理性をとんでもないところに使うとまさにとんでもない結果ー現実ーを招きます。
即ち理性こそは諸刃の剣です。
まさに其れが善と悪のどちらの要素をも備えて居るのだと申せましょう。
重要なことは其れが善でもあり悪でもあると云う事だ。
人間存在が善でもあり悪でもあると云うことと同じくして其のやうに二種の性質に分かれる。
だから優しさとは暴力の裏返しであり悪魔とは神仏の裏返しであり凡俗とは非凡の裏返しのことだ。
聖なるものは汚れたものの裏返しのことで女は男の裏返しであり命-生ーは死の裏返しのことだ。
そして実は何処にも単独で存在しているものはない。
存在とはそうした分解、其れも何処までもしつこく二元的対立を生じせしめる分解そのもののことだ。
だから存在とはそうした不完全性のことだ。
不完全=瑕疵であり錯誤であるところでの認識上の間違いのことだ。
不完全=善でもあり悪でもある存在の正体のことだ。
そんな不完全な人間は皆バカである。
バカは死んでも治らず、またどうしてもどうにもならない。
だから存在する人間であること以上に此の世に悪いことはない。
ところが存在していなければならない我我は否応なく存在することを強いられる。
存在すると云う牢獄又は拷問に常に縛り付けられて居る。
究極的には、存在する有情は総じて悪魔化して生きて行かざるを得ない。
世界はより悪くなりより混迷の度を増していくのであるから其処を生きる人間の心は徐々に悪魔化して行かざるを得ない。
やがて悪魔=常識となろう。
悪魔の心が普通になる、常識になる。
いや現代人の心もすでに半分位は悪魔化されていやう。
事実利己主義でもって他の心の痛みの分からぬ人間が多い。
皆心の根の部分が悪くつまりは性悪である。
誰それがと云うことではなく満遍なく皆が腹黒である。
ちなみに此のSF映画は傑作だと個人的には思う。
中学生位の頃からおそらくは15回位は視た映画なれど何度視ても其の度に新たな問題を投げかけられる。
古いSF映画としてはカルト的で哲學的な難解さを含む映画として知られて居るが当時はむしろ普通にあった映画だった。
昭和の頃はまだ時代自体が哲學的であり、其れはかの全共闘の闘いにしても他の何にしても今よりは思想的、観念的であり前提としての論が無いと時代が動かなかったようにも思う。
もっとも明治の頃はもっと哲學的であり人間は様々に考え込んで居たものだったが何故か今はもう何も考えて居ないのではなかろうか。
考えずに生きるやうに飼育されて居るのでインテリでさえもはや考えられない、いや、考えても意味はない、其処に意味や意義など見いだせないニヒリズムの極としての今を生きて行かざるを得ない。
だから其れはひとつのディストピアとしての現在である。
食う事や寝ること、遊ぶこと即ち生きると云う意味に於いてはあくまで現在は過去よりも生きて行き易い。
然し其のやうな社会には必然としての心の病ー精神の空虚さーが出現する。
其れがニヒリズムと云う事であり飼育された人間としての空虚な心の中身と云う事である。
其の空虚さを物欲や性欲、または会社人間であることや宗教などで埋めようとするが元よりそんなものが埋められるべくもない。
だから要するに悪魔となって生きて行かざるを得ない。
悪魔なんだからそのままに悪魔であり他の何者でもない。
ザルドスで描かれて居るディストピアでは進化の末に人間が神となった段階での人間が抱える問題が鋭く描き出されて居る。
不老不死となり不眠となった人間は頭の方も天才並の知識に溢れまた超能力のやうなものにも恵まれ実際何でも出来る存在である。
が、古来より連綿として続く搾取形態としての構図は実は何も変わらず相変わらず社会には人間以下の人間が大勢居りコレがすぐに増えるので神人間達が其の数を管理して居る。
其のゼッドが神の園へ侵入しやがては其の楽園を破壊し尽くす。
ところが、破壊を望んだのはむしろ神人間の方であった。
ゼッドの動物力にひれ伏し偽の神の園、嘘の文明力に反旗を翻したのは獣人ではなくまさに神としての神人間の方であった。
要するにもう嫌気がさして居たのである。
死なずに生きること、そして理性的に生きられること、神のような人間であることに生身の人間としてもう我慢がならなかったのだ。
人間とは実はそんなものではなく、適度に食い、そして適度にバカで、おまけに適度にエロい。
ところが神人間の楽園ではSEXが禁止されて居るのである。
其れは当たり前のことで、何故なら人間はもはや不老不死かつ不眠なのだから子孫なんて要らない。
第一子孫があり其れが増えると神人間ばかりになり地球上での搾取形態が維持出来なくなろう。
そんな究極の進んだ社会に於いて、人間の感性や生きる力、所謂原始的かつ動物的な力は弱められ無気力かつ無表情な、生きる意味を失いかつ生きる意欲に欠ける神人間の群れを生み出して居た。
其処へもって若き日のショーン・コネリーがアノ胸毛一杯、精力充満のいでたちで切り込んでいく。
すると神人間の女共が皆其の魅力に参り是非にと種付けを要求する。
かくて神人間の楽園としてのディストピアは破壊され尽くす。
神人間が皆死にたいと願い侵入した獣人達に皆打ち殺されて仕舞う。
だから不老不死なんて望むのは意味の無いことである。
いつも言うように人間は限定なのである、限定。
其の限定だから良いのである。
非限定的なものは逆に人間を腐らせて仕舞う。
人間は神になどなれない。
バカで腐っていてエロい、全く其れでよろしい。
ただし真理に対してはエロいのも無知なのも良くはない。
真理に対しては自殺する位に暗くて其れで丁度良い。
さて不老不死も、理性による管理社会も、全て近代的な価値観の突き詰めにより齎されるものだ。
近代的な価値は其のやうに一見良いことを云う。
平等で自由で病に苦しむこともなく皆が楽して暮らせる=幸せな社会を築こうとして来て居る。
が然し、其れが行き過ぎたところには必ずや不幸が待つのみだ。
そんな風に死ぬこともなく理性ではちきれんばかりでおまけに性からも解放されて居る。
そんな神のやうな人間ならば幸せ一杯かと思いきや実は最高に不幸である。
要するにニヒリズムとしての究極の形が深く人間の心を蝕んでいくからもう人間では居られないのだ。
つまりもう人間じゃない。
人間はニヒリズムには耐えられない。
人間は限定の存在だから、耐えられなくなるのだ。
ところで我我は大丈夫なのか?
どうも私にはすでに半分位我我は人間じゃないやうな気がしてならぬのだが其処はどうなのだろう。
我我は今何でも出来るが諸の搾取からは逃れられず本質的には決して自由ではない。-社会的な意味で‐
だが大昔の人間から見れば我我はほとんど神のやうなものなのかもしれない。
いや、間違いなく神である。
何故ならすでにほとんどの病は克服され、そして滋養に充ちたものを常に食べ車や飛行機などとんでもない速度で移動するやうになった。
しかも何でも分かる。
たとえバカでも何でも分かる。
兎に角ネットがあるんで何でも調べられ其の知識はすでに神の領域に等しい。
なのに何でこんなに空虚なのだ。
カネさえあれば何でも出来る筈なのに何故此処まで空虚なのだ。
ひょっとしたら文明は其の神人間の楽園を創ろうとして居るのではないか。
いや確かにそうだ、まず間違いない。
其処からすると此の映画を創った監督こそが凄い人だ。
言うまでもなく神人間の楽園としてのディストピアとは近代社会の行き着いた様を描き出して居る。
然し寿命の追求、理性の追求が人間を本質的に幸福にする筈もない。
逆に限定的に規定していくことこそが人間を本質的に救い幸福へと導くのだ。
勿論全部を限定せよと述べて居るのではない。
然し性は今限定されていくべきだ。
何故なら性こそは武器だからだ。
未来を我が手にする武器である。
ところが実は我々には物理的な意味での未来がない。
なのに未来はあるものとあえて考え本能に従い人間の数を増やして居る。
だから我我が抱える問題とは神人間の楽園としてのディストピアとはまるで逆の流れである。
生殖を控える、実は其のこと以外に地球の破壊を免れる手はない。
だが不老不死と理性的なものの追求に関しての問題は此の映画とまるで同じことだ。
共に其処に未来はないのである。
いや意味がないのである。
人間は常に限定されたバカで60歳位まで生きたら自然に死んでおけば其れが一番良いのである。
確かに何とか還暦までは生きていたい。
でも我に限れば詩人なのでそれまでに何が起こるか分りゃあしない。
兎に角人間は神になどなる必要は何処にも無い。
また仏陀になる必要も無い。
ただもっと謙虚にそして静かに生きるべきだ。
現代文明は兎に角ウルサくてウザい。
モンスター人間即ち悪魔人間が多いので人間関係でも疲れる。
其処はまだしも神人間の楽園としてのディストピアの方がまともだったかもしれない。
尚、個人的に今のSF映画は何だかウルサいので好きではない。
段々そのやうになり、矢張り思想的には70年代物SF映画が一番かなとさう思ふやうにもなりました。