かうキリギリスはやがて食えなくなり地に倒れる、でも承知した上でソレをヤルのが詩人なんだ。
昨日、今日とかう雨。
わたくしは相不變御センチ。
つまりはなにせ社會が惡いのでまるで氣が晴れぬ。
〜が惡いので氣が晴れぬ。
でもそんなのはオカシイ。
ほんたうはわたくしが「詩人」だから氣が晴れぬのだ。
「詩人」
おお厄介なコノ病よ。
コノまさに微妙で且つ奥深き心の病よ。
でも大丈夫だ。
無名詩人は現象界のまざまに埋もれて只消えゆくのみ。
あれっでもアンタはソレが嫌なのでココに出て來るのでは?
さうだね、確かにココの全ては奴の自己顕示欲の成せるワザだろ。
じゃあ君は自分を「詩人」として世に認めさせんが為にココでもって作文するのだね。
だってソレ以外の価値がドコにも無いですよ。
即ち妻子は居らずマゴも無く友達ダケは居るがまるで會って居ないのだし…。
おまけに兎に角社會が惡いのでまるで安心して居られん。
けれどもイザ周りを見れば意外とみんな普通にやっとる。
さう日日働き妻子やマゴをつくり僕みたく小難しいことなんぞはなんも考えとらん。
あーあ、絶望だあ。
いーやオメデタウ、かな。
お前らホントに目出度いわ。
さう目の出た鯛だわい。
ソンナ目出度い人人を無視しつつ外の便所へ行く。
何せ家の中に弐つ有る便所が共に壊れとる。
ソコでウンコをしながら詩人宮澤 賢治のことを考えておった。
宮澤 賢治は最終的に社會派詩人である。
また彼はインテリ教師でブルジョワだった。(レコードや浮世繪のコレクターでもあった)
けれどやがて彼はラスキンやモリスなどの影響により社會主義に傾倒す。
「社會主義」
出たぞ、まさにコレがカギだな。
でも賢治は熱心な法華経信徒でもまたあった。
即ち國柱會での信仰を基に法華的世界観を詩や散文の形でもって書き描いてみせた。
まずはソレが偉い。
流石に我が國を代表する詩人である。
でもソノ國柱會ってなんかヤバくないか?
明らかに日蓮宗系の「立正安國」の世界の信仰でありつまりが右派的な排外主義を含んでおる。
尚ワシはかって日蓮正宗にて得度をしておる。
でもソノ後創価學會が日蓮正宗より破門されたので同時にワシも破門されたのであーる。
ソノ後ワタシはより深く沸法を學び主に原始佛法に就き独學をした。
さてにも関わらず賢治の作品にはむしろ左派的なコスモポリタン性が横溢して御座る。
なのでつまるところ賢治はソノ右と左の思想を共にやる天才型のニンゲンだったのだらう。
天才に出來て秀才には出來ないのがまさにソノ弐項對立の乗り越え方なのだ。
尚私自身はどちらかと言えばソノ天才型ながら佘りソチラの方へ振ると佘計に村八分(理解されず)の度が増しますのであえてソコを抑えております。
まあソコはココで私の作文を読めば壱目瞭然のこととは思われるが…。
あああまた何てキレイなんだ!
ウンコをしてからポストへ郵便物を取りに行くと門から玄関にかけて大輪の椿の花が幾つも落ちて居る。
ソノ大輪の椿の花が今や満開なり。
それがまるで毒毒しい迄に主張の強い椿の花だ。
家は所謂昭和初期の日本の家で母が茶華道の先生だったので庭には多くの花花が咲く。
大輪の椿の向かい側にはこれまた美しいピンク色の椿の花が満開なり。
庭の処処にはハナニラの白い花花が群れて咲く。
ソノ香りを嗅いでみると意外にも髙尚な香りとの感じを受けた。
されど残念ながら今年利休梅はほとんど咲かず。
木を良く見るとこれはすでに年老いたのだらう。
「實存」とはまさにかうした時と場による藝術=美のことなのだ。
その意味で確かに自然は藝術=美たり得やう。
けれども其は作為的なものなのでは無い。
よって其は繪画や音樂とは元より異なる。
繪画や音樂や詩は結局ニンゲンが創る美の世界のこと。
でも自然はどうも其れとは違い言わばより「静か」なのだ。
願わくば現代人がそんな静謐な世界と少しでも縁を保てますやうに。
現代人はおそらくすでに心がガサガサに干からびて居るのさ。
さてもかの宮澤 賢治は花巻の農學校に花壇をこしらえる程に花花を愛した。宮沢賢治さん設計花壇 - 花巻ビュー
のみならず賢治は石の世界をも同様に愛した。(そんな地質學、土壌學こそが彼の専門分野である)
あれワタシはひょっとすれば彼宮澤 賢治の生まれ變わりなのか?
でもまあ違うでせう其れは。
どだい君は美しい詩的世界によりにより「ウンコ」と常に書きたがる。
でもまあソコが君の心の純粋さの現れなのかもしれないね。
いいえそんなものではなく單に周りを「ウンコ」並みに扱っとるダケのこと。
相不變ノブナガだのう、オメエはよ。
とのことでまるでとりとめの無い作文のやうで居て今回私は新たな形での藝術作品をものしてみせた。
おおまさに其が「實存的時間」としての小宇宙の様のことよ。
つまりはソノワタシが「ウンコ」をし郵便物を取り庭に咲く花花を眺め部屋へ房る迄(全部で拾分程)の内面の記録を行ったとのこと。
すると其が小宇宙としての拡がりを持ちつまりはソコから何でも出て來るのだし宗教や藝術などの本質的議論もまたソコに可能となる。
要するにそんな「實存的価値」に就き語ってみた訳だ。
尚宮澤 賢治氏もまたそんな小宇宙の所有者=詩人でした。
おまけに世に認められし大詩人です。
ですが詩人としての本質に大も小も無くまた超有名だらうが無名だらうがはたまた自称だらうがプロだらうがまるで関係の無いことです。
即ち小詩人だらうが何だらうがまさしく彼はそんな小宇宙の所有者ぞ。
ソノ所有との意味で實存とはまさに「有」なのだ。
「詩人」
確か小学六年生の頃でしたが國語の教科書に獅子文六 - Wikipedia氏の作品が出て居てソコに「昇る朝日と沈むタ陽」のどちらを選ぶかが詩人であるか否かの分かれ道だと云うやうなことが描かれて居た。
さうソコには「昇る朝日」を選ぶ少年と「沈むタ陽」を選ぶ少年とが登場し「沈むタ陽」を選ぶ少年コソが詩人肌の人だった。
當時より自分は「昇る朝日」なんて何やらヤル氣が有りまぶしくて嫌いで趣の有る「沈むタ陽」の方をずっと晀めて居たいと思ったものだった。
ソノ頃自分は頭の良い優等生で何もしなくても所謂子分が出來つまりはさう取り巻き連中にいつも囲まれて居た。
でもってして坦任の先生からも壱目置かれるやうな小供だった。
されど體育以外はオール五の通知表にはかう書かれた、曰く「積極性」に欠ける。
今でもヤッパリ「旭日旗」よりは「革命旗」か又はアナキズムの「黑旗」の方が性に合う。
さう「詩人」であるか否かは生まれ付きに決まって居るものです。
またニンゲンの持って生まれた性質は生まれてから死を迎える迄實は變わらない。(肉體も精神もさう)
よって其は選択では無くあくまで本性のことだ。
さう本性として生身で詩を生きることの悦びと切なさとが常に我に有れり。
ちなみに中学時代に國語の教科書に載って居たのがこちらの「ティアフル・アイ」の花壇でした。
當時から私は宮澤 賢治の理想主義に對し深く感じ入って居た。
けれど宮澤 賢治の作品を具に読み込んだのは賢治の全集本を得て以降で主に参拾代のこととなる。
中でも特にわたくしは賢治の文語詩の方に惹かれた。
大筋としてはむしろ文語詩の方が暗い感じである。
丅度あのゴッホの繪は初期の頃の作品がまさに暗い感じでもあるやうに。
さう藝術作品とは仄暗い何かより発する何かだ。
故に「旭日旗」や「戦鑑マーチ」は基本的に似合わぬ。
賢治は然し晩年に自らの理想主義を悔いて居た。
さう理想主義者は理想の為に生き妻子やマゴを持てぬ。
妻子やマゴがコノヤバい21世紀に要るかと言えば多分要らん。
だけれども賢治はやっぱし少なくとも五捨歳位迄は生きたかったのじゃらう。
だが待てよワシは今年何歳でしたか?
確か67歳だったかな。
ひえーそりゃもう詩人としては限界ですぜ。
あれさうなの?
ボクは今年からちゃんと詩を書きたいのですがソレがもう遅いの?
やっぱボンクラ詩人は長生きするダケかい。
結局本日の作文は内容が起伏に富みやう分らんやうな類のものでした。
だが詩人の本質とはまさにそんなものよ。
詩人さん、ではボクら凡人は妻子やマゴの為に生きればイイのだと?
イイのだと?ってソレしかやれんだろ君は何ぞゲージツでもやれるのか?
いえ出來やしません、ワタシはこんな壱営業マンですっ。
まーたそらー偉い!
おみゃーにはソノ営業マンが實際向いとる、さう惡どく金を稼ざコノ21世紀にあえて妻子やマゴを養え。
だがワシはたったイマココで独り遊んで暮らす。
だって其こそがつまりはソノキリギリス振りコソが詩人の本音であり正體なんだからー。
ーキリギリスはやがて食えなくなり倒れる。つまりはソレがソノ放蕩振りの報いなのさ。ー