇が無く日本の戦後の経済成長を其の土台より支えて来た訳だ。

体制に順応的ではあってもさうしてブルーカラーの労働者が多いから元々左派地盤でありだけれども体制に対する批判力には常に欠けて居る。

 

ー「金のシャチホコ名古屋弁B級グルメ。名古屋は突っ込みどころがメジャーなので、ネタとして面白い」と週刊プレイボーイの松丸淳生(あつお)副編集長は言います。「名古屋は豊かな土地柄。他の地域と違って、たたいてもいじめではなく『いじり』で済みます」とも。読者の評判は上々だったとか……。ー「名古屋嫌い」真相はこれだった…「本当の田舎ならシャレにならん」より

其のB級グルメ説にはとりあえず反対して置きませう。

味噌カツもひつまぶしも壱級グルメたり得るなごやめしです。

また以前述べたやうに三河湾産の車海老を使った🍤はむしろ特級グルメです。

逆に蕎麦だの饂飩だのあんなものは美味いものでも何でもありません。

 

仰るやうに名古屋は豊かであり其れは昔からのことであり其の分危機意識のやうなものには欠けて居る。

だから私のやうに「危機だ、危機!」などと毎日のやうに叫んで居る人を自分の他に知りません。

また如何にも鈍感でせう。

大衆的鈍感さとでも云うのかそんなものに寄り掛かり日々を過ごして居るので無事其の日が終われば其れで良いのです。

 

ですが、こんな私のやうな人間もまた出る訳ですから所謂「天才」が出易い地盤でもまたある訳だ。ー凡人⇔天才 つまりは凡人が多いのでむしろ天才が出易いー

だからナメてるとまたどんな人間が出て来るものやらまるで分かりませんよ。

 

其の『いじり』ですが、もう止めた方が良いことかとさう思いますよ。

何故なら東京だの大阪だのの實質上の優位性は其れは単なる幻想です。

先に示しましたやうに東京の文化も大阪の文化も結局は家康公と秀吉公の遺産以上のものでは無い。

だから文化の親をいびるだなんて、そんな空恐ろしいことをして居たら其れこそ東京にも大阪にも罰が当たりませう。

 

ちなみにかって名古屋をいびったタモリは如何にも悪ですが早大弐部中退なのと地学に詳しく石のことを何でも当てる博識者ですので個人的には許します。

 

ー本人曰く、幼少時代より大人びていて、「偽善」という言葉を知っていたと語っている。幼稚園入園時期が迫り、とある園に見学に行った際に「ギンギンギラギラ夕日が沈む(童謡『夕日葛原しげる作詞室崎琴月作曲)」を両手を回転させてお遊戯している園児らを見て、自分には出来ないと入園を拒否したというエピソードがある[11]

小学校入学に至るまで、毎日、一日中坂道に立って人間観察を行っていたことから[12]坂道好きとなり、後に「日本坂道学会」を設立している。ータモリより

 

ーうーむ、まるで私と同じやうな人だったのですね。

特に其のみんなで御遊戯が出来なかったと云う点が。

ちなみに私は御遊戯の時に独り倉庫で寝て居ましたものです。ー

 

尚虚的幻想は近代文明の凋落と共に次第に露呈されても来ませう。

 

そんな折にはむしろほんたうに東京や大阪の虚的価値が崩壊し中部圏に首都が移る可能性もまた御座りませう。

なんですが、名古屋人は「足るを知る」お利口さんがおそらくは多いので其の虚的価値構築としての同じ轍を踏むことは無いでせう。

 

ー「住んでいる人が街の良さに気づいていない」
「もっと地元が自信を持たないと」
「東京や大阪に劣等感を持ちすぎ」
「東京で流行しているものに飛びついているだけじゃ、面白くないと思われてもしょうがない」ー「名古屋嫌い」真相はこれだった…「本当の田舎ならシャレにならん」より

 

 

地元に自信を持つ=自意識過剰⇔地元に自信が無い=自意識の放棄

名古屋人は其の自意識を放棄して居る分目立たぬ訳ですが實はしかと頭の中で計算して居ります。

 

其のソロバン勘定が意外と得意で、實はなるべく東京や大阪にやらせて置き自分等は樂して生きやうとさえ思っております。

ところがあくまで労働者なので最近は資本主義が壊れかけて居り従って以前ほど樂では無く其れでもって毎日朝も早うから工場へ出向き深夜遅くまで働きもう後は家で寝るだけです。

 

つまり、東京や大阪にやらせて自分等はあえて其の陰に隠れ豊かさや住み易さを目一杯に享受して居たのです。

要するに其れを利己主義と言うのですが、實は其れが利己主義では無い。

 

何故なら名古屋圏はかうして戦後キッチリ日本の経済を支えて来たからなのです。

 

ですので名古屋人の批判力は是非眠らせておくべきです。

でないとわたくしのやうな人間が次々と出てまさに言いたいことを言い出す訳ですのでもはや都市圏の序列としての体裁が壊れて仕舞うことだらう。

 

で、信長公はむしろ私の性格に良く似て居り其れでもって時折我もドカーンと爆発したりもする訳だ。

つまるところ信長公を生き返らせては決してなりませぬ。

 

正直なところ、名古屋圏はまた三河はまさに住み易い良いところです。

ですが近代文明としての本質的課題が今此の地をも蹂躙しつつある。

 

 

ー「観光って名古屋が一番苦手な分野です。こういう調査結果で悪い結果が出てしまうのはある程度仕方ない。名古屋には地元で生まれ育ち、大人になっても住み続ける人が多い。もし『住みやすさ』といった評価項目があれば、結果は違っていたかもしれません」ー「名古屋嫌い」真相はこれだった…「本当の田舎ならシャレにならん」より

――見どころがまったくないとは思わないのですが、なぜ観光が苦手なんでしょうか
「元々、製造業で潤ってきた地域です。観光で稼ぐ必要もそんなにないし、アピールしなくても困らなかったという背景もあるのではないでしょうか」ー「名古屋嫌い」真相はこれだった…「本当の田舎ならシャレにならん」より

 

かやうに名古屋人は遊びや文化にはほとんど浪費をしません。

私は其処を「眞面目」だとさう捉えた。

 

ですが、我は其の反対で遊びや文化にだけお金を使います。

但し観念的にはあくまで私も生眞面目です。

 

さても眞面目な土地程住み易いものです。

また名古屋や豊田のやうな都會から離れれば山や海もあります。

 

さて其の「観光」に就き私は今カルトな追求をして居る訳だ。

其の眞面目な愛知県には實は不眞面目なカルト観光スポットが沢山ある訳です。

 

 

でも文化的放棄の姿勢から其の面白さが全國的に伝わらなかった訳ですのでかうして名古屋の壱文人として今まさに其れをレポートして居る訳だ。

 

名古屋は…名古屋は残念ながら矢張り東京や大阪に次ぐ大都會です。

だが私は其の都會こそが嫌いなのだ。

 

だからカルトな観光巡礼をして此の大都市に住んで居ることをなるべく忘れ去りたい訳だ。

 

 

ちなみに私は本日「資本主義の終焉と歴史の危機」水野和夫著と云う本を読み返してみたところです。

其の水野 和夫氏は愛知県人でもって県立旭丘高校ー県立のNo.1校ーから早稲田大學へ進まれ経済學者となった方です。

 

さて此の書を再読した感想ですが、全く凄い本だと云う他は無い。

特に資本主義社會に対し疑問を持たれて居る方には御勧めです。

 

此の本を読むと其の資本主義の動向、其れも八十年代から現在にかけての資本主義に於ける迷走振りがまさに手に取るやうに分かって来ます。

また著者は其の資本主義の暴走振りの部分を近代と云う歴史的認識から捉えられて居り其れも概して否定的な見解を其処に持たれて居る。

 

尚今私は我我の生活また未来をかうして追い詰めて来て居るのは資本主義其のものだとさう結論付けて来て居ます。

 

 

勿論神佛に対する信心や自然に対する畏敬の念に欠けて居ることもまた事實なのですが、結局現代社會を追い詰めつつあるのはさうした抽象的理念では無く資本の論理が齎すところでの具象的な不足なのではないか。

ですので最終的には神佛に御縋りする他は無いのではあるが其の前に果たして何でこんなんなりましたか?と云う部分を問うて行かぬ訳には行かぬことだらう。

 

其の近代社會と云うものは人間の観念が生み出したところでの抽象的構造物です。

そんな抽象的構造物には誤りの部分がどうしても出る。

 

其れは元より人間の理性と云うものが完璧なものでは無いからです。

だったら其の誤りを認め速やかに其れを廃棄せよと云うことなのでもまたある。

 

 

さて最初に述べました徳山ダムでの問題も結局は其の資本が生み出す矛盾の問題へと還元されて参ります。

資本主義がさうして自然を壊せば壊す程に實は特定の都市部は潤いむしろ我我都會人は其の便益を長きに亘り享受して来た訳だ。

 

ですので私はまた九月から其の資本主義と闘って行く所存です。

何より其れは元塾講師としての闘いなのでもまたある訳だ。