目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

盆だ祭りだ皆で飲んで食って踊れ


で、其のスマフォを冷やして一体何をやりたい訳だ?

どだい其のゲーミングってそも何?


此処からしても現代の価値観は限りなくキチ外に近いものになりつつある。

其処では精神が合理化されまことにキチ外になって居ることだらう。

わたくしのやうな人文の神の信奉者はそんなキチ外など認められない。


皆様にはそんなわたくしの気持ちが必ずや分かって頂けやう筈。

第一此処の読者は90パーセント位が60代以上の男性の方々だ。


ところがだ、其れに次第に変化が起きて来て居る。

それも今年からなのだが、まず女性の読者がゼロから四、五人へと増えた。

次に年齢層が幅広くなった。

ゼロだった十代、二十代の子たちがたまに読んで呉れるやうになった。



どういうことだ、これは?

或いはあの林のバカの影響ではないかとつひ勘ぐって仕舞うのであるがアレは東大出だからわたくしとは異なり本物のインテリだがどうもほんたうは馬鹿だぞ。

第一林が教えて居る現代文なんて滅茶苦茶だぞ。

それにあいつは元々国語の教師では無い。

確かにあいつの出た高校は超難関校だがそれも頭が良過ぎてキチ外が屡出て我も昔バイトで学校へ教材を運んで居た折にR介さんと云うT高校出の頭のおかしい人を精神病院へ時折運んで居たものだった。



だからT高校など誰も入れない。

T高校へ行った奴にとっては東大や京大へ入ること位は朝飯前なのでそんなバカなことはやらずに皆大人になると精神病院の方のお世話になって仕舞うんだ。

R介さんは当時60歳位の方だったが其の後暫くして亡くなられた。

R介さんは名曲喫茶ー当時はまだあったーが大好きで我我バイトを良く其処へ連れていって下さったりした。

物凄いスピーカーから物凄い名曲が流れ其れを高級なコーヒーなど飲みつつ暫く聞いて居たのだった。



ちなみにわたくしが其のバイトをして居たのは学生の時分ではなく塾の先生を辞めてからのことだ。

だから其の時すでに三十歳位だったんだよ。


此処での思い出話は滅茶苦茶に面白いのであるが今語り出すと文明批判が進まぬのでまたの機会に譲ることとしたい。



さて此処のメイン読者であられる60歳以上の方々よ。

はぁー、実に厄介ですよ、此の文明の本質はまさにまさに厄介そのものだ。

一言で言えば伝統だの常識だの、そんなものがもはや通用しない世界となりましょう。


折りしもお盆なので皆様は御家族に囲まれ、其処にはお孫さんやら居られて皆で楽しく飲んだり食ったりされて居ることでせう。


ああ、わたくし?

わたくしは変わり者ですのでお盆は参加致しません。

実は頭が良過ぎて下々の者との会話が何より苦痛です。



其れに漱石みたく良く癇癪を起すので次第に人が離れていきまする。

そして常に文明批判のネタを探して居るので色々と本を読まねばならずしかもSF映画のDVDも視たいのでお盆に参加して居るヒマなどは無い。



第一墓参り、其れは仏教徒としてしてはならぬことのひとつです。

それと仏教徒は子供をつくってもいけません。

まあ本来ならばさうだということなのですがね。


女に触れてもいけません。

女の匂ひを嗅いでもダメです。


が、自分の足の匂ひを嗅ぐのは大丈夫です。

臭い匂ひはむしろたんと嗅いで置いて下さりませ。




ところでお盆とは何だ?




とのことですが、仏教行事としての盆は多分に祖霊信仰と結び付いたもので慣習や風習の域を出ないものである。

仏教の本来のあり方としては先祖供養や一族団欒に重きが置かれて居る訳では無く元来心のあり方を正すのが目的であるからむしろ孤独に徹しわき目もふらずに修行することこそが大事。


第一そんなビールなど飲んでるなんてもってのほかだ。

さうではなくまず瞑想の修行に勤しむべきだ。


そして過分な欲を抑える。

特に爺ちゃん、婆ちゃんは自然に欲が減っていくからそれこそがまたとないことだ。


爺ちゃん、婆ちゃんになってまだ学問をしやうだの或は結婚しやうだのそんな生臭いことを金輪際考えて居てはならぬ。



人間は70歳になったらもう終わりだと観念しあの世とやらへ行く準備を早めに整えるべし。

我等は還暦でもう終わりだと思って居るので其の観念のあり方が一般の方々より十年は早い。

ところがかっての詩人なんて大抵は四十前にすでに身罷って居るのだ。



今一度言うが盆は酒を飲む場ではなくしかも孫と御馳走を平らげる場でも無い。

盆はむしろ暗ーくして瞑想しておくべき時なのだ。


暗ーくして瞑想すると逆に其の世間の喧騒から離れることが出来やう。

そして其処では一人だ、つまりは孤独だ、さう全てが孤独のうちにある。



其の孤独こそが実は自由である。

確かに自由の不自由と云うこともあらうが、其の孤独の中に埋没してこそ分かる何かと云うこともある。



正直言うとわたくしは今まさに山へ逃げていきたいのだが、実は山へ逃げていくとこの時期は虻が出てまさにとんでもなくコイツが刺して来て顔や手足が腫れ上がって仕舞ふ。


だから其れでは修行になどならない。

修行でなることと逆に修行でもって壊れることがあり特に山の中で虻や毒蛇、また雷雨などに遭遇した場合にはまさに修行もクソも無くただただ怖いばかりだ。



おお、今も我が家の外では雷が鳴って居るぞ。

それもすぐ傍に雷が落ちたぞ。


然し山の中の雷の恐さはそんなものではない。

まさに死ぬか生きるかのそんな極限状況だ。



文明世界では極限状況など味わいたくても味わえぬ訳で逆に皆とビールを飲んだり御馳走を食べたりすることがカンタンに出来やう。


が、其れを今すぐに止めよ。

そして盆の意義を問い直してみるのだ。





うーむ、さうか、さうであったか。

盆の意義とは何と其の飲み食ひそのものにこそあった!

何と餓鬼道に墜ちた母ちゃんに何かを食わせる為にさうして居ったのだ。



サア、それでは大いに飲め、そして食ひまくれ。

さうして何処までも食え。

氷菓などは連続で四つまでは必ずや食っておけ。



尚本日は桃の味のサクレと梅味の氷菓が頗る美味であった。

然し氷菓は車で買いにいくべきではない。

あくまで自転車か徒歩にて買いに行き暑くてぶっ倒れさうな時に食ってこそ其れは旨い。


とりあえず桃の味のサクレが傑作であることだけは間違ひない。

そしてお盆だと云うのに人とは群れずしかもお墓参りにも行かずこんなバカなことを言って居る詩人こそが真の仏教徒なのさ。