目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

社会は何故シンポしなければならぬのか


所詮生きることとは其の価値ヒエラルキーの構築其のものでありコレは観念的に追求すればする程抽象化していくことなのだ。
其の逆に肉体的にも其の価値ヒエラルキーを追求することは出来やう。


スポーツの世界が其の肉体的な価値ヒエラルキーの追求なのだとすれば其れは観念的に追求されし価値ヒエラルキーの世界とはまた別の汗と涙とど根性の世界を有して居る筈だ。


だが其の汗と涙とど根性に限り若ひ頃わたくしは嫌ひでむしろさうしたバカ追求は止めておくべきだと考へて居りのみならず兎に角動きたくない、其の観念の世界に固着して居たひとの一念から実はさう決め込んで居たのだった。


ところが具象的事実と云ふことこそが実は人間のタマシヒを揺さぶる。


いやむしろ具象的事実としての闘争やエロス、其の他の雑多な物語こそが人間の心を揺さぶる。



かように人間の心には両面の働きがありむしろ誰も他方の価値を否定など出来ぬものだ。


だが普通人間は逆方向での価値を理解し認めることなど出来ぬ。


事実左翼は右翼を理解出来ぬのだし酒嫌ひは酒飲みのことなどまるで理解出来ぬ。


また女嫌ひは女たらしのことなどまるで理解出来ぬ。


宗教嫌ひは宗教フェチのことなど理解出来ず宗教なんか無くなれば世界はもっと良くなるなどとも考へて御座る。



兎に角肉体の世界は観念的な価値ヒエラルキーの世界とはまた別箇の価値観に基づき営まれておる。


だから仏教の教理に於ひても肉体性、即ち行為の力、煎じ詰めれば現象の力を軽視するどころかむしろ重視して居る。


特に禅家に於いてはさうだ。



禅即行動、などとも屡説かれ観念的分別智の解体乃至は滅却が禅としての最終目的ともなり得るのだ。


が、肉体的価値ヒエラルキーの世界は勿論其のままでは煩悩の申し子であることからは免れ得ぬ。


然し二元的価値ヒエラルキーでの対立は元より此の世の常のことなので其れをどうにかしやうとしたとしてもすでにどうにもならぬ。



其は丁度男と女の違ひのやうなもので元々違っててどうにもならぬものなので其れは受け容れられぬ、理解など出来ぬので捨ておいて置けと云ふのが最近のわたくしの精神的なスタンスなのだ。


また思想の違ひ、などもまるで受け容れられぬ、理解など出来ぬので捨ておいて置けと云ふのが最近のわたくしの精神的なスタンスなのだ。


捨てると無視すると云ふのはまた違って捨てると云ふのは謂わば其の対立の土俵を去ると云ふことなのだがむしろより根性は悪ひ。



根性は悪ひが否定ではなくまた受容でもなくまさに常に無関心であり無縁であるべきだ。


でも其れでは人間ではなくなる訳なのであへて嗚呼、とかおお、とかそんな感嘆を発してとりあへず其の都度人間の方向へと戻って居る訳だ。



かように運動ー行為ーは美しくむしろさうであるがゆえに醜ひ。


動植物は美しくむしろさうであるがゆえに醜ひ。


人間の内なる動物は美しくむしろさうであるがゆえに醜ひ。



ところで人間が動植物と違ふ点は何か。


言ふまでもなく動植物はシンポをしなひ。


進化はするが進歩はしなひ。



では其のシンポとは何か。


シンポとは人間に固有な癖で築ひた価値観を常に更新していくことだ。


特に革新的価値観に於ひては其の破壊と創造の面が著しく見られやう。



わたくしはコノ所謂進歩史観がまるで理解出来ず其の点でこれまで随分苦しめられて来た。



進歩史観(しんぽしかん、: progressive view of history)は、歴史を人間社会のある最終形態へ向けての発展の過程と見なす歴史観。例えばホイッグ史観では、現体制を理想の最終形態とし、過去の歴史をこの現在の体制に至るまでの漸進的発展と見なすことで現体制を正当化する。一方、唯物史観では未来に最終形態である共産制を設置し、現在の社会をそこに向かう途中の一時的な段階であると解釈する。西欧ではキリスト教終末思想に端を発し、18、19世紀の啓蒙時代に広く唱えられた。 オーギュスト・コントヘーゲルマルクスらが代表的である[1]

一般に一つの目標に向かう定向進化を唱る点でダーウィンらが唱えた生物種の進化などとは性格を異にする。ー以上より引用ー


なる程、どうやら其のシンポとは近代社会に於ける基本形態のやうです。

即ち保守にせよ革新にせよみなコノ進歩史観の信奉者なのだ。


ところが其れは所謂進化とはまた別物である。


謂わば進化は生命に於ける変化なのだが、シンポは社会に於ける変化そのもののこと。


だけれどもシンポなんてもう要らねえって。


などとつひ言っちまいましたが別に全否定して居る訳では御座らぬ。


あくまでわたくしにとり無関心であり無縁なのだ。




ではあなたは一体何を奉じてコノ近代と云ふ時代を生きて居られるのだ?


だから何も奉じてねえって。


我に関心があるのは美のみで他は何も関心ねえって。



其の美に女は含まれませうや?
だから女なんぞまるで興味ねえって。


タダドレイ女には大ひにご執心だ。


ドレイ女即ち食ふことと下の方の世話をする女のこと。


即ち「婢女」のこと。



進歩史観とは畢竟其の観念的価値ヒエラルキーの追求であり最終的に其れは現象としての肉体性を離れていくことだらう。


謂わば其処では観念化の度が甚だしくなり社会的形態、即ち理想の社会への希求が過ぎる余りに人間としての実存的肉体性を離れ肉体自体が抽象化されるに至ることだらう。


然し其の抽象的価値の追求は最終的に破壊しか齎さぬ。


破壊即ち地球温暖化による破壊でありまたは生態系の破壊であり酸性化による海洋の破壊である。



つまり体制はいずれのものとならうともいずれにせよ破壊を齎すものであることはまず間違ひなし。


共産主義だらうが資本主義だらうが其の進歩史観を奉ずる限り破壊は免れぬ。



前々から述べて居るやうに其の破壊には内面的なものと外面的なものがありほんたうに怖いのはむしろ内面的な破壊である。


内面的な破壊はいずれにせよ人間にとって不可避のものだ。


内面的に破壊される即ち心がブチ壊れると人間はもはや地獄へ堕ちる他なくなる。



だから今まさに地獄に堕ちつつあらう。


実際今もう地獄なんで何やったって救われぬ。


死んだサッチーなどもはや戻らず手をつけた女はいつまでも何処までも君の眷属だ。


政治は劣化し宗教は腐敗し金持ちばかりがのさばるコノ社会はどこかがおかしひぞ。



一体何がおかしひのだ?


そも其のシンポ史観がおかしひ。


即ち近代自体がおかしひ。


近代止めろ、近代なんか止めちゃえ。


近代など続けてもロクなことはなし。


理想の社会の建設なぞちゃんちゃらおかしひぜ。


むしろ其の理想論を捨て去ることこそが真の理想だ。


さう理想とは捨て去ることだ。



でも受容すると言ってただらう、つひこないだまでは。


受容即否定。


否定即受容。



何言ってるかまるで分からん。


言ってることがややこし過ぎもはやついていけない。



いや、むしろ至極カンタンなことだ。
君は生きておるか死んでおるか。


生きておる。


では肉体を持ってるだらう、其のキタナイ肉のカタマリを。


汚くはない。


ところが其の美しひ君の肉体が壊されかかっておる。
のみならず君の精神、其の清く正しく美しひ精神さへもが壊されかかっておる。


であるとすれば君はどうするのだ、タダさうしてのっぺりとしたこんな生活に甘んじて居て良ひのか。


では革命でもすれば良いのか?


革命には非ず。


断捨離の方だ。


近代の断捨離のことだ。



サアたった今より近代を捨て去れ。


とまでは言わぬが少なくともシンポ史観に疑ひを持つのだ!



実際シンポ程下らぬものはなし。


でも進化は必然としての事実だ。



シンポと進化はまるで違ふわ。


進化はダーウィンでもって、またシンポはヘーゲルでもってヘーゲルの言ってることなど少なくとも我には理解出来ず。


でも進歩してる方が良いのは事実だ。



事実家電製品も車もみな性能が上がりしかも壊れなくなってる。


そりゃさうだよ。


女なども皆スタイルが良くなり昔より性能は良いよ。


でも心が悪ひよ、性悪だよ。



たとへば最近は女子高生に立派な大人が騙され酷ひ目にあったりする。


神社で殺人があったり僧侶が不倫したり高齢者の殺人運転でもって多くの人が死んだりもしている。ーかってわたくしが予測した通りにー


みんなみんな心が悪ひよ、利己主義が蔓延し宗教の役目が機能を果たさなくなったからだよ。



ではどうしたら良いんだ?


どうすればかの心の地獄から救われるのだ。



だから近代を止めよ。


資本主義を止めよ。


さらに共産主義を止めよ。


でも止められぬだらう?


言ふまでもなく君等には絶対に止められぬのだから出来ることだけを教へてあげやう。


其れ即ちシンポ史観に疑ひの眼を向けよ。



むしろシンポは退歩だと信心せよ。


でもゴルフのクラブは年々進歩して良くなってますよ。



そんなものは捨ておひて置け。


第一そんなクソ高ひクラブなど買ってる余裕など無ひ。


でもクラブは進歩でしょう、其れだけは認めなければならないでしょう?



確かに。
其れだけは認めます。


然し女はシンポせずむしろ性悪になりました。


また社会的事象は心性の面から見てむしろ退歩して来ておらう。



すると進歩で良くなるのはモノだけなんですか?


さうじゃモノだけじゃ。


モノだけはドンドン良くならう。


が、モノが良くなり過ぎまた溢れ返ると心の方はむしろ貧しくなっていかう。




つまるところ進歩は所詮唯物論なんでしょうか?


さうじゃ唯物論じゃ。


唯物論の反対は何でしょうか?


観念論であり精神論じゃ。



即ちシンポ史観とは唯物論の観念化のことじゃ。
シンポに追い立てられ挙句の果てにみな根性がさもしくかつ悪くなり心理的に追い込まれていくのだ。


でも誰も其の原理には気付けぬ、其ればかりかシンポは大事だとさう考へるに至っておる。


まさに其れが間違ひだ、誤りだ、×だ×だ×だ×だ。


結局零点だ。


全てを破壊して仕舞ふのならば結局零点だ。


いやマイナスだ、永遠の-のベクトルだ。



では進歩はしないんですか?


さうじゃシンポなどあへて必要なし。


でも進化はするよ。


其れぞ自然の摂理なんだ。



結果進化はしますがシンポはしません。
と云ふこととなり観念的価値ヒエラルキーの構築の方を否定するか若しくは抑へると云ふこととなり申した。


と云うことは矢張りと云ふべきか自然は善で人間社会=文明が悪なんですか?


結果的にさうなって仕舞ふ。


人間が悪だから善もまた必要となる訳で、元々人間が善ならむしろ悪の方が必要とならうがなぜか現在悪は必要とされて居ませんね。


ただし善悪規定は相対概念に過ぎぬ。


言語成立の上でさうならざるを得ぬ矛盾なのでむしろ其処にさう拘るべきことではなし。