元より個々の人間には人権が存して居り障碍を理由とする差別や加齢による差別、他のいかなる差別があってはなならい。
ーものと一応はされて居るのが現代社会に於ける精神的支柱である。
然し、障碍や加齢といった負の要素の中に甘えて仕舞う事、そうした要素から本質的に自らが優遇されていると勘違いして仕舞うのだとしたら其れは如何なものだろうか。
逆に障碍や加齢といった負の要素を持った人はそれなりに引け目を感じて大人しく生きていくべきなのではないか。
第一人類皆が等しく豊かに生活出来る世界でもないのである。
そこを優遇して頂けるのであれば、彼等はむしろ社会に頭を下げつつ、或は健常者に頭を下げつつ生きていくべきなのだろう。
だから其の部分を勘違いして居てはいけないのである。
ところで最近の年寄り、これがまた実に傲慢な態度を取る者が屡居られる。
そうした年寄りにはわたくしの場合きつく注意したりもする。
つまり、人としての道理から諭すのである。
其処はわたくしが若く見えようがどうしようがそんなことは関係がない。
わたくしの方が其処の部分を余程に考えて来て居るからこそわざわざ注意してあげるのである。
だからといって、社会の役に立たないから大人しくしておけとかそうしたことを強制して居る訳ではない。
そうではなくもう少し控えめになり優遇されていることに感謝して行動すべきなのである。
優生思想と云ったって、此の世界は元々優生思想であり本来なら弱い者は生き得ない世界なのである。
弱いというよりも純粋なもの、真に優しい者は生き得ない世界なのである。
つまるところ、生きるということは悪夢であり過ちであるところの罪そのものである。
或は無明即ち真っ暗でしかもドス黒い魂の集積の場である。
人権を無制限に擁護することは其の負の世界をあえて正の世界となす合理的な思考の産物だと言える。
然し其の合理主義は有限の世界に対し無制限に機能しない。
人間は誰もが生まれながらに尊く兎に角皆が偉くて色んな面で優遇だけされて居るのではそも社会が成り立っていかない。
社会には嫌な仕事や厳しい仕事を低賃金で引き受け、或は誰もやりたくない戦闘や治安の維持などを仕事にしている人々も居られる。
或はわたくしのように障碍の認定を受けられないのに障碍に近いものを背負い生きて来て居る人間もまた居るのだ。
従って重要な面は、自身が障碍者や高齢であること、または未成年であることを理由に何をやっても構わないと思ったりしてはいけないということなのだ。
彼等にはむしろ健常者に対して頭を下げる位の気持ちが必要である。
尚わたくしはそうした弱者の方々とは無縁なのではない。
それにわたくしは元々ひどく優しい人間なのでー自分でそう言って居るのではなく多くの人から良くそう言われるという意味でー障碍者や年寄りには元々優しい。
然し近年其の優しさを無制限に彼等に与えるべきものではないという考えに至った。
同様に、国が発展途上国を経済的に援助している訳ですが良く考えてみればそれもどうだろうか。
そういうのはあくまで自力でやっていくべきなのではないか。
そうでなければ自立出来ない、依存癖のある国が世界に増えるばかりなのではないか。
此の生き辛い世間を渡っていく為にはそうした精神の自立性、精神の鍛錬、つまりはガマン、つまりは欲しがりません、勝つまでは、とでもいった腹を括った上での生きる上での決意が大事なのではなかろうか。
自分で何もかも出来るようにすること、其れは常に大変なことではあるが、少なくともそう思いかつ行動しなければ本質として此の世界を生き抜いていくことが難しくなる。
自分で感謝し、自分で謝り、常に自己に厳しく生きていかねば結局今の世間の如き利己主義の風潮に陥り世界は崩壊に向かうのである。
つまるところ、此の世界をして崩壊へ向かわせるのは人間の心である。
そして其の心は、健常者であろうが障碍者、高齢者であろうが皆同じ傾向を有して居る。
即ちまず自己を保存すべく徹底して有利な立場に自らを置こうとして居る。
そしていざ其の優位性が確立されればもうやりたい放題である。
我儘は言いたい放題で、まるで自分だけを神様にして、自分は何でも出来る、何をやっても良いと、そうした心理へと陥り易い。
だが其処で良く考えてみよう。
優遇などされて居ないのに辛い面を受け持ち日々を懸命に生きて居られる人々が少なからず居られることを。
それに東大まで出て居るにも関わらず、おまけに器量も人並み以上であるのに、社会の矛盾に喘ぎ若くして自殺して仕舞う人だって居るのだ。
そうした苦を受け持った人々に対して、無制限に人権思想を振りかざすことの横暴さを是非考えておくべきだ。
此の世界は限定されし虚妄の迷宮である。
そうした虚であり不完全である世の実相への理解度が余りにも低いから誰もが利己主義に陥り易い。
つまりは頭ー心ーが悪い。
頭ー心ーが悪いと、利己主義に陥る。
必ずやそうなる。
其の頭の悪いのを、障碍や高齢ということ、または年少や女性であることを理由に反古に出来る訳でもないのだ。
ゆえに弱者は必要以上に救済されるべきではない。
弱者はむしろ自ら進んで頭を下げ、尊大な態度を取らずいつも周りに感謝して生きていくべきだ。
尚、いまや女性は弱者ではない。
弱者とは、男性のこと。
それも独り者の男性のこと。
これはもうどうしても弱者だ。
従って今後社会は働く独身の高齢男性を徹底的に保護、優遇していく必要がどうしてもある。
KUMAさん、君は二千万持っているとのことだが丁度良い具合にわたしは土地を持っているぞ。
なのでわたしが土地を提供するから君が家を建てて呉れ、其の金で。
さすれば我我の老後は安泰である。
ー変な趣味がなければ、いいよ。ー
いや、わたしには元々その手の趣味は無い。
勿論君に触ったりは金輪際しないから早く二千万を出せ、其の二千萬円を。
こうした涙ぐましい努力により独身の高齢男性は老後を防衛していかねばならない。
従って弱者とは我我のことであり、つまりは貧乏コレクターのことであり、貧乏詩人のことである。
それも五十歳以上の優しいおじさん達のこと。