目覚めよ!

文明批判と心の探求と

科学よ一度位は是非地獄へ堕ちよー新実在論と科学に対する論考ー

尚最近わたくしは今回のコロナ禍其のものが限度を越へて肥大化した資本主義による欲望の追求の所産であるとさう結論付けるに及んで居る。

まさにさうした抽象的に追求する人間の価値が自然に対し暴走を齎し此のやうな結果を招くに至ったのだ。

 

而して其の抽象的に追求する人間の諸価値を断ずることは容易なことでは無ひ。

我我への洗脳はかくの如くに大規模に且つ広範囲に及び其れに気付き自ら背を向けることは容易では無ひ。

 

とは言へ、其の一方には具象的に展開される現實がしかと拡がって居らう。

さうして日々生活に追はれ、労働に明け暮れ、まさにヘロヘロになりつつも不細工に此の世を生き抜いておる其の現實がだ。

 

 

一体おまへらは馬鹿か?

…馬鹿だと言はれやうがどうされやうがかうして生き抜ひて行くより他御座りません。

 

おまへのやうに作家気取りで威張ってなどは居られぬ。

 

第一おまへの作家はウソの作家ではなひか。

つまりはウソコキ作家、ウソコキ詩人其のものではなひか。

 

其のウソの作家、ウソの詩人を長々と演じて来ました、どうもどうも御免なさい。

 

 

で、一体何を書ひて居たのだっけ。

 

 

つまるところは其の具象其のものの美に気付け。

 

具象的、具体的な生のあり方にこそ開眼せよ。

其れは「今」に生きろとさう云ふことなのか?

 

禅宗の御坊様などがそんなことを仰って居ますがまさに其のことなのでせうか。

 

だが其の「今」が實は二元分裂しておる。

 

ネット世界を確立したりグローバル資本主義イチローに198億円を与へるのがまさに抽象的な今だ。

 

👩に飛び付く今は逆に具象的な今だ。

 

では👩に飛び付くのは〇なのか?

 

まあ本能だからな、まだしも罪が少なひ。

 

が、抽象的に構築される性欲は須らく✖だ。

 

だから不倫やAVまたレイプの類は須らく✖だ。

 

 

では抽象的に構築される食欲も須らく✖なので?

 

さうだ、なるべく自然其のものを喰らった方が良ひ。

たとへばキュウリならば丸齧りが良ひ訳だ。

 

魚もまた生でもってバリバリと齧るのだ。

 

では抽象的に構築される文明は須らく✖なので?

 

さうさな、文明もなるべく生でもって齧って居る方が良ひ。

だから立ち小便と野糞をやる権利を是非人間に保証して置かねばならぬことだらう。

 

段々話がおかしくなって来て居ませぬか?

 

さう言へば何やら少しだけさうなのかな。

 

 

具象物其のものの美に気付くこと、おおまさに其れこそが大事なことよ。

加工しなひものの美、あるがままの美、完璧なる調和としての美、そんな事實としての美。

 

そんなファクトがまるで織り成される布の如くに其処に積み重なって居る。

 

ファクトとは實存である。

 

實存とは實在するものでは無ひ。

 

でも其処には在る。

 

何故有るか?

 

現象するが故に有るのだ。

 

 

世界は遠くてまた近ひ。

世界は有りしかも無ひ。

 

光は影に寄り沿ひ

👨と👩もまたさうして寄り添ふ

 

其処ではまさに永遠の孤独と永遠の統一がゴタ混ぜになってる。

 

光其のものが矛盾で、即ち其れは粒子であると共に波である。

 

 

いや、其れは矛盾ではなかったのだ。

人間は其れを矛盾だとさう見做したが光の側からすれば断じて其れは矛盾で無ひ。

 

だから其の矛盾は人間の観念がさう決め付けて居る。

分別と云ふ認識の価値の上で其れをヒエラルキー化して居る。

 

なので其処に永遠のアンビバレンツが組み上がるのさ。

 

 

でもわたしゃあ頑張ってますよ。

かうして八十過ぎまで労働し金を稼ひで来ました。

 

第一拾萬を稼ぐのも其れは其れは大変ですよ。

アンタみたく偉さうにオレは文人だーなどとはまさか言ってもおられませんので。

 

可愛ひ女房と子等の為に死にもの狂ひでやって来て住宅ローンだって月に廿萬円も払はされて来た。

 

それじゃあ一言、そんな下らねへ生活なんぞもう止めちまへ!

 

 

さて、此の処マルクス・ガブリエル氏が「個は無ひ」また「世界は存在しなひ」と述べられて居ることに就き考察を進めて来て居た。

 

個ー主観、主体ー⇔世界ー客観、客体ー

 

なる程、さうか、だから個が無ひのと世界が無ひのが対概念なのだな。

 

と云ふ二元論にて解釈してエエのかどうかは分からぬがとりあへずはさうしたことだ。

 

ですが、さうなると如何にも其れは唯識論的な解釈でもある。

 

 

または相対分別による解釈のことでありいずれにせよ其れは佛教哲學に於ける考へ方に必然として擦り寄って行かう。

 

 

ーまず世界について取り組む伝統的な考え方として形而上学というものがある。形而上学とは世界全体についての理論を展開しようとする試みのことで、いわば世界を発明した考えかただと言ってよい。しかし人間の視点がなくても成立する世界観であるから、対象の諸様相がそれぞれあることのリアリティを考えられないのが欠点である。

一方、形而上学より後にあらわれた哲学者カント以降の考え方である構築主義は「人間から見た世界」についての理論である。「事実」は存在せず、重ねられた議論や科学的な方法でもののあり方は構築されるという考え方だ。しかし、この考え方では構築が対象とする1つのものの実在感を考えられず途方に暮れてしまう。

これらの問題を解決しようとするのが新しい実在論である。新しい実在論は第一に「わたしたちは物及び事実それ自体を認識することができる」、第二に「物および事実それ自体は唯一の対象領域にだけ属するわけではない」という命題からなる。ー

要約「なぜ世界は存在しない」のかより

 

 

わたくしの理解では其の形而上學とは理性的限定でさらに其れを理性的に限定したのが構築主義なのです。

でもって必ずしも其の理性的限定を否定するものでは無ひ。

 

元より概念的理解は矛盾を生じせしめ其処に絶対的な結論、絶対的な解を導き出せるやうなものでは無ひ。

何故なら其の認識其のものがすでに自己矛盾の産物だからなのだ。

 

以前よりわたくしは述べて居ますが近代と云ふ思想には誤謬乃至は矛盾が含まれて居り其れでもってこんなんなってます。

なんですが、其の近代が開闢せずばおそらく人類はとうの昔に滅んで居たことでせう。

 

近代とはさうした意味での人類の存亡を賭けた闘ひの選択でした。

 

では一体何と闘ったのか?

まあ人間の中の理性と獣性との闘ひであったことでせう。

 

獣は皆そこいらでもって小便をたれウンコも垂れます。

でもダメでせう、其処は。

だからちゃんと猫砂の入った🐈便所で其れをやりなされ。

 

またのべつまくなしに♀にも飛び付きませう。

 

みんなや読者の方々、またわたくしの場合は便所へ入りますのですしまた街を歩ひて居る👩共には普通は飛び付ひたりはせぬ筈だ。

 

故に近代とは謂はば正しひ馬鹿なのです。

 

正しひ馬鹿がかうしてのたうち回り今後五拾年余りで崩壊へ向かって突き進んで行くのです。

 

 

ウソだやう。

第一人間様は偉ひのだ。

 

人間様は便所へ入る分とても偉ひ筈だ。

 

でもたまには野っ原でもって立小便または野糞をして来ひ。

 

いやー、また物凄く爽快だな!

 

もうヤミツキにさへなるな。

 

 

ズバリ言ふが人間様程馬鹿者は其れ以外には居なひのだよ。

 

 

「わたしたちは物及び事実それ自体を認識することができる」

 

認識云々と云ふよりも自分が見へて居るか其れとも見へて居らぬかと云ふことの方がより重要だ。

其れと物や事實とは一体何かと云ふ命題がまずは存して居るのではなひか。

 

相対分別智⇔絶対智

 

其の絶対智を絶対智たらしめる概念的関係がそも存立し得ぬがー矛盾化によりー故に絶対智の認識の不可能性並びに實在性を証明することが出来ぬ。

 

要するに絶対智とは「信仰」の次元でのみ成立することなのだ。

 

すると「信仰」こそがまさにサヒコーの知的営為なのですか?

まあ其のことに就ひてはまた後に考へてみやう。

 

 

ー自然科学(もっぱら物理学)では自然科学で捉えられる対象領域を世界と見ているが、それは宇宙と呼ばれるべきものである。自然科学で研究されるもののなかにフィクションにおける存在や芸術の価値は含まれないであろう。自然科学で『ファウスト』を研究するとしたら紙やインクの粒子の性質を対象にする他ない。ゆえに自然科学が対象領域とする宇宙は、世界全体より小さいことになる。ー要約「なぜ世界は存在しない」のかより

 

元より自然科学とは厳密なものである。

さうして科学は自然を理解しやうとする。

 

しやうとはするのであるが何時まで経っても宇宙其のもの、また自然其のものを方程式化することは難しひ訳だ。

其れは言はば科学が片手落ちであるが故にさうなるのだ。

 

第一自然科学は其の銀化瓶の落ちてる砂浜を方程式化して表していく。

でも砂浜其れ自体、また銀化瓶の美しさや尊さに就き語れる訳では無ひ。

 

でも壱詩人にとってはまさに其の銀化瓶こそが夢であり美の結晶なのさ。

 

其処からしても自然科学なんぞはちひせへ、ちひせへ、狭くて小さくてこんな大詩人など何処にも入れやしねへぞ。

 

ちなみにわたくしは過去に自然科学程視野が狭ひものは無ひとさう論じても居ります。

 

 

ー自然科学が対象領域とする宇宙は、世界全体より小さいー

 

其の視野の狭さ即ち視野狭窄の故に現代の文明のほとんどの大問題が引き起こされて居ます。

 

じゃ科学は敵ですか?

 

まあ敵と捉へて置く方が其れを信じ込んでるよりはまだしもまともかなあ。

 

科学がやったキチガヒ実験とかを纏めた本なども屡あり其れを読むとほんに面白ひですよー。

まあ此の種の本はコンビニなどでも屡売って居りますのですがね。

 

其れでみんなも自然科学はクソだとさう言ってやりなさひ。

此のおバカ文明に何かを言ふ時には糞だの小便だの馬鹿だの阿呆だのそんなものばかりを羅列せねばまるで現實としてのおバカさには対抗出来ぬ訳だ。

 

 

ー私達がなにかについて考えるとき、なにかは私達の思考という意味の場の中にあらわれる。意味の場とは、おしなべてなにか対象がなんらかの仕方で現れてくる場のことだ。そして意味の場にあらわれてくること、これを「存在する」という。物理学や美術史、日常のあらゆる場面でのものの見方は意味の場となる。ー要約「なぜ世界は存在しない」のかより

 

其の「存在」と云ふことの定義其れ自体が難しひ訳だ。

 

たとへばわたくしの認識論では、

人間も人間の社会も「存在」するのでは無くあくまで「現象」して居るものだ。

 

現象とは實在するものでは無くさう認識されて居るものだ。

 

 

すると石もまた現象なのですか?

銀化瓶もまた現象なのですか?

 

現象である他は無ひと云ふ意味で現象でせう。

 

第一アナタは今人間をやってます。

其れもまるでやりたくは無ひのにやってる人もまた居ます。

 

其れがつまりは人間である他は無ひと云ふ意味で人間でせう。

 

 

ところで詩人さんは人間であることをもう辞めたひの?

 

實は辞めたひ。

 

でも所詮わたくしは奴隷ですから。

 

エッ?奴隷?

其れは一体何の奴隷だ?

 

此の社会の奴隷ですよ。

つまりは人間の奴隷ですよ。

 

それにしても苦しひ一生ですね。

 

さうですね、何故かずっと苦しかったですね。

でも最近はやることは適当、考へることはむしろ厳密、でもってして其処にバランスを取って居ます。

 

やることが適当だとみんなからバカにされませんですか?

 

みんなの評価其れ自体には重きを置ひて居ないのでそんなことは本質的にはどうでも良ひのですが確かに腹は立ちますのでそこらで吠へまくってます。

 

 

ー世界とはすべてを包摂する概念であって、それ以外一切のものがその中に現象してくる意味の場である。つまりすべての意味の場の意味の場である。しかし世界が存在するには世界があらわれる意味の場がないといけない。世界は一切を包摂するはずなので、世界があらわれる意味の場はまた更に大きな世界の中になければならない。

つまり視野の中に当の視野そのものが映らないように、世界は世界の中に現れてこないのである。この齟齬が、すべてを包摂するようなひとつの世界なるものが存在しない理由である。ー要約「なぜ世界は存在しない」のかより

 

其の「視野の中に当の視野そのものが映らない」と云ふ事實はしかしながら興味深ひものです。

しかも視野は抽象的概念であると同時に具象性をも帯びて居る。

 

「視野の中に当の視野そのものが映らないように、世界は世界の中に現れてこない」

 

つまりは隠れて居るものがある、其れも重要な何かが此の世には隠されて居る可能性が高ひ。

 

隠されて居るつまりは現象化して居なひ部分がありまさに其の状態を現象側から見れば「世界は無ひ」訳なのでせう。

 

或は世界はまさに此の世には無ひ、有るものだと思って居るものはむしろ有り得ず、無ひと思って居るところにこそ在るのやもしれぬ。

 

 

其のやうに有と在は観念上違ふものだ。

 

むしろ、

 

有⇔在

なのです。

 

尚自然科学の分野に於ひても「ダークマター」の存在につき現在でもまるで不可知となって居る。

 

2013年3月、欧州宇宙機関プランクの観測結果に基づいて、ダークマターは26.8%、ダークエネルギーは68.3%、原子は4.9%と発表した[7]。ー暗黒物質より

 

其のダークなのが宇宙の質量のほとんどであると云ふのであれば、むしろ此の世界は訳の分からんまるで妖怪のやうな世界ではありませぬか。

重要なことは「科学が全て」だとはインテリは決して思ふべきでは無ひと云ふことです。

 

むしろ其れを疑ってかかる働きこそが眞の意味でのインテリジェンスなのだ。

 

 

「わたしたちはみな、自分の頭をかきむしっているほどです」ーイェール大学の物理学者レイナ・マルヤマによる発言ー

「直感では、ダークマターのうちの8割は何かで、2割は別の何かだと思います」ーワシントン大学の物理学者グレイ・リブカによる発言ー「ダークマター」の正体に迫れるか? 宇宙の謎を巡る研究に方向転換の動きーより

 

 

何ですか、其れ。

まるで意味不明でもってまさに頭をかきむしっている状態にこそある訳だ。

 

わたくしはかって電力会社の研究所に下っ端の仕事でもって13年間勤めたが元々は何せ数学が零点の人間なので計算などまるで出来ません。ー但し間接的には理系のしかも博士レヴェルの方々にも其処で接して来て居るー

ですが實は宇宙論には強ひのです。

 

何故なら20歳~30歳位の頃まで一般向けではあるが宇宙論の本を多く読破しつひでにニュートンクオークと云った科学雑誌を毎号読んで居りました。

 

なのですが、其の頃にはダークマターだのダークエネルギーだのと云ふ概念はまるで出て来ては居なかった。

 

つまりは自然科学とはまさに日進月歩にて理論が大きく変更される可能性もまた大だと云ふことなのです。

 

むしろ自然科学とは其の時々の認識上の選択であるに過ぎぬものなのだ。

 

 

問題は、科学技術が進めば進む程にむしろ人間の営為が圧迫され社会がみんなにとり幸せな方向へは進まなひと云ふ矛盾にこそあらう。

 

なんでまたさうなりますかね?

 

其処をほじくり解決に導くにはもはや宗教的次元しか無ひことだらう。

 

何せ人文科学は眞面目でもって心の方向性だけは正しひのですが其処で惜しひ哉所謂やる気が出て参りません。

 

さうか、やる気が無ひ?

 

まるで無ひ。

 

 

ー世界は存在しない、しかしその代わりに無数の小さな世界(意味の場)が存在するのである。

わたしたちが生きている世界は、意味の場から意味の場への絶え間ない移行、様々な意味の場の融合や入れ子の動きとして理解できる。しかしそれらを包摂したひとつの「全体」は存在しない。ー要約「なぜ世界は存在しない」のかより

 

個人的には現象世界は無ひ、のだともまた言へるのだとも思ふ。

 

無ひものを有ると見て居る其の認識其れ自体が現象の本質だとさう捉へて来て居る。

 

だが實在は在るものとさう捉へる。

 

 

實在⇔現象

 

實在には世界は無く現象であるが故に世界は生ずる。

 

だが本質としてはまさに世界は無ひ。

 

そんな様なところでせうか。

 

 

然し人間が抱へる問題とは世界の有無、實在の有無、また現象の有無につき論ずることでは無ひ。

 

  1. 世界は永遠であるのか
  2. 世界は永遠でないのか
  3. 世界は有限であるのか
  4. 世界は無限であるのか
  5. 生命と身体は同一か
  6. 生命と身体は別個か
  7. 修行完成者(如来)は死後存在するのか
  8. 修行完成者(如来)は死後存在しないのか
  9. 修行完成者(如来)は死後存在しながらしかも存在しないのか
  10. 修行完成者(如来)は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか

 

 釈迦は「もし私にそうした疑問について説いてもらえない限り、私の下で修行しないと言う人がいたとすれば、その人は私にそれについて説いてもらう前に、死期(寿命)を迎えてしまうことになるだろう」「例えば、毒矢に射抜かれた人がいて、その友人同僚・血縁者たちが内科医・外科医にその手当てをさせようとしているところで、その当人が

  • 『私を射た者が王族(クシャトリヤ)であるか、バラモンであるか、農商工業者(バイシャ)であるか、奴婢(シュードラ)であるかが、知られない内は、矢を抜くことはしない』
  • 『私を射た者の名や姓が知られない内は・・・』
  • 『私を射た者が長身か短身か中くらいかが知られない内は・・・』
  • 『私を射た者の肌は黒いか褐色か金色か知られない内は・・・』
  • 『私を射た者がどの村・町・市に住んでいるかが知られない内は・・・』
  • 『私を射た弓が普通の弓か、(いしゆみ)であるかが知られない内は・・・』
  • 『弓の弦はアッカ草で作ったものか、サンタ草で作ったものか、動物の筋繊維で作ったものか、マルヴァー麻で作ったものか、キーラバンニン樹で作ったものかが知られない内は・・・』
  • 『矢の羽がワシの羽か、アオサギの羽か、タカの羽か、クジャクの羽か、シティラハヌ鳥の羽か、知られない内は・・・』
  • 『矢幹に巻いてある筋繊維が牛のものであるか、水牛のものであるか、鹿のものであるか、猿のものであるか知られない内は・・・』
  • 『矢尻は普通の矢か、クラッパ矢か、ヴェーカンダ矢か、ナーラーチャ矢か、ヴァッチャダンタ矢か、カラヴィーラパッタ矢であるかが知られない内は・・・』

といったことを考えていたとしたら、その人はその答えを得る前に死んでしまうのと同じように」「それらの答えが与えられてはじめて、人は修行生活に留まるということはない」「それらがどうであろうと、生・老・死、悲しみ・嘆き・苦しみ・憂い・悩みはあるし、現実にそれらを制圧する(すなわち、「毒矢の手当てをする」)ことを私は教えるのである」「故に、私は説かないことは説かないし、説くことは説く」「先の疑問の内容は、目的にかなわず、修行のための基礎にもならず、厭離・離欲・滅尽・寂静・智通・正覚・涅槃に役立たないので、説かない」「逆に四聖諦は、目的にかない、修行のための基礎にもなり、厭離・離欲・滅尽・寂静・智通・正覚・涅槃に役立つので、説く」「この説かないものと、説くものとの違いを、了解せよ」と諭される。ー無記より

 

 

世界の其の疑問を解かう、何とか其れを解き、解けば世界を統べる其のやり方が分かるので其れにより人間の社会を豊かにし進めたひ。

まさに其のことが自然科学の根底に居座る合理主義思想なのです。

 

ところがソレ、かのお釈迦様はまるで問題にされて居なかったのです。

またイエス様にせよたとへば👿の洗脳などは気にされて居たことかとは思はれますがかうした形而上學上の問題を論じやうとはされて居なかった筈だ。

 

即ち佛陀にとっては佛が全てでありキリストにとっては神が全てです。

 

さうして共に生老病死の苦しみから如何にして人間が脱するかと云ふ眞理をお説きになって居る筈だ。

 

只自力救済と他力救済と云ふ対になる救はれ方を其処にお説きになられた。

 

此の釈尊のお考えはしかしながらそれこそ自然科学以上に合理的な思考法です。

 

此の無記や毒矢の喩への部分は佛法を學ぶ時の其の初歩的な内容のものなのですが常に其処に重要な意味合ひを含んだものです。

 

 

要するに「どうのかうのと考へてる場合か?」です。

 

さうして人間はやられちゃってる訳だ。

 

何に?

煩悩と云ふ毒矢に、また欲望と云ふ罪深さに。

 

で、其の煩悩にやられたのを治して下さるのがお釈迦様の御説法であり、また罪にやられたのを治して下さるのがキリスト様の御説法です。

何せ人間はさうしてやられた状態で生まれて来ますので其の侭では地獄へ堕ちる他御座りません。

 

みんなは地獄なんぞ無ひ、文明は善だとさう信じ込んで居ませうがみんなでもってさうしてあへて地獄へ堕ちる御積もりか?

 

いやじゃ、いやじゃ、みんなで赤信号など渡りたくは無ひ。

 

エエんじゃ、エエんじゃ、みんなでもってかうしてやってきゃエエんじゃ。

 

一体何処がエエんじゃ?

 

地球環境をブチ壊し熱帯雨林も消失させ其れでもって一体何処がエエんじゃ?

 

 

だからそもそんな社会がまともな訳がねへだらう。

アンタラほんとに頭は大丈夫かへ?

 

さうしてやられちゃってる人間共が相も変はらずかうして日々会社へと出向きます。

 

 

有限⇔∞

 

要するに有無の問題であり同時に不滅=永遠ー常住ーか其れとも滅=限定ー断滅ーかの問題です。

 

さうした形而上の命題は結局選択に終始するのだと個人的には考へて居る。

 

選択に終始すると云ふことは其処に正解は得られず極端な話其の選択を其の時々に選び取って居るうちに命が尽きて仕舞ふ訳だ。

 

 

でも、だ。

でも地球環境をブチ壊し熱帯雨林を消失させ海洋を酸性化でもって壊すのは其れはズバリ科学者の責任ぞ。

 

さう云ふ急迫した問題こそがまさに待った無しでの犯罪としての構成要件の該当性だ。

 

さうして犯罪としての構成要件が充たされるが故に自然科学者は今すぐに罪を認めなければならぬ。

 

だが大元での煩悩だの罪だのはむしろみんなの側にあるのだよ。

 

だってみんなは科学を信じちゃってただろ?

 

裸としての科学にさうして飛び付ひただろ。

 

 

そんなもん、もはや誰も責任など取れませぬが…。

 

 

ー弓の弦はアッカ草で作ったものか、サンタ草で作ったものか、動物の筋繊維で作ったものか、マルヴァー麻で作ったものか、キーラバンニン樹で作ったものかが知られない内は・・・

矢尻は普通の矢か、クラッパ矢か、ヴェーカンダ矢か、ナーラーチャ矢か、ヴァッチャダンタ矢か、カラヴィーラパッタ矢であるかが知られない内は・・・ー

 

ー宇宙はダークエネルギーか、其れとも正体の分かった物質か?

地球は温暖化で壊滅するか、其れとも生き残るのか?ー

 

ところで霊界はかの大霊界こそが矢張りと云ふべきかサヒコーなのだらうか?丹波哲郎さんはなぜ、75歳で「大霊界」への没頭をやめたのか

 

ま、其の大霊界は別としてキリスト教に於ける霊性の重視と佛教に於ける霊に対する無記の立場の違ひにつき是非擦り合はせを行ってみたひとさう考へて居るところだ。

 

 

かやうに科学は人間社会にとっての幸福な様を築くものとは程遠ひものです。

科学はむしろ見方が狭くであるが故に實行力があり實利的なものでもまたある訳だ。

 

さても昨夜母が面白ひことを語って居りました。

其処に曰く、

 

「文學は何もしなひからむしろ良ひ。」

「自分でもって死んだ文學者はただそれだけのことで済んだ。」

 

でも「原爆を造った科学者には大きく責任がある。あんな大量殺戮の兵器を造っては決してならなんだ。」

 

母は昔女学校の文藝部に居ました。

如何にも「良くものが分った」話としてわたくしは其の発言を聞ひて居たものだった。