目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

哲學的読書論ー本は読んでも本には読まれるなー

ボクの部屋には文學全集の類が多く有るのだよ

 

 

 

 

 

ところで本日は「哲學」の日ださうですがそんなことを初めて知りました。

さてもその「哲學」ですが、

 

1.自分は宗教詩人と云うよりもむしろ哲學的詩人であること

2.そんな哲學的詩人に取りソノ「哲學」は日常のことに過ぎぬのですが多くの人人に取りまるでさうでは無いこと

3.ソノ「哲學的能力」は生まれ持ったものでありほぼ「開発」などは出來ぬものとなること

 

とのことをまずはゼヒ含み置き頂きたい。

 

なのであくまでボクに取り哲學的思考は容易いのだしまた普通にスラスラとやれるものなのです。

逆にボクに取りほぼ分らんのがコノまさにケモノの如き現實の様のことなり。

 

 

では逆にまず宗教的に述べれば(ワザとさう述べれば)、

 

さて魂の「救済」を前提とする宗教的には現世に於ける利益構築は全てが無意味です。

即ち原始佛法と初期クリスト教(イエス様御自身による教え)に取りあらゆる現世に於ける利益構築は全てが無意味です。

 

でもってしてまさにさうした価値観の転換=パラダイム・シフトこそが「眞理」に属することとなる。

つまりが水がHとOの化合物であるとかまた相對論的物理状態であるとかさらに所謂量子的なミクロの振る舞いであるとかそんな「現實」=「現象的物理世界」とはまた違う「實相」のことぞ。

 

要するに「分析論」では無いむしろソレ以前の全體性の上から世界を見通しますとむしろニンゲンの認識は宗教性を帯びざるを得なくなる。

さらに言えばより深い思考、思慮に満ちる考えとは科学的合理性とは異なるものとなる。

 

では科学的合理性は全部ダメかと申しますととりあえずソレは現實的に役立つ。

されどソレが所謂「眞理」でも「實相」でも無いので幾らソコを頑張っても魂の「救済」にはまるでもって繋がらず。

 

まあでも科学的発見でもすればソレでもって生涯食ってはいけさうだ。

でもワタシはこんな哲學的詩人ですのでソレには全く興味が御座らぬ。

 

ソレとワタシは別に金が欲しいのでは無い。

でも結果的に金を欲しがるのは田舎へ移り住みソコで文人生活をやり「詩集」を壱冊のみ出したいダケなんだな!

 

…誰ぞ兎に角カネを恵んで呉れろ。

いやあでもソレは如何にも情けないぞよ。

 

どだい詩人たるものはまず「清貧」でなければならぬ。

次に詩人たるものは同時に放蕩を繰り返さう。

 

うんソノ「放蕩」ダケは間違い無くしとるわ。

ただソレが👩に向いて居ないだけのことで例えば🚬なんかかうしていつも「ハイライト」だぞよ。

 

…「ハイライト」!!

ソレはまたまたどぎつい🚬ですな。

 

いやこんなもんはまだ序の口でかっては「ロングピース」を毎日スパスパと吸っておったわい。

 

 

ソレにつけてもソノ魂の「救済」とは?

壱言で申せば魂の「救済」こそが即「眞理」であり「實相」です。

 

なので幾ら月や火星へ逃げるにせよ人類は心が汚れたままになっとるのです。

またかう文明が地球を食い潰し氣候がおかしいのも人類の心が汚れたままになっとるからです。

 

ところがイザ「社會科」的に言えば「全體主義」により人類の心が清められることは無い。

なのであえて「社會科」的に言えばもお人類の未來は御先が眞っ暗、なんだ。

 

でも原始佛法や初期クリスト教はむしろソコでこそ「信仰を持ちソレに生きる」との「眞理」を説く。

さうです、たったイマアナタ方は「目覚める!」のだ。

 

かう「目覚める!」のだ「目覚める!」のだ「目覚める!」のだ「目覚める!」のだー。

またソレはドコの教祖の説法なのですか?

 

ソレは「明らかに観明らかに生き明らかに死する」とのアキちゃん教の教義です。

…アキちゃん教?

 

まさかソレはアノ反體制での邪教のことですか?

 

いいですか、御釈迦様とクリスト様は最初反體制の邪教の教祖のやうなものでした。

御釈迦様は當時の主要な宗教哲學であったバラモン教に於ける「アートマンとブラフマン」の分別を同時に否定なされた。

 

またイエス様は「みんながちゃんと神の分別に生きとらん」とさう申されつまりは旧來のユダヤ主義の伝統を全否定されるに及ぶ。

では御釈迦様とクリスト様は異常者にも等しい半端者だったのだと?

 

さうです、コノ新興教の教祖弐名は明らかに異常者でした。

でも時間の経過が御釈迦様とクリスト様の正しさを証明したのであーる。

 

 

「明らかに観明らかに生き明らかに死する」

 

ソノ「明らか」とは「直視する」とのことであーる。

さう「直視する」のは、哲學的思考(直観知=般若智)と豊かな感受性によるものとなーる。

 

いいですか、ではもう少し分かり易く説明致す。

 

4.自分の認識をこそまずは疑え

5.さう「明らか」に観れば観る程に自分の認識が「洗脳」に過ぎぬものであることに気付く

6.御釈迦様とクリスト様の認識は言わば「自力」救済と「他力」救済の方法を説くものとなる

 

とさうまずは自分自身の認識がオカシイのであーる。

でもオカシイのであーる。とのソノ言い方がオカシクはないですか。

 

だからまた元塾の先生のアタマが狂い「サアサナエを断頭するぞー!!!!」てなものでソレはアノ米國で塾の先生がやらかした今回のトランプ政権へのテロリズムとまるで同じですぜ。

うんアノ先生は可成にイイ大學を出とるのださうだ。

 

でもイザ高齢なボクはテロなんてやる力がそも無いわ。

ソレもかう毎日右足が痛いので…。

 

ふーむ君はもはや壱障碍者なのかい。

へいですので兎に角御恵みを…。

 

かうして鉢などを出し御待ちして居りますが故に…。

…チャリーン。

 

おおっコノ音はもしや百円玉か!!!!!!

コノ百円玉にはなんと拾円玉の拾倍もの価値が有るのだぞよ!!!!。

 

どうでもイイが今日君が書かねばならぬこととは「哲學的読書論」のことでしたよね?

はいすいません、少し作文でもって遊び過ぎました…。

 

 

要は、

 

實存的価値(内的世界)⇔現象的価値(世間=社會)

無分別性(直観)⇔分別性(社會的構築)

根が明るい⇔根が冥し

本體論ー全體論ー(本質論)⇔部分論ー實質論ー(現實論)

 

とそのやうに心的価値がまた分裂(分離)するとのことなのだ。

でもってして例えば宗教や哲學、また文學的藝術的な価値は主に左辺での価値を追求する訳だ。

 

逆に特に戦後世界の文明が主に築いて來しのは右辺の方となる。

ところがあくまで眞理レヴェルでの認識は「人はパンのみにて生きる訳では無い」のだ。

 

とのことは文明による認識が著しく「合理化」を急ぎむしろ眞理の方をないがしろにしつつ暴走するのであーる。

故に人類が救われぬのは宗教がまた哲學が惡いのでは無くタダ現代社會の方向性が間違って居るのであーる。

 

 

でもってしてそも「読書」とは何か?

ズバリソレは御勉強のことでありソレも實存的価値(内的世界)を磨かんが為の行いとならう。

 

即ち読書の本質的意義とは「知を拡げる」こと以上に「知を深める」ことにこそ有る。

 

ー「哲學的能力」は生まれ持ったものー

 

但し、だ。

但し哲學的思考や文學的感度が誰にでも備わるものではおそらくあるまい。

 

哲學的思考や文學的感度が備わるニンゲンはむしろ常に少数派なのだ。

さらに言えば宗教的なセンスは少数派のニンゲンにのみ備わるもの。

 

さてかって哲學者のショーペンハウアーがむしろ読書の有害性に就き説いて居る。

ですがさう語るショーペンハウアーのアタマの中身を磨いたのはおそらく読書だったことだらう。

 

 

読書が「2時間以上」で成績下がる“逆U字現象”

ひろゆき「ひたすら本を読ませる教育は間違いだ」 日本人が知らない成績とシン読解力の相関関係 | キャリア・教育 | 東洋経済オンライン

 

先にも述べましたやうに「成績」や「読解力」と「實存的探究」はまた別の御勉強となる。

さらに言えば「成績」や「読解力」ばかりに比重を置くとかうして読書の意義は薄れがちともなる。

 

ソノ逆に例えば「眞理探究」の分野では「読書」が必須の要件となることだらう。

 

 

長文を読めない子が増えている? 難読症だった医学博士が語る「読む力が学力の土台」である理由

本を読む楽しさ伝えたい…「子ども読書の日」対談

 

本が読めないニンゲンはおそろしく哀しい。

まさにソレは「知の乞食」のやうなものなのではないかしら。

 

本を読むほど「人に嫌われること」が怖くなくなる

書物の世界は広大無辺でほぼ無限…図書館でも電子版でもなく「書店で紙の本」を手にとって欲しい理由

 

本を読むからこそさう自分に自信が付く。

またソノ自信は妄想の類では無く確かな實存としての知恵の深まりなのだ。

 

また読書は気に入った本を何度でも読むのがイイ。

さらに言えば五年、拾年経ち同じ本を読むと感想がまるで違ったりもまたするのがイイ。

 

だから"タブレット1枚授業"で国は滅ぶ…林望「中国を見ればわかる若者が古典を読まない国の末路」

本はけして図書館で借りるな…林望「いくら読んでも知識がちっとも身につかない人の残念な習慣」

 

ソノ林 望先生は尊敬させて頂いて居る作家の壱人となる。

いつも戦前の難しい言い回しや漢字を駆使されものを書かれるのでおそらくは右の方だとは思いますが読んで居て氣分の良くなる文章が多い。

 

だが右の思想が良いとは現在は思えず。

されど左の思想が良いとは現在は思えず。

 

尚私自身の読書歴はすでに長い。

それこそ半世紀以上に亘りさう本を読んで來た。

 

さう本を読んで私自身のつまりは「實存」が形作られた感じとなる。

かのショーペンハウアーは「本に読まれるな」とさう言いたかったのだらうがでもアナタの「存在と苦悩」と云う本が無かったら現在のワタシはドコにも居なかったことでせう。(ソレが所謂座右の書なのだ)

 

かのショーペンハウアーの本にせよまた原始佛教の解説書や道元や空海に関し書かれた本を真摯に読み据えたからこそ現在のわたくしが有る。

さう読書は心中に「わたくし」を生む。

 

イザさうして長い時を経て創られた「わたくし」をもはや誰も奪うことは出來ぬ。

 

…「わたくし」を去るのでは無くさう生む?

さうだから別に読書は宗教では無い。

 

宗教では無いけれど「實存」に對し常に神聖な場なのだよ。

 

 

ーアナタ太宰 治は読み過ぎない方がイイわよー

16歳の頃つまりは半世紀前に高校の英語の女教師にさう諭された。

 

英語のリーダーの教科書の裏側に「人間失格」だの「桜桃」だのと落書きがしてありソレを見られたのである。

先生確かに太宰は読み過ぎない方がイイのですがでもワタシが文學より壱番多くを學んだのがまさにソノ太宰の作品群でした。

 

ソノ後私は岩波書店の芥川 龍之介全集を壱冊ずつ求めて行った。

高校の時分より家庭教師をしておった我ながらソコで稼いだ金は全て本の代金に費やした。

 

ソノ芥川 龍之介全集は埃を分厚く被ったまま我が書棚に有る。

ソレも坂口 安吾選集や宮澤 賢治全集などと並べて置いて有る。

 

兎に角芥川 龍之介全集はすでに半世紀に亘りさうなっとる。

また夏目 漱石全集なども有りソレは廿年程前に天白区の古本屋にて求めた。ーところがまだほとんど読めずー

 

結果として「読書」はおおまさに「實存」ソノモノを磨く。

ソレは「現世利益」では無く所謂「教養」を身に着ける為のものぞ。

 

さうしてあくまでソコにニンゲンとしての「本質」が問われて行く。

なので太宰や芥川が悲惨に死んだにせよそんなことはほぼ無関係なのだ。

 

ああまさに大事なのはアンタの心の中の變化のことなのさ。

 

でもそんなに全集本で壱杯の君の部屋は何だか立派さうだな…。

いいやソレがさうでも無く兎に角🐱のやりたい放題でもってたったイマ兎に角汚ねえんだよ。

 

兎に角全部瓶を落として割っちまう。

また忙しくて参年程も大掃除がやれん。

 

げげっそんなタダの汚部屋かよ!

いいえまさに神聖なる文學の上での城ですよ。

 

さう「読書」こそは自分で自分こそが本です。

なる程だから「読書」は宗教とはまた違う眞理領域のことなんだな。