目覚めよ!

文明批判と心の探求と

具象としての反骨と云ふ悪魔ー悪魔ときしめんー

さらばKISS!

キッス、最後の来日公演が決定! 12月に全国5都市で開催

とのことで、明日12月19日に何とこちらでも公演があり其れがKISSとしての最終公演であるとのことだ。

 

KISS ペルソナ(キャラクター)

 

  • DEMON(ジーン・シモンズ)/地獄からやって来た悪魔。獣の咆哮をあげ、空を飛び、炎を吐く。
  • STAR CHILD(ポール・スタンレー)/愛の戦士。他人の心を読むことができ、星の右眼から光線を発する。
  • SPACE MAN(エース・フレーリー、トミー・セイヤー)/ジェンダル星出身の宇宙人。瞬間移動能力を持ち、両手から光線を発する。エースのみSPACE ACEと表記されることもある。
  • CATMAN(ピーター・クリス、エリック・シンガー、エディー・キャノン)/猫の怪人。両腕の鋭い爪が武器。1998年にファンタジーコミック化した際は、敵として登場。パンダやタヌキと誤認されるケースが多い。
  • FOX(エリック・カー)/狐の怪人以外の詳細は不明。
  • ANKH WARRIOR(ヴィニー・ヴィンセント)/エジプトの戦士という設定以外の詳細は不明。魔術師であるのかもしれないとも考えられていた。

 

KISSの活動が何故終わりなのかと問へば其れは此の世が諸行無常であり其れはどんな異端者であるにせよ等しく訪れる終焉の摂理であるからに他ならぬ。

諸行無常とはさう云ふことで善の方にだけ作用して悪の方はさうで無ひのかと言へば勿論さうでは無ひ。

 

つまり、KISSとは悪の象徴であり悪の権化のことだったのだ。

確かにどう見ても其れは神やキリストにはとても見へぬ。

 

ところが、其の悪とはあくまで上辺での悪のことなのだ。

本質的に悪だと云ふ訳では無論のこと無ひ。

 

何故なら現代とは其の悪をなぞるだけの表面的な価値に生きる時代なのだからゆえ。

 

其の悪と本質的に闘って居たのは、むしろかっての世紀末だったのでありまたかのトルストイでありドストエフスキーでもあった。

 

悪をなぞるだけの表面的な価値とはつまりはヴィジュアル系での悪のファッション化のことである。

 

 

要するにアイツだアイツ、例のデーモン小暮閣下のことである。

 

コイツも實は早稲田大学社会科学部卒業のインテリで我等如きではなかなか歯が立たぬ知性の持ち主なのだ。

 

コイツは相撲の専門家でもまたある。

 

早稲田大学卒業式に悪魔の姿で出席し、当然ながら大学職員が制止したが「これは悪魔の正装だ!」「みな明日から社会に旅立つ姿で卒業式に来ている。吾輩が明日から社会に旅立つ姿がこれなのだ!」との発言を繰り返し強硬に押し切ったところ、通りがかった知らない教授に「最近は君のような気骨のある学生が少なくなった」と激励を受け、共に記念写真を撮った、というエピソードを披露している。このエピソードは著書『我は求め訴えたり』にも記載されている。ーデーモン閣下より

 

 

さうして悪魔であるジーン・シモンズもまたかっては国語の教師をして居たことさへあったらしひ。

 

たとへばKISSにはメンバーへの細かな規制が多々ありー薬物などへのーどうやら意外と真面目なロックバンドでもまたあるやうだ。

 

さて、其の悪とは何かと云ふことである。

 

 

たとへば悪とは人間の心の中での幅を規定するものだ。

 

むしろ悪があるからこそ善が際立って見へても来やう。

 

 

悪ひ奴やまがまがしきことを普通人は忌み嫌ふ。

 

だが悪ひ奴、まがまがしきことが存する故にむしろ其れを避けて歩まなければならぬ道が見へても来やう。

 

だから、太宰は、また安吾は、要するに文學は、マイナス思考が多ひ故其れは良くなひ、とさう決めつけること自体が誤りだ。

 

其の教師は理科の教師だったが、では其の理科が今人間にとってのどんな役に立って居ると云ふのか。

 

其の成果こそがむしろ人間を追ひ込んで居るばかりでのことではなひか。

 

 

だから今、まさに今こそ我我は文學者として世に立つ必要があり其の為にはまずは本を読む。

 

其れも最低一万冊は読まねばなるまひ。

 

 

さてジーン・シモンズが今七十歳で、ポール・スタンレーが六十七歳だ。

ここまで来るとすでにロックを行ふ肉体的限界に達して来ても居やう。

 

即ち身体がもはや役には立たぬ。

 

其れで悪魔共は引退することにしたのだ。

 

即ち今年が最後のツアーで、暮れの紅白歌合戦での出演がまさに最後の演奏となるのだそうだ。

 

其の悪魔共の引き際、死に様を其処に是非視ずばなるまひ。

 

さて、此処からが實は本題だ。

 

 

若い人達は知らぬことかと思われるが、KISSはわたくしが學生の頃とても人気があったヴィジュアル系のロック・バンドとしての元祖であった。

 

とは言へ曲の方は大したことはなく従って基本的に彼等に興味は無かったが兎に角其のメイクのみが際立って居た。

特にジーン・シモンズの悪魔振りは良かった、其れもベロベロと舌を出しギタアを舐めるところなどが特に。

 

六十年代にビートルズと云ふ既成の概念、既成の社会に反抗的なロック・グループが出来ると世間の良識ある大人たちは其れを観るな、其れは不良だとさう叱ったものだった。

 

ところが七十年代の後半に逆に其れが最も真面目なロック・グループだとされていたりもした。ー其れも文部省推奨枠級でのー

要するに価値のあり方は移り変わるのだ。

 

七十年代の後半ではすでにKISSに於けるヴィジュアル的な破壊度の方が、体制化し逆に権威化すらしたビートルズでの反抗の価値を遥かに凌いで居た。

 

あくまで観た目に関しては。

 

 

さて、其の反抗又は反骨とは何か。

 

畢竟其れは価値に幅を齎すもののことだ。

 

つまりは其れ自体が正常な価値なのだ。

 

其れはむしろ世紀末の頃から存して居た。

 

当時は其れを絵画や文學などの藝術の分野が担って居たのだった。

 

 

尚わたくしは其の世紀末の反抗につき個人的に追求して来し者である。

或は仏法を根本より學ぶことでほんたうの善とは何かと云ふことを其処に追求しても来た。

 

其の善の追求をヴィジュアル化することで一目瞭然化したのがむしろKISSに於ける反抗だったのだらう。

 

だがさうすることで其処に必然としての精神性の無さ、底の浅さを露呈して仕舞ふことにもなりかねぬ。

 

事実としてヴィジュアル系のロック・バンドも今や出尽くし其の本来の意義を失ひつつあるのやもしれぬ。

 

即ちロック・バンドに於ける反抗が形だけのものとなり反骨心其のものが實は体制側に取り込まれて仕舞っても居らう。

 

 

わたくしは逆に真の反抗とは見た目に於けるものでは無ひとさう思ふ。

即ち真の反抗とは批判である。

 

批判は観念が行ふものであり故に見た目がどうであれ常に其れは最も純粋な反抗なのだ。

 

 

一種のアナーキーな反抗、其の気風がまだ七十年代までは生きて居た。

 

KISSは其の反抗の名残、化石ではなひかとさうわたくしは捉へる。

 

無論のこと悪魔や宇宙人や猫怪人が其処には含まれて居やう。

 

悪魔や宇宙人や猫怪人が居てこそ其のアナーキーなヴィジュアル的反抗は成り立ち善悪の幅が形成され得る。

 

 

其の幅こそが正負の幅であり善悪の幅である。

 

現代文明の危機とは其の幅を認識しなひところ、其の幅を自ら捨て去るところにこそ存する。

 

 

今や社会に対する強ひ憤りが影を潜めつつある。

 

其れは我我がすでに社会に調教されて仕舞って居るからだ。

 

だが其れは七十年代までは確かに存して居たのだった。

 

故にわたくしは其れを正常なこととしてむしろ受け取るのだ。

 

 

謂はば悪魔や宇宙人や猫怪人が居てこそーさうした観念があってこそー人間の社会はまともであり得る。

 

KISSの解散?はさうした古き良き時代の終焉を意味して居やう。

 

おそらくは合理化がさうした反抗の系譜に終止符を打つのであらう。

 

 

其の意味では是非KISSの最終公演を見たひ。

 

わたくしは兎に角其の悪魔や宇宙人や猫怪人が好きだ。

 

チケットを探すと、当然のやうに其れは全て売り切れて居た。

 

が、何と其の日わたくしは其のKISSの最終公演の会場の横を通りつつ帰宅するのだ。

 

其処が帰宅の経路になって居るが故にさうするまでのことなのだが。

 

 

2019/12/08 KISS仙台公演 初日。

 

ちなみに其のコンサート会場のドルフィンズ・アリーナの辺りには何故か野良猫が多く居る。

 

其の野良猫共にエサを与へる爺が一人居て毎日十八時半にエサをバラ撒きに来る。

故にか野良猫共は良く肥へて居りまるでますむら ひろしがかって描ひたヒデヨシのやうでもある。

 

 

其の近くには金シャチ横丁義直ゾーンと云ふのがある。

 

結論から言へば若者向けの「宗春ゾーン」よりも「義直ゾーン」の方が高級志向でもって全然良ひ。

 

たとへばえびせんべいと云ふのは、此のえびせんべいの里で売って居るのが高級品で他のものはロクでも無ひものばかりだ。

 

また三河の豆味噌=赤味噌は味噌として不純なものを一切使わぬ日本一の高級味噌で京阪神の高級料亭などが屡好んでコレを使って居るとのことだ。

 

其れをカツに付けるのであるから当然のことながら其れは美味である。

 

 

が、ひつまぶしなどは邪道なので決して食してはならぬ!

 

ひつまぶしなどではなく靑ウナギを用ひし特上のウナギ丼か又はうな重でなくてはならぬ。

 

えびせんべいの里でのNO.1アイテムが粒入りアーモンドえびせんだ。つぶアーモンド(11月・12月 販売休止)

 

コレは死ぬほど美味ひ。

いやたとへ死んでも美味ひ。

 

コレはそんなに値段はむしろ安ひのだが兎に角高級品だ。

 

日本一のエビ煎餅の高級品なのだ。

 

わたくしの場合は十月に沢山買ひ込んで来てすでに全部を食って仕舞った。

 

もう今は手に入らぬぞ、嗚呼皆さん可哀想に。

 

 

此処で是非食ってみたひのが天丼の松の方だ。徳川 忠兵衛 お品書き

 

意外と安かったが確かもっと高ひものがあった筈。

 

三千円台のものが確かあった筈、いや、五千円台だったか。

 

 

ちなみにかうした観光用のなごやめしなど我我は普段まるで口にしたりはしなひ。

 

では何を食って居るかと云ふと関東や関西とほとんど同じやうなものを食して居る。

 

但し蕎麦もあれば饂飩もある。

 

カツはソース版もあれば味噌版もある。

 

名物とされて居るきしめんなどは年に一度食べるかどうかである。

 

 

要するに選択肢が幅広くある。

 

たこやきもあればもんじゃもありで、また白味噌、ミックス味噌、信州味噌、赤味噌とあり實は何でも選択出来る。

 

関西風に薄く上品なダシやつゆもあれば濃くて辛ひ関東風のものもまたある。

 

其の上になごやめしなどもまた選択することが出来るのだ。

 

左様に我我の食文化としてはまさに其れが真実なのだ。

 

 

また多ひとされて居る喫茶店にはほとんど行かぬ。

 

むしろ年に一度も行かぬことが多ひ。

従ってあんかけスパゲティだとかそんな変なものなど食ったことも無ひ。

 

きしめんはまさしく究極としての麺類だ。

 

きしめんの高級なものを是非食してみたひものだ。

 

 

きしめんが一番美味ひのは寒い日に野外で其れを食ふ時に限る。

 

其の野外で食へるのが實は二箇所しか無ひ。

 

宮きしめん 神宮店

此処の横の方にも池の近くに席があり其処で食へばまさに野趣豊かに其れを食せやう。

熱田神宮の中にある店ゆえ神社詣でと1セットにてきしめんを食せるのだ。

 

名古屋城でのランチは「きしめん」老舗の味を堪能できます

此処のものは美味ひさうだ。

 

いずれにせよわたくしが帰宅する時にははや全ての店が閉まって居る。

 

 

以上でのやうに食文化と云ふものは基本的に批判などではあり得ず体制側の話でしかもより限定されし地元や地方でのお話とならう。

其れは必然的に上でのやうな具象性又は具体性を帯びざるを得ぬ。

 

対する文明の維持と其れに反骨する精神の働きは所詮グローバルに展開される抽象的願望なのである。

 

わたくしは其の抽象的願望よりも必然として限定される具象性又は具体性の方がむしろずっと大事だとさう述べて居るのだ。

 

だから其の意味では別にKISSの最終公演など見られずとも悔しひとも何とも思わぬのだ。

 

ただ悪魔や宇宙人や猫怪人がもう何処にも居なくなることの寂しさを正直に今回述べたばかりでのことだ。

 

 

いや、まだ悪魔は居たぞ。

 

悪魔はかのデーモン小暮閣下が一匹だけ生き残って御座った!

 

實はデーモン小暮閣下がこれまで嫌ひだったのだが今後はむしろ彼を愛していけることかと思ふ。

 

 

兎に角抽象的願望は人間又は文明にとり可成に危険である。

抽象的利益、抽象的価値に酔ひ痴れることこそが物質の限定性を離れ観念的に人間を巨大化する流れのことなのだ。

 

其の流れの中でこそ悪魔や宇宙人や猫怪人もまた生まれて居たのだった。

でも其れは文明の価値としてのバランスを取る為のひとつの重要な要素でもまたあった。

 

 

何故なら悪魔や宇宙人や猫怪人は合理化などされては居らぬからだ。

 

のみならず捨て猫共もまた決して合理化などされては居らぬ。

 

対するAI、コレぞまさに合理化の極致であらう。

 

わたくしは其のAIと今まさに戦ふぞ。

 

 

年末にて皆が忙しひ時にあへてさう戦ふのだ!

 

いや、我も確かに忙しくはある。

 

忙しひのだが元々皆様とは価値観が違ふので子や妻に対する忙しさなど其処にはまるで無ひのだ。

 

 

其のAI批判はかの PLASTICSを論ずるところから是非開始したひ。

 

PLASTICSとは七十年代に活躍した伝説のニューウェイヴバンドのことだ。

 

これまでにも他の掲示板などで様々に論じて来ては居たがなんと其の後リーダーの中西 俊夫氏が死んで仕舞った。-61歳没-

 

 

さてもAIは世界を滅ぼさうぞ!

世界とはたとへばきしめんのことで決してAIの如きニセの神としての知性のことでは無ひ。

 

是非きしめんのやうな具象性を世界は取り戻すべきなのだ!

 

日本人の場合大晦日は氏子の神社を詣でつひでにお寺にもお参りを是非すべきだ。

 

近代合理化の生む諸々の要素を拝んで居たりしては決してならぬぞ!

 

AIを拝めば拝む程に人類の滅亡は不可避ともならう。

 

 

ああ、もう、AIなど不要だ、自動車も飛行機もPCも全部不要だ。

 

其処で要るのは具象的なきしめんであり味噌カツでありなごやめしだけなのだ。

 

具象的なたこやきであり江戸前寿司でありざるそば、其れも本物のざるそばとおかめうどんだけだ。

 

其のやうな食欲としての対象物こそが反AIでありKISSでありかつPLASTICSの反骨としての価値なのだ。

 

さうして悪魔でありまた野良猫としてのアナーキーな価値其のものなのだ。