ちなみにこちらも名曲だと思います。
いやあ、流石に詩人だなあ、詩人。
「五年、いえ八年たってたずねたなら
声もかけれぬほどに輝く人でいてほしい」
うーむ、素敵な表現であり願望ですが男性はこういうのに余り興味がないんじゃないでせうか。
五年、いえ八年経ってまだ生きて居れば良い方であるとわたくしなどはいうもさう思うのですが。
かっての同級生で何故か死んじまった奴も居りますし気がふれた奴も居れば夜逃げした奴なども居ります。
さういうのは皆音信不通と云うかもはや二度と話が出来ないんです。
だから人間は別に輝いてなど居なくても良いんです。
腐って居ろうが最悪だろうがどうでもよろしひですので何とか生きて居たいものです。
「声もかけれぬほどに輝く人でいてほしい」と云うのはどうも女の願望なのではないか。
「声もかけれぬほどに輝く人」であることは確かに素敵なことですがボロボロになりつつ生きて居る人のド根性こそが宝石です。
何故ならかのワイルドの描いた「幸福な王子」の世界観こそが子供の頃からずっとわたくしの心の中に宿って居ます。
かように自己犠牲は美しひものなのでせう。
ですが其れは聖の価値観であり逆に俗の価値観に於いては其れはバカにされごみ溜めに捨てられて仕舞ふのだ。
ですが神仏だけが其の美しひ心を御認めになられるのだ。
なので最近わたくしは「声もかけれぬほどにショボい人」となることを逆に目指して来て居ります。
かっての同級生の誰から見てもコイツ乞食なんじゃねえか、と云う位にみすぼらしく不元気で居たいのです。
兎に角さういう風ですので勿論女は皆すぐに逃げていきますよ。
まあ其処をあへて難しく言えば近代価値ヒエラルキーに反抗し生の価値を逆に捉へて居る、と云うところでせうか。
ただし死なないで下さい。
自己犠牲が過ぎると死に至ります。
またちゃんと食べないと免疫が弱り癌になりすぐに死にましょう。
さて、マンガですがたとへば手塚 治でおススメなのは「陽だまりの樹」です。
コレは子供向けではない作品で医学の歴史を描いたものです。
昔漫画の方で読みましたがアニメーションの方でもあるやうです。
さて手塚 治と云えば兎に角宝塚歌劇団のことが良く出て来ますね。
謂わば女としての近代的価値観の具現化でせう。
生を美化してやまぬ心理的傾向即ち詩としての人間の世界のことですね。
いや、詩ではなくタダの生の美化ですね。
詩は宗教と一緒で闘ひですから常に詩人は生と刺し違へて死ぬるだけの覚悟が出来て居ます。
詩は病気だの乞食だの絶望だのと寄り添い共に生きて居るべきです。
瞳の中のお星さまキラキラや男装の麗人や煌びやかな衣装などに寸毫も魅力は感じませぬ。
詩人は苦をこそ見詰めるべきです。
苦と怪奇と屈曲、コレ等に勝る感度の上での豪奢は御座いません。
が、春野 寿美礼の打ち出す現実的な美のエネルギーに此の度初めて参って仕舞ひました。
此の人は声が良く歌が上手いです。
其れに大人の女としての色気の方も凄い。
どうも春野 寿美礼ファンになって仕舞ひさうだ。
元よりマンガはヤバいです。
マンガとは詩を近代化したものです。
詩は元よりマンガです。
小説よりもむしろ漫画や絵画に近いものです。
即ち幻想の視覚的抽出なのです。
漫画家の精神は意外と過激で、しかも体に悪ひ生活を繰り返すので早死にする人が多いです。
まるでキチガヒみたいな奴が多く居ると思って置いてまず間違ひない。
其のキチガヒ漫画家の典型例が吾妻 ひでおでせう。
「ふたりと五人」や「やけくそ天使」では性的黙示録とでも云うか兎に角くどい程にエロの世界を、其れも劇画的なエロでは無くあくまでマンガとしてのエロが可愛く丹念に描かれていくんです。
「不条理日記」と云うのは可成にシュールかつ異常でしかもSF的でした。
其れももう40年も前のことですがね、一ファンとして彼の作品を具に読んで居たのは。
吾妻 ひでおはどうも其れ以降アル中となり一時期はホームレスをして居たとのことです。
此の人などは兎に角まだ生きて居るのが不思議な位なのですが矢張りと云うべきか癌でもって闘病中ださうです。
しっかしホームレスまでやった一流の漫画家はおそらく彼だけでせう。
兎に角藝術家はキチガヒになり易い。
おまへは大丈夫かと言われてもそんなこと自分ではまるで分かりません。
それにつけても音楽の方がまだしも気が晴れ易いのかもしれない。
ですが音楽の方でも早死にする人やら気が狂ふ人やら居るやうですね。
昔藤 圭子がとても好きだったのですがあの人もどうも少しおかしかったやうですね。
歌い方にドスがきいて居て美人だったのですがねえ、其処からしても惜しい。
精神が少しおかしひ人は此の際皆宗教の方へでも編入して置いた方が良さそうだ。
かように吾妻 ひでおは猫が好きなのだそうな。
「まとも」であることとは常識的であることではなくむしろ異常な常識=日常に抗う力を持ち得ないことだ。
つまりは其れが異常、なのさ。
即ち異常であるからこそ「まとも」なのさ。
逆に正常なものはトコトン日常と云う異常に抗うからまさに常識的でもって非日常的なのだ。
即ち正常であるからこそ「まとも」ではないのだ。
「まとも」な異常者であること程目出度いことはないとわたくしはいつもさう思ふ。