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「始皇帝 天下統一」を視聴し思うことー+荀子の思想に就いてー

始皇帝 天下統一」を視聴し思うことー+荀子の思想に就いてー

 

 

 

 

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さてわたくしはたった今中國の歴史を是非學ぶ積もりでこちらの映画を視聴して居る。

個人的に此の作品への評価は「☆☆」となる。

 

まさにこちらはそんな素晴らしい映像作品となる。

 

ソノ感想としてまずは中國と云う國としての歴史の長さやスケールの大きさと云うことを知らされるやうな気がした。

さうどうも🗾と云う國と中國と云う大國との立ち位置の違いのやうなものをまずは感じたのである。

 

尤もココ🗾國はかって東洋の盟主として欧米人による亜細亜支配を開放せんとして頑張っては居た。

個人的にソノことに反對はせずむしろ其れは東洋の歴史としての必然であったことかともまた思う。

 

故にわたくしはバリバリの左翼では無くむしろ右翼的な亜細亜主義者でもまたあるのだ。

故に本來ならばソレは中國が盟主となり行わねばならぬことでもまたあった。

 

なんとなれば鎖國以前の我が國に取り中國はむしろ文明としての御手本其のものだった。

我が國はさうして中國の属國のやうな存在でもまたあった。

 

ソレが何時の間にか立場が逆転し中國は征服されてしかるべき國だとの認識が醸成されて行く。

だが其れは明らかに變な認識である。

 

だが當時我が國や独逸はそんな夢幻の如き「大日本帝國」や「第参帝國」との國是を振り翳し世界征服をこそ企てて居たものだった。

されど「大日本帝國」や「第参帝國」との國是が實現しないのはおそらくソコに「無理」が有り過ぎたからなのであらう。

 

「無理」即ち観念的飛躍がソコに盛り込まれ過ぎて居たことだらう。

 

勿論「大日本帝國」や「第参帝國」がもしも成って居れば世界の現代史はまるで異なるものとなった筈である。

大日本帝國」や「第参帝國」が成って居た方が或いはより良い現代世界が築けて居た可能性などもまた無いでは無い。

 

だけれども所詮ソレは成らなんだ歴史過程のこととならざるを得ぬ。

でもって🗾と独逸、また伊太利亜の敗戦によりそんな理想主義的な帝國主義には終止符が打たれソノ代わりに合理主義的な大國の論理が激突したのがかの東西冷戦となる。

 

ソノ東西冷戦にてまず考えて置かねばならぬのはまさにソレが唯物領域での對立であり競争だったとのことなのだ。

即ち所謂「唯物史観」と「資本の論理」は共に唯物主義的な進歩思想に於ける對立概念として規定し得ることだらう。

 

要するにソレが進歩主義としての合理化闘争であり合理化戦争の如きものだった訳です。

またつまりはどちらもが「進歩」概念としての極を歩むものであった訳です。

 

 

なので結果として「社會主義」と「資本主義」はまさに兄弟のやうなものとなる。

ソレが全く違うものだと云う考えはむしろ誤りであくまで身内の體制の右と左であるに過ぎぬ訳である。

 

ところが壱般にはむしろソノことが誤解され「社會主義」は自由無き全體主義體制であり「資本主義」は自由を尊重するであらう進歩の體制だなどとも考えられ易いが其のことは元來さう決め付けられぬこととなる。

 

例えば逆に「資本主義」に於ける「資本の論理」が全體主義化したのが所謂「グローバル資本主義」の世界となる。

故に「グローバル資本主義」では経済的格差がより顕著に生じ搾取の度が最大限化する訳ですのでつまりはソレが資本による封建體制樹立の顕著な例となる。

 

ソレに對し共産党壱党独裁國家にて屡行われ易いのが所謂「権威主義的」な封建體制の樹立となる。

つまりはさう先進的な経済的システムに限り自己矛盾し逆に封建的秩序をこそ形成して行くこととなるのだ。

 

だがソレでは「社會主義」と「資本主義」により現代社會が救われることには元よりならない。

まさにソノ「封建的秩序」への逆行を阻止しない限りは現代社會が救われることには元よりならない。

 

 

さて「始皇帝 天下統一」は要するに大國である中國の統壱への道程を描く作品となる。

またかっては我が國でもソノ「天下統一」への道程が尾張三河の参英傑により行われたりもまたしたのである。

 

兎に角さうしてバラバラなものを纏め上げるつまりは中央集権化し最終的には「國」と云う體制を築き上げることこそが文明諸國に於ける最大の課題となる。

ところが権力を集中させ國を治めて行くとやがてはソノ権力が暴走するに至り「帝國主義」なる「全體主義」をもまたソコに生み出すに至るのが歴史の上での必然の過程となる。

 

故にソノ権力を解體若しくは分散させ所謂「脱ヒエラルキー」化を図るのが元來左翼としての論理となる。

よって「社會主義」や「民主制」は元來ソノ「左翼」としての論理其のものなのだ。

 

ところが多くの人人は「壱党独裁」と「民主制」がまるで逆方向のものであるとさう認識することだらう。

だがソノ認識こそがそも誤りである。

 

正しくは「壱党独裁」と「民主制」は共に體制としての進歩主義のことで要するにソレは唯物論的社會的合理化の手法としての弐極のこととなる。

故に共にソノ本質的意義にはー権力を解體若しくは分散させ所謂「脱ヒエラルキー」化を図るーとの価値こそがソコに刻まれて居やう。

 

1.さう「社會主義」と「資本主義」はむしろ兄弟

2.さう「壱党独裁」と「民主制」はむしろ兄弟

 

以上の解説にて近代的な政治思想に於ける基本構造を述べてみた積もりである。

ところが實際には前近代的な所謂封建體制が其れ等の進歩思想と並置される形で常に存在することだらう。

 

例えばココ🗾では左様な意味での「封建制」こそがいまだ尊ばれて居る。

尤もソノ「封建制」では「王」及び其の側近に政治権力が集中するが故に例えば百姓は何時迄経ってもソノ百姓の侭だ。

 

しかも最近は物価高にて我が國に確實に「水吞み百姓」が増えて居る。

 

おおまさに「水を飲んで飢えを凌ぐ」とのそんなまるで奴隷以下、奴婢以下の人権侵害の様が大手を振り行われておる。

また政府はそんな「水吞み百姓」に毎日🍱を配れば良いのにまるで其れをしない。

 

おまけに最近はまた余計に円安にして置き「富國」のことばかりに捉われて居る。

馬鹿者!そんな「富國」では無くまずは「強民」ぞ。

 

だからこれからは是非毎日都會の公園でもって🍱を配らう。

さてもワタシは毎日ソレを貰いに行く積もりだ。

 

ソレも出來得れば参食分を貰いたいとさう思います。

尚是非魚は抜いてコロッケとか肉塊とかさうしたものを是非入れて下され。

 

 

ソノ始皇帝 天下統一」には秦の使者が國を治めんが為に學者を求め「荀子」の學堂へ出向く場面が出て來る。

個人的にソノ荀子」の思想こそが好きである。

 

ー勧学篇は、「は以て已(や)む可からず」の語から始まる。人間は終生学び続けることによって自らを改善しなければならないと説く。ー荀子 #思想- Wikipediaより

 

ニンゲンはむしろ死の瞬間迄「御勉強」せねばならん。

つまりはさうして「理性」としての闘いを決して止めてはならん。

 

またソノ闘う理性體として常に意思決定をせよ。

くれぐれも感情論などで小池 百合子をまた選ぶなどしては決してならぬ。

 

ー王制篇や富国篇等では、治政にあたって実力主義成果主義の有効性を説いている。王制篇では、王公士大夫の子孫といえども礼儀にはげむことができなければ庶民に落し、庶民の子孫といえども文芸学問を積んで身の行いを正して礼儀にはげむならば・士大夫にまで昇進させるべきことを説く。荀子 #思想- Wikipediaより

 

ニンゲンには生まれつきの能力の差がまた有る。

逆に言えば努力してもやれないニンゲンがまた多く居る。

 

やれる人は役に立つがやれぬ人は如何に身分が高くても役には立たぬ。

だがやれぬニンゲンは水吞んで死ねと云うことでは無くたとえやれぬニンゲンでも生きられるやうにするのが社會の責務となる。

 

 

荀子は人間のを「悪」すなわち利己的存在と認め、君子は本性を「偽」(人為的なもの)、すなわち後天的努力(すなわち学問を修めること)によって修正して善へと向かい、統治者となるべきことを勧めた。荀子 #思想- Wikipediaより

 

さうニンゲンは惡い。

確かにそんな邪惡なる現象なのだ。

 

故にまずは學ばねばならぬ。

故にまずは自らの惡を悟らねばならぬ。

 

故にニンゲンを反省し最終的にはニンゲンを辞めよ。

周りに従わずまずはソノ内心の声にこそ従うべし。

 

 

ー富国篇で、荀子は人間の「性」(本性)は限度のない欲望だという前提から、各人が社会の秩序なしに無限の欲望を満たそうとすれば、奪い合い・殺し合いが生じて社会は混乱して窮乏する、と考えた。それゆえに人間はあえて君主の権力服従してその規範(すなわち「」)に従うことによって生命を安全として窮乏から脱出したと説いた。このような思想は、近代西欧に先行した最古の社会契約説であるとも評価される[3]荀子 #思想- Wikipediaより

 

ニンゲンの本性がそも際限無き欲望にこそあるのだからソレを社會的に認めればニンゲンはもはや破壊されて行くことしか出來ぬ。

故にこそ「制限」が必要でソノ制限のあり方に弐種が有る。

 

3.封建的制限ー王権への服従

4.近代的制限ー革命的制限ー

 

わたくしは現在「革命」とはむしろ権利の「制限」だとさう捉えるやうになって居る。

さう「市民革命」にせよまた「社會主義革命」にせよ實は権利の無制限の拡張のことでは無くまさに「生存権」の付与のことなのではないか。

 

生存権」の付与とは元より近代的ニンゲンとして最低限与えられる幸福追求権のことであり何も自分が偉くなり贅沢が常にしたいとかさう云うことには非ずして。

だから最低限生きられるやうな世界を築くことは近現代國家としての義務でありまた責務である。

 

ソノやうに荀子が生きた時代とはまた異なり「王」は居らずとも「制限」を築くことが逆に可能となったのである。

 

 

荀子は規範(「礼」)の起源を社会の安全と経済的繁栄のために制定されたところに見出し、高貴な者と一般人民との身分的・経済的差別は、人間の欲望実現の力に差別を設け欲望が衝突することを防止して、欲しい物資と担うべき労役を身分に応じて各人に相応に配分されるために必要な制度である、と正当化する。荀子 #思想- Wikipediaより

 

コノヒエラルキーの形成及びソレの継続との部分こそがとりあえずは儒家の思想家である荀子老荘思想をも齧った自分の考えとの最大の相違点となる。

 

ー天論篇では、「」を自然現象であるとして、従来の天人相関思想(「天」が人間の行為に感応して禍福を降すという思想)を否定した。

流星日食も、珍しいだけの自然現象であり、為政者の行動とは無関係だし、吉兆や凶兆などではない。これらを訝るのはよろしいが、畏れるのはよくない」。

「天とは自然現象である。これを崇めて供物を捧げるよりは、研究してこれを利用するほうが良い」。

また祈祷等の超常的効果も否定している。

「雨乞いの儀式をしたら雨が降った。これは別に何ということもない。雨乞いをせずに雨が降るのと同じである」。

「為政者は、占いの儀式をして重要な決定をする。これは別に占いを信じているからではない。無知な民を信じさせるために占いを利用しているだけのことである」。

荀子 #思想- Wikipediaより

 

あくまでソノ「儒家」の思想家である荀子であるが實は近代思想家の如くにむしろ「合理主義」者となる。

荀子の思想は當時からすればむしろ進み過ぎておりよって大きく評価されることが無かったものと考えられやう。

 

ー江戸時代を通じ日本儒学の主流は朱子学、あるいはそれに対抗した陽明学であり、いずれも孔子孟子は評価したが、荀子への評価は高いとはいえなかった。久保愛も『荀子増注序』においてこの書を天下で知る者は少ない、と嘆いている。ー荀子 #後世への影響- Wikipediaより

 

特にココ🗾では荀子の思想はむしろ無視され続けて來たやうだ。

要するにソレが「鎖國體制」の為の思想では無かった為なのだらう。

 

中国・現代

近代に成立した中華人民共和国にも影響を与えており、建国の父である毛沢東による批林批孔運動での「儒法闘争」でも再評価の対象であった[10]

特に習近平荀子に深く傾倒しているとし、文化大革命陝西省下放された際に全巻を読破したとも言われる[11]。最も引用しているのもその弟子の韓非であり[12]社会信用システムのような習近平の徹底したメリトクラシー的な統治方法は法家に喩えられている[13][14][15]荀子 #後世への影響- Wikipediaより

 

さてかの習 近平 - Wikipedia閣下は左様に荀子の思想に深く傾倒して居られる。

であるからこそわたくしの考えともまた相性が良い。

 

でもって始皇帝 天下統一」にはソノ思想家としての荀子が大きく取り上げられて居るがなる程ソノことは國家主席の意向をも反映したことであるのやもしれぬ。

 

さて思うに荀子の思想はまさにニンゲンをハナから信じて居ないと云う点でまずは「合理的」で且つ「近代的」なものとなる。

但し當時「革命」思想のやうな近代的思想は遥か彼方のことだったが故にソノ荀子の思想の合理性もまた封建制の上での合理派としかならぬのだ。

 

しかしながら荀子がもしも現代に生を受けたのであれば彼は近現代思想としての共産主義思想をすぐに理解することだらう。

また問題はソノ現代思想としての共産主義思想に有るのでは無くさうして何時までも封建制をやり相變わらず何も變われないココ🗾の體制のあり方にこそ存するのであり要するにまさにソレが「全體主義による洗脳」なので🗾の皆様は今後ヨクヨク気を付けて置かれる方が良いとさう個人的には申し上げるばかりなのだ。