尚わたくしは猫が好きなのですが何故好きなのかと言うとウルサくなく何処か心が通じるとでも申しますかおそらくは共に神経が細かいから好きなのです。
対して犬が嫌ひで何故嫌ひなのかと言うとウルサくてしかもペロペロと色んな大事なものさへ舐めに来て兎に角下品だからです。
そして道を歩いて居ると庭などで繋がれた犬に良く吠えられたりも致します。
これはもはや何か根本的に相性が悪いとしか申せません。
それでも昔は家も犬を飼って居たのでしたし、当時はそんなに犬嫌ひでもなかった筈ですのに一体何でこんなに犬が嫌ひになって仕舞ったのだらう。
ひとつには其のデリカシーの欠如の部分こそが兎に角我慢がならぬ。
さうして兎に角ウルサい。
ワーンワン、ワオワオと兎に角ウルサいわ。
神経質な詩人などは常に心中で大問題や大宇宙と対話して居ると云うのに其のやうな状況を全くもって理解して居ない。
ところが猫はたとへ傍らに始終居たとしても互ひに別々の宇宙を観想して居るからまさに我関せずで其処が丁度良い塩梅である。
だが猫は肉食動物でもって完全なる殺し屋である。
我が家は古い家でしかも庭が大きいので猫がトカゲや小鳥やら色んなものを庭で獲って来たものだがさういうのは無論のこと猫の本能として無慈悲に其れ等を殺して持って来るのである。
然し猫は非常に繊細な心を持った動物である。
猫の心は周りを鋭敏に察しつまりはとても敏感でバカみたいなところがない。
が、犬はバカである。
其のバカなところがあったかいのだそうで、でも其れは単なるバカなのであってあったかいのとはまるで違うのではなかろうか。
第一犬はバカだから常に尻尾を振るが猫は気に入った時だけ少しだけ尻尾をクニャクニャとさせる。
そんな一種気難しい猫に嫌がることを連続でわざとしてやると物凄く怒ってフ~ッとか唸りながら怒る。
ところが可成に深いところまで人間の心理と云うか其の家の状態などを把握して居るのではないかと思わせるフシがある。
事実もしや全部が分かって居るのではないかと、結局わたくしの悩み苦しみの内容も全部把握して居たのではないかと思わせる事が度々あった。
其の位に心理面で深いものを持つ猫だからこそ其れが日本の文學の代表作として世に知れた訳だ。
コレがもし吾輩は犬である、だなんて、そんなもの小説になどなる筈がない、それもそも犬など文學じゃないから詩にもならない訳で兎に角もう犬などデリカシーの無い俗物でもってして本能剥き出しで要するに下品そのものだ。
嗚呼、されど猫は高貴だ、そしておまけに気味が悪い。
其の気味の悪いところこそが良い。
尚、わたくしの知り合いに猫が大嫌ひな人が居て其の人は逆に犬が大好きである。
猫の何処が嫌かと聞いてみたところ、遠くから何度も振り返りこちらを観察して居るやうなあの目つきが大嫌ひだとのことであった。
観察、さう、実は此の能力こそが猫の専売特許であり特徴の部分なのだ。
其れも並大抵の観察力ではない。
まさに飼い主や飼われて居る家の状況を察するに足る鋭い観察眼を彼等は持って居る。
だから猫は非常に頭が良い、とどのつまりは利口である。
それで其の利口なところが殺し屋であることと密接に結びついて居る。
つまりは殺し屋だからこそ利口なのである。
逆に言えば殺されるつまり獲物になる側の方は其処まで利口である必要がないのやもしれぬ。
利口、と言うか、何かこう心理的に特別に進化して居るのであらう。
さてわたくしは猫のさうした心理的能力に優れたところ、または霊感の強さのやうなものに惹かれてやまぬところがある。
第一古来より猫はさうした神秘的な存在でもまたあったのだ。
ところが犬は神秘には成り得ない訳で、それどころか西郷 隆盛の連れて居る犬のやうに常に人間の僕であり人間が死ねと言えば事実犬は死ぬのである。
だが猫はそんな人間の横暴になど屈する筈もなく逆におまへは愈々危ないやうだが大丈夫か、助けてやろうか?などとはまさか言わない筈だが事実其のやうな別ものとしての気持ちにて人と接して居るのである。
要するに独立独歩であり唯我独尊である。
人間になど屈して居ないのでタダ利用だけしてそのうちに何処かへ逃げて行くのである。
其の癖意外と情が深いと云うか心理的に細やかで実に実に良く周りと云うか人間を観察して御座る。
だから人間も利口な人はさういうのがたまらなく好ましいのである。
逆に妙に情に拘る奴、まさに鬱陶しい限りでの人間関係や動物との関係に重きを置く輩にはさういうのこそがたまらなく嫌らしく見えて仕舞ふ。
さて猫、コレも所詮は猛獣である。
獲物を襲って其れを食べ其の命を維持する殺戮マシーンだ。
だが犬だって似たり寄ったりだ、ただ犬は雑食性であると云う事に過ぎぬ。
このやうに自然の掟として今まさに動物界で繰り広げられつつある現実こそは過酷である。
こんな命のやりとりをすることでようやく生は成り立つのである。
この生の残酷さを宗教は、そして文學は常に直視して来て居た筈だ。
生は矛盾である前にまず残酷なのだ。
残虐であり過酷な心理的な試練の場なのだ。
いやそればかりでもなく肉体的にも究極的に過酷だ。
さうして虎に食われる動物達は執拗に追われ死んで肉片と化すまで此のデカい猫にいたぶられる。
そして死んでからもまた食われる訳である。
死ぬだけではダメで食われなければならないのである。
しかるに人間は一体どうしたと云うのだ、此のやうな自然の営為による無慈悲な殺戮を、其の厳しい現実の様を何故急に見なくなって仕舞ったのだ。
生が矛盾であること、また生が闘いであること、そして生が楽園ではなくまさに地獄としての現実としてあることを何故人間達は見なくなって仕舞ったのだろう。
だからこそわたくしは一度位食われてみよ、と人間に対して言ったのだ。
食われてみなければ生の過酷さを直に味わえない。
自然は生の過酷さを日々生命に対して強いて来て居る。
彼等動物には文化も文明も理性も何も無い。
だが純粋な苦を、其の純粋な苦を其れも死に至るまでに過酷な修羅場を、いや死んでからも肉片として食われると云ふ究極の地獄を身一つでもって体験して居る。
わたくしは其れが偉ひと素直に思ふ。
人間は何故此の生の過酷さを忘れつつあるのだらう。
食う事と寝る事、そして家族をつくることそして科学的に全てを規定していくこと。
そんな身勝手な人為の世界に甘んじて居て、其れでもっていつの間にか此の野性の掟を、まさに食うか食われるかの厳しい大自然の摂理から目を背けて居るのだ。
自然の摂理から離れれば離れる程に生の厳しさ乃至は矛盾から遠く離れた存在とならざるを得ない。
そして其処で要らないものばかりに寄りかかる生を築き上げるほかない。
さう自然から目を背ければ必然として其のやうにならざるを得ない。
要らないものばかりに向き直り揚句に生の意味を問うことすら忘れ去っていく。
そんなことはあの動物達でさえ日々向き合い感じ入って居る事ではないのか。
其れも心理として真正面から向き合って居るのだ。
食う者もそして食われる者も何も思わずたださうして居る訳では無論のことない。
何故なら犬や猫ですら常に心が揺れ動いて居るからなのだ。
其の心の動きと同調したいからこそ人間は犬猫を飼う。
無論のこと此の過酷な自然の営みをこそ変えたいと人間は強く願って来た筈だった。
理性による自然の克服で其の事を実現したかったのだった。
其の結果確かに我我はもはや猛獣に食われずとも生きられるやうになった。
と云うよりも逆に何でも食えるやうになり食ふだけではなくついでに性も合理化しさらに頭の中身も合理化して仕舞ったのだった。
無論体も合理化したいのだが体の合理化ばかりは厳密には極めて難しい。
平たく言えば不治の病である癌をはじめとして諸の病を克服することが出来ない。
だがわたくしは逆に食われる者の気持ちになるべきだと其処で強く思ふのだ。
或いは食ふ者としての哀しみ、其のデカい猫の気持ちを考へてみるべきなのではないか。
逆に万が一にも食われる虞の無い人間様だからこそ心理的にむしろ食われてみるべきなのではないか。
だからもし食われてみれば虎に食われ肉片と化し胃の中で消化されるシカやイノシシの気持ちになれる、いや、食われないまでも其の気分を察することが出来やう。
そして同時に肉を喰らふ猫の方の気持ちも分かるやうになる。
いや、コレもほんたうには分かる由もないが何となく分からぬでもないのではないか。
わたくしの言いたいことは要するにむしろそちらの方こそが人間が真にやらねばならぬことであり、進歩だシンポだと訳の分からぬものばかりを血眼になり求め続けて居るのは滑稽を通り越してむしろ惨めだ。
利口だと言って置きながら人間はまるで利口ではなくむしろ食われる動物やらデカい猫の方がずっと偉くはないか、其は魂の闘争をまさに日々繰り広げて居るのだ。
そんな進歩などには何の意味も無くむしろ食うか食われるかの関係の中にこそ生の本質的な意味が込められて居やう。
自然を合理化して、其の獣性としての苦を脱する。
勿論其の事こそが人間の夢であり希望であった。
だがとっくの昔に其の夢も希望も成し遂げられて来て居る。
農耕と牧畜の実践により人間は妖異の類以外にはたぶらかされることがなくなった。
ですが今や科学技術と云う獣に食ひ尽くされやうとして居るのではないか。
また何でも食える我我だがただひとつ、自分が食われる時の惨めな気持ちだけはもはや思ひ出すことが出来ぬ。
同時に我我を食らう時の虎の気持ちも其処に慮ることが出来ない。