目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

科学者にはどうしてもリヤカーを引いてみて頂かねばならぬ


まあリヤカーに就いては現在では各種取り揃えて出て居りどんなものでも選べますのでまさにこれからの科学者の方々にとっての必須のアイテムかと存じます。リヤカー


尚科学技術文明の価値に関しては数々の難しい問題が存して居ることかと思われる。



どだい科学技術とはどんなものであるのかと云う其の定義自体がまず難しいです。


ですが、いざ人間の心の面から見ていきますと其れが実はそれほど難しい問題ではない。



其処でズバリ言えば合理主義を止めるか或は意図的に抑えていけば何とかなる話なんです。


が、ハッキリ言って其れこそが難しい。


何度も申して来て居りますが合理主義とは欲望の権化のことなので抑えなければいけないことだと云うのに欲を抑えられない訳です。


尚合理主義も全体主義化致します。


逆に昔の体質の部活動などで水を飲むなと言ったって気温が40度もあれば勿論冷たい氷水で体を冷やさないと死んで仕舞います。


即ち其処で精神論は通用しない訳です。


ですが禁欲と共に過分な欲も無論のこといけませんな。



仏法で戒められて居るのはまさに其の禁欲と過分な欲の領域のことです。


そして欲望にはキリが無いのでバランスを取った上でどこかで歯止めをかけていかねばならない。


なのに現代文明の価値観は其のやうな限定の思想を基本的に理解出来ない。



其れは西欧近代の思想の誤謬そのものでしょうが元々其の西洋の思想、或いは中東の方での思想が悪かったとはわたくしは思わない。


事実初期のキリスト教での考え方は正しい。


然し宗教改革以降のキリスト教の変容が近代に於ける諸の破壊を齎して居るであらうことも否めない。


だからかのジョン・レノンはイエスは正しかったが後がダメだったとさう言い残して死んでいったのです。



即ちキリスト教の矛盾過程としての近代は精神を失う方向へと歩まざるを得なかった。


ですので科学とは其の心なきもの、精神を欠いた何ものかなのです。


従って科学とは人間の内面の記録の過程でもある。






「科学の性質や規則性,真理などは,人間に無関係に自然の中に存在するものではない。自然の性質や規則性は,人間が見通しとして発想し,観察,実験などにより検討し承認したものである。つまり,自然の性質や規則性,真理などは人間の創造の産物である。」 以上より引用


此処で北村先生はこうした考えがおかしいとむしろ述べられて居る訳です。

対する私の考えは、むしろある程度はこうした考えを認めて行かざるを得ないのではないかと云うものです。

何故なら科学万能主義は科学其れ自体に絶対性を付与して仕舞う。

ですが科学が大矛盾を抱えたものであること位たとえ大衆でも今は分かります。

科学はヤバいと感じて居られる人々も或は二割ほどは居られるのかもしれない。

まあ利口な人に限る訳ですがね。



自然界には確固たる法則性が認められるが其れを法則化した途端に観測者或は規定者としての人間の主観によるバイアスがかかり法則自体が人間による創造物となって仕舞うと云う事です。

つまり限りなく人間の主観領域での営為となって仕舞うのです。

そして其の創造主は神ではなくあくまで人間です。

尤もわたくしは必ずしもさうは考えませんがむしろさう考えて置く方が科学の暴走を食い止める為には実質的に有効な手段ではないかとさうも思います。



(彼等の中には「学問と政治理念は不可分である」という信念を持つものが少なくない。彼等は「虐げられてきた人々の権利を守り,彼等の正しさ」を主張する少数グループの人権擁護論者,女性特有の学問をすすめる女性学者,アフロ中心主義者,先住民族の文化,風習を研究している文化人類学者,ポストモダニスト達が含まれていた。彼等は「現代の社会を支配している文化は文芸復興以降のヨーロッパの資本主義的な,白人中心の人種差別概念,男性中心の性差別概念の上に作られた文明である。すべての人を幸せにするには,この現代の文明体制を形成している政治的,経済的,社会的そして文化的Institutions(機構,制度)から権威を奪わなければならない」と主張する。このInstitutesは啓蒙思想,科学的思考,理性と論理で特徴付けられる現代を支配しているのであるから,ポストモダニズムはこれらをも否定するのである。従って彼等の思想は単に非科学,非理性的ではなく,極めて積極的,攻撃的な反科学,反理性的なのである。

 このように彼等は,非常に強い政治的動機から学問を見ている。この見方を彼等は「PoliticallyCorrect(PC);政治的妥当性」と表現している。彼等の多くはかっての学園騒動の時の闘士でマルキストだった。彼等は科学を含めてすべての事柄を,一つの歴史的原理を規範として評価していた。しかし,社会主義国家も,社会主義経済もうまくいかずかっての勢いを失っていった。科学的歴史主義を標榜するマルクス主義に幻滅した彼等は新たな理論的拠り所を必要としていた。それが社会正義を求めるアカデミックな運動となったのである。科学主義から離れた彼等は,"客観的真理"からも離れていった。従って彼等は「真理は存在しない。そこには時代時代の社会を支配する勢力が作り上げた真理があるに過ぎない」と主張し,真理を追求はせず,社会的,政治的により優位に立場を求めようとするのである。彼等には力の論理,つまり政治的論理しか意味がないのである。そして彼等のよって立つ基準というのは,「真理」ではなく相対的な,観念的な,極めて主観的な自己正当化された直感的主張に過ぎないといえる。彼等はレトリックを駆使して歴史学的観察,認識論的考察から彼等の主張の妥当性を示そうとしているが,通常の意味での「真理を認めない」彼等が自己の主張を正当化する理由を聞いてみたいものである。
 しかし,彼等にとってどうにも我慢のならないものが一つ存在した。それが科学そのものである。科学の理論と観測,実験事実との一致,確実な予測能力のゆえに科学は現代社会における揺るがぬ地位を与えられている。しかも科学の素養のない大部分の彼等にとり,科学は近づくことさえできない領域であった。その彼等に利用できそうなお誂え向きの理論的根拠が見つかったのである。それがクーンのパラダイム論であり,9)フランスのポストモダニズムであった。真理ではない人間の造りごとである科学を理解する必要はなくなったのである。
 コペルニクスの太陽中心の宇宙説が出されたとき,この説もそれまでのプトレオマイオスの地球中心宇宙説も共に天体観測とよく一致することは認められていた。そしてコペルニクスの説も天文学の教科書で紹介されていた。ただそれは「数学的に正しいが,哲学的には誤りである」という注釈がついていた。10)このコペルニクスの説とローマ教会公認の伝統的な宇宙説との論争については優れた解説がある。力学的にはともかく,運動学的には共にありうる見方であり,その意味でクーンと共に「当時としては(数学的には;著者注)共に正しく,哲学的にはプトレオマイオスの説が正しいと決めたのは教会である」と見ることができる。11,12,13)しかし,クーンは,この科学革命の"見方"を普遍的なものとして"パラダイムの転換"という考えを提出した。9)彼等はこのクーンのパラダイム論を,「真理というものは存在しない。科学の主張する真理でさえも真理ではない。科学の考えは人間が創り出したもので,時代の力関係で優劣がきまるものであり,従って時代と共に変化する。(動的な科学観)」という主張に利用したのである。 ) 以上より引用

   



確かにわたくしはかってポスト・モダニストだったゆえ基本的な立場としてはあくまで反科学であり反理性なのです。

ですが其の中での大きなパラダイムに於いて次第に変わって来た部分がありたとへば少数グループの人権擁護論にはむしろ反対なのですし、それにそも女の知性などはそも信用して居ないのだし、さらに相対主義は是非止めて神仏の秩序或は大自然の摂理が規定するところでの絶対領域にむしろ帰るべきではないかと云う考えにさへ到達して来て居ります。



(従って彼等は「真理は存在しない。そこには時代時代の社会を支配する勢力が作り上げた真理があるに過ぎない」と主張し,真理を追求はせず,社会的,政治的により優位に立場を求めようとするのである。彼等には力の論理,つまり政治的論理しか意味がないのである。そして彼等のよって立つ基準というのは,「真理」ではなく相対的な,観念的な,極めて主観的な自己正当化された直感的主張に過ぎないといえる。) 以上より引用


ポスト・モダニスムが陥った重要な精神の上での矛盾領域が其れ即ち相対地獄によるニヒリズムとしての領域でした。

其処に於いて真理を相対化して得られる価値など実は何も無くむしろ諸価値の破壊だけが現象として残る訳です。

ですから今は逆に真理があると考えた方が様々なものに一本筋が通って社会的にもうまくいくやうにならう。



第一ポスト・モダニストは馬鹿者!だとか女は腐って居るぞ!とかそんなことはまさか言わないことでせうから今やわたくしがポスト・モダニストだとはとても言えない。

でも充分に反理性的であり反科学的なのですがね。

それも實は非常に理性的であるにも関わらずあくまでさうなのですね。

なので必然としてわたくしは人文主義による理性的展開を重視するに至った。

人間にはそちらの知による抑制力が元々備わって居り其れをこそ重視すべきである。

平たく言えば宗教の智慧や文學や哲學の方の知恵を重視すべきであると云うことです。



尚北村先生はあくまで科学そのものを独立独歩としての真理領域として規定されておかれたいやうなのですがわたくしは其れは少し違うのではないかと考えます。


何故か?

事実上すでに科学万能主義は破綻して居るからです。

わたくしはほんたうにタダの下品な自称詩人ですが其の位のことは分かる。

いや、今なら誰しもそんなこと位は分かる。

いや、でも分からないのかなあ。

何せ大衆の鈍感さと来たらまさに犬や猫に匹敵するレヴェルでもあるのでしょうから。



科学こそは矢張り相対的に規定されてしかるべき人間の内的側面でもあることでせう。

科学が客観的事実だなんて其れはまず何よりも違うことでせう。

確かに客観的事実に近いですが其れはあくまで近似値でありおそらくは自然そのものの法則性のことではない。

よしんば自然そのものの法則性であるにせよ其れをそのままに人間の社会に適用することこそが間違ひだ。



何でそんな間違ひが起こり得るかと云へば其れはホモ・サピエンスの頭の出来がそも悪かったからだ。

さうネアンデルタール人の方がずっと利口であった。-ただしネアンデルタール人ホモ・サピエンスの仲間として捉える向きもありますー



「これは非常に痛快な本であるが,同時に非常に我々の心を痛めるものでもある。真理を,従って実証的な科学と論理思考を否定することは,客観的な思考から主観的な人間中心の思考へと移行して行く。そして教養があるとされている知識人が,非科学的な,非論理的なレトリックに酔いしれて,非現実的世界へと入り込んでしまったことをソーカル達は嘆いているのである。さらにこのような"はやりの思想"は長い間にわたって,科学・数学教育に影響を与え続け,外国においても日本においてもその弊害が現われ始めているのである。」 以上より引用


「客観的な思考から主観的な人間中心の思考へと移行して行く」ことの弊害は確かに大きくあります。

たとへば其れが子宮思考のことです。

たとへ真に客観的な思考が成立し得ないのだとしても、其の腐った子宮思考へ全面的に移行して仕舞へばむしろ文明の破壊が加速して齎されるばかりだ。


ですが、部分的には子宮思考も是とされ得るのです。



第一子供が何らかの理由で死にそうだと云うのに父ちゃんはなかなか家に帰って来ない。
何故なら父ちゃんは仕事にかこつけて飲み会やキャバレーの女と遊びにいきたいからです。

或いはマニアックな父ちゃんの場合など城巡りの予定が狂うとか或は百萬の腕時計を買い其の返済で大変だからと云う理由でトンズラを決め込むものです。

然し元々男性は組織や家庭から逃げたいばかりであると云う真実をこそ社会は理解してあげなくてはならない。



第一昔の父ちゃんなんぞやれちゃぶ台はひっくり返すわ、やれ外に二人も妾をつくるわ、おまけにカネはびた一文も家計に入れぬわでまさに肉食獣、いや宇宙人か異世界の人そのものじゃった。

だからそんな父ちゃんの逃げに対抗し得るものは現実的な子宮思考だけです。

即ち利己的にあくまで利己的に生命を尊重するつまりは我が子の命は己が死んでも守り抜くと云う其の強い本能による意志のみです。



科学を客観的に真理を規定する存在として絶対化するとそも其の子宮思考が否定されて仕舞う。

おそらくはさういう考えは誤りです。


ですが現実上の問題は其の子宮思考の否定から齎されるものではない。

むしろ子宮思考の全肯定から齎されしものであらう。



(「その流行とはポストモダニズムと同じ流れにある"構成主義教育"である。その理念的な特徴は
「a)科学の理論や法則は科学者という人間が創造したものであり,真理ではなく,社会的に作られたもの(Social Construct)である。b)数学の「真理」も真理ではなくsocial constructである。c)いわゆる科学は時代の大勢(政治権力)によって受容されたものに過ぎない。」という主張に要約される。) 以上より引用



科学は正しいのか、正しくはないのかと云う視点で言えば残念ながら現象としての事実の上からも答えは出て居り明らかに其れは正しくはない。

ですが人間を豊かに暮らせるやうにした、或いは楽に生きられるやうにしたと云う視点からは科学こそがあくまで正解であった。


ただし其れは謂わば滅亡へと至る豊かさであり快適さであった。

其処にこそ科学の問題点が集約されて居りましょう。

尚真理に就いては、現在わたくしはこのやうに解釈して居ります。


壱、真理として規定されるべき概念は人間の理性の範疇を超えて居り従って其れはむしろ与えられるものである
弐、科学は真理にはなりやうがない、何故なら科学は幸福の追求どころか逆に人間を追い詰めつつある
参、社会の誤りが科学の誤りと等価でありかつ同時進行である可能性が高い



構成主義は非科学,非論理的思考を育てる教育なのである。

 このような訓練を受けた多くの教師が洗脳され,そして教壇に立ち,子供達の将来にとり良い影響を与えることができるであろうか。これは外国アメリカのことだけではない。文部省発行の"小学校学習指導要領解説:理科編"20)には「科学の理論は人間によって創られたものである」という科学観が述べられている。
 小学校学習指導要領自体からも"はやりの科学観"を伺い知ることができる。第2章各教科第4節理科の中で"科学的","規則性","理解","発見"という語が現われる頻度はそれぞれ1,5(5学年のみ),3,0である。「法則はないのだから発見ではなく,子供達が創るもの」というのが指導要領の基本姿勢である。」 以上より引用




非科学的かつ非論理的思考に与することはマズいことかと思われますがそうかと言って合理主義に傾くことが良いことであるとはまず言えませぬ。

わたくしの論理からは合理主義が何より悪者で破壊者と云う事になるゆえ反合理主義の立場を翻すことは出来ない。


ですが何でまたよりによって腐った子宮思考に戻らねばならぬのか、または腐ったやうな新興宗教団体の教義を見直さねばならぬのか、そんな矛盾に苛まれつつも兎に角合理主義批判を止めることなど出来ない。

何故なら合理主義による破壊がいまや大きくなり過ぎて居るからです。

そんな全的な破壊の過程に生きる位ならまさにカブトムシを助けてあげたり或は自分の子だけを無償の愛で包む子宮の奥の闇の渦にでもなる方がまだしもマシだと云う事だ。

ですのでそんなに科学的であること、或いは論理的であること、または計算ずくであることなどに拘らない方が良いのではないか。



実際さういうのこそが文學、其れも厳密に構成された小説ではなく一篇の詩であり即ち感性を伴うところでの気紛れの時である。


もうわたくしなどは酷く気まぐれでフラリと何処かへ出掛けてみたりで兎に角予定が立たずで滅茶苦茶になって来て居りかっての厳密な計画性、用意周到なところはスッカリ影をひそめほとんど自由人の世界に住して居る。


しかも立場的、時間的にも滅茶苦茶だ。

時に少年の頃に戻ってみたりまた急に今の自分の立場に戻ってみたりともはやほんたうに訳が分からない。

さういう意味では確かにわたくしは相対主義に毒されつつあるのであらう。


でも元々至極融通の利かない人間なのでどうも文學は融通と云うか余白の部分があっていいねえ、などと思いつつOFFの場合のみに限られるが自由気ままな日々を送って居ります。


正直申しますとわたくしはさうして縛られずに色んな所へ出没したり、或いはずっと部屋に閉じこもり哲學のやうな詩に挑んでみたりと云う自由気ままな立場をこそ好みます。

またさうではあるのに意外と四角四面で実は公務員的即ち官僚的でもあるんです。

きっと其れは父と母からの影響かなあ。


其のやうに正反対の要素を多角的に持ち合わせてみてはどうでしょうか。

だとすれば自然科学の理論ばかりではなく人文系、社会科学系の知恵も必然的に其処で必要となりましょう。

自然科学は其の人類の知の総体の中の一部分として認識されてしかるべきだ。


だから其れを自然科学者の方々に了解頂く為にはどうしてもリヤカーを引いてみて頂かねばならぬ。