ちなみに感性とは鋭い批判を含むものでもある。
特に男性の感性には其れがあります。
対して女性の感性はどんなに鋭いものでも批判的かつ破壊的ではないんです。
むしろ愛ですね、愛、まさに其れは愛だ。
愛とは子宮でもって生を包むことです。
ところが男性が持って居るものは本質的には槍=アノ生殖器だけです。
だから其れは元々違ひます。
もうまるで違ふものだ。
其れが同じであるとは言えなひ訳です。
ところが合理思想は其れが同じであると言いたひ訳だ。
なので其れは間違って居ます。
近現代とはそんな風に間違へた考への集積です。
世の中の風潮=思想に対して男性の批判的突進力は其の槍でもって突いていく訳です。
作家も画家も音楽家も突く人は突きます。
勿論其処はわたくしも突きました。
でも突く人に限り気が狂ふか早死にして仕舞ふ。
だが女はしぶとく生きて居ります。
第一アノ山崎 ハコがまだ生きて居ったのか。
このやうに生きてるか、死んでるかと云う事のみが藝術家にとっては問題なのです。
故に君等の価値観とは違うんだ。
貧乏か金持ちかということではなくしかも美人か美人で無いかと云う事でもなくひとへに此の生きてるか、死んでるかと云う事のみです。
さて猫が好きな漫画家はどこかおかしいんでせうか?
猫は気持ちが悪ひ部分もまたあるゆえおかしいんでせうか?
どだい猫はバリバリと仕留めた獲物を食らひます。
即ち其れは殺戮です。
殺戮と子宮でもって生を包むこととは正反対のことのやうで居て実は似て居る。
子宮でもって生を包むことの裏には実は殺戮の世界が拡がって居ります。
子宮でもって生を包むことを子宮思考乃至は近代主義が普遍化し絶対化し美化するのですが其れは同時に殺戮の容認であり利己的な自己を生きることにほかならぬ。
藝術は逆に美化しない生を殺戮することのない生の理想を語るものであるべき。
藝術が美化に流れれば決まって其れは陳腐化するのだ。
さうした意味での宝塚は陳腐です。
でも其れを言って仕舞へばあらゆる表現や言葉は総じて陳腐化します。
多分吾妻 ひでおの場合は潔癖に槍であり過ぎておかしくなって仕舞ったのかもしれない。
対してますむら ひろしの場合は其の潔癖な槍を子宮の方へと性転換していって仕舞ひました。
つまりは大衆迎合して矛を収め漫画の大家になって仕舞ったのです。
尚ますむら ひろしは美術出身の方の人で元々凄い感度に恵まれて居りしかも猫が好きでした。
尤も我我の頃はビートルズなんてひと昔前の人達でむしろ地味な子たちが聴いて居たのです。
かく言うわたくしも十四歳から十八歳位までずっとビートルマニアでした。
当時は皆フォークギターを弾いて居てわたくしも「禁じられた遊び」の主題歌として使われた「愛のロマンス」を良く弾きました。
それと陽水です。
ビートルズもコードだけは弾けます。
ところが実は「ブラックバード」も弾けた。
コレは流石に猛練習をしましたが。
勿論ビートルズも藝術です。
次第に藝術的になっていくのです。
其れでもって麻薬をやったり印度思想及び印度音楽に嵌ったりして次第に反社会性を帯びていきます。
ですがあくまで其れは真面目な方での思想的逸脱です。
特にかのジョン・レノンには思想がありました。
無論のこと其れは愛と平和の思想ですが愛と平和に限り地球上の皆にはゆきわたらない為逆に悲劇が齎されるのです。
ちなみに小野 洋子はとんでもない財閥のお嬢様ですのでジョン・レノンが小野 洋子の実家を訪れた時は何とスーツ姿だったのです。
ちなみに小野 洋子と母はまさに同年代です。
まだ生きて御座るところが如何にも女は何処までもしぶとい。
さてますむら ひろしですが此の人の作品は初期の頃のものが素晴らしひ。
デブ猫のヒデヨシばかりが出て来る前のまさに美術系での作画のものが凄いです。
同時に批判力に溢れて居ります。
▼母なる大地の子どもたち
「初めてビートルズを聴いた時、これは何かあるぞと思ったんだ。
毎日毎日聴いてるうち、俺の心の中にジョンの言葉が染みこんできて、
そして俺も決めたんだ“9時から5時までの人生なんてまっぴらだ”」
▼霧にむせぶ夜
「われわれは皆、他人の不幸を平気で見られるほど強い/ラ・ロシュフコオ」
「地球上のあらゆる生物の中で、もっとも欲の深い奴は誰もが分かっているように人間であります。
奴らはまだ使えるものを捨てるほど欲が深く、一つで間に合うものを二つも三つも欲しがり、
欲のためには仲間でも親でも殺します。
環境破壊は、製品の大量生産による資源の乱獲とゴミによるものですが、
それを支えているものは、あのおめでたい一般市民による大量消費なのです」以上より引用
其処に曰くサラリーマンでは事の本質など攫めやしない。
我我は皆異常な日常を生きて居り常識人とは即ち悪魔のことである。
人間はキチガヒだ。
欲の為なら親でも殺す。
目出度き大衆ー善なる悪魔ーが大量消費と云う破壊を齎す。
まあ此の程度のことはわたくしも日々言って居りますがね。
おまけにわたくしの場合は人間はバカだ、大馬鹿者だともいつも言って居りますがね。
藝術も角=批判力が取れるとマンネリ化し退屈となる為ますむら ひろしの場合はやがて宮澤 賢治化していった訳です。
其れでもって成功を収めたと言えることでせう。
ですが其れはあくまで宮澤 賢治の作品そのものではない。
『ヨネザアド物語』は当時ますむら ひろしが月刊誌「ガロ」を発行していた青林堂に9ヶ月勤めていた時に連載したものだそうだ。
知る人ぞ知るかのガロ、普通の商業誌とは一線を画するまさにコアな内容の漫画誌でした。
ちなみに70年代の頃は家から一キロ離れた特別な本屋で青林堂の出版物を屡見たりもして居ました。
また此処の本屋で良く『カムイ外伝』の単行本を買って来て読んで居たりもしました。
今思えばガロは日常と云う常識的な悪にあへて反旗を翻す世界観の巣窟でした。
結局彼ますむらの作品はこうした土壌から出発し次第に社会的にこなされていったのだろう。