わたくしの大好きなマリモちゃん達が助かって本当に良かった。
このやうに人間にとっては常に厄介者の台風も自然にとっては状況を好転させる場合があるということだ。
ここからしても人間にとっての幸せが必ずしも地球の幸せ、宇宙の幸せには繋がるものではないといふことをしかと見定めておく必要があろう。
だから人間にとっての正の構築こそがむしろ自然にとっての負の構築であることが多い。
人間が頭の上での幸福を追い求めれば追い求めるほどに自然は追い詰められかつ破壊されていく。
ゆえに人間にとっての幸せを観念的に求めるべきではないのだ。
観念的欲望こそが人間にとっての他即ち自然を壊していくのである。
対する肉体的欲望は本質的には其れは悪でもない、そして善でもないものである。
其れは謂わば観念ほどには罪深くはないものなのである。
然し本能領域の履行は最終的には神仏即ち矛盾なき無垢な世界との距離を拡げていく。
ケダモノの世界はそうして緩慢な罪の領域を形作るが、其れは余りに僅かな変化の積み重ねなのであろうから実質的には神仏からつかず離れずで居られ持続的に自己を保存していかれることとなる。
されど元より理性なる爆弾は生易しいものではなく、其処での理性による欲望の追求、其の徹底されし追求の果てに謂わば究極的に二元的対立の両極を行き来しついには其の二元的意味をも破壊せしめて仕舞うのである。
観念の思い描きし幸せの、其の虚の構築の追求の末に幸せどころか究極の破壊を、即ち死を世界に齎すのである。
其の死を齎すのは誰あろう、我我自身のことである。
元より世界に於ける二元的対立は観念として乗り越えるべきものなれど、人間は其の二元的対立の超克自体には観念の力を用いず自己保存の方、現実的な意味での幸せの妄想を観念的に成就させようとする。
だからまずは為すべきこと、考えるべきことが逆なのである。
二元的対立を超克せしめる為には、まず二元的対立其れ自体の均衡を崩さないようにしなければならない。
其処で革命ではなく保守を行わなければならない。
言うまでもなく二元的対立とは二元が現出せしめてこそ乗り越えられるもので、たとへば自然の姿とは其の通りでのものである。
其れで自然は二元に分かたれ毎日食ったり食われたりで其の様やまさに畜生道なのではあろうが、そうかと言って其れは其のシステム自体を破壊するやうなものではない。
しかも毎日SEXばかりを繰り返しておりまさに嫌らしいことこの上ないのであるが、其れでも其の性の営みにふしだらさなどは微塵も無いのである。
そのやうに自然が常に美しいものであり得るのは、何より外部を破壊しない為の自己規定が其処に成って居るからなのだ。
ゆえに美しいものは常に忘我であり、忘却している。
対して醜いものは常に我に捉われ、意識している。
真に美しいものとはまさにそうしたもののことであり、人間の創り得るあらゆる意識的な内容物が実は美しいものではない。
たとへば蝶は美しい。
だが蝶自身は其の事を知らない。
蝶が美しいとそう言葉で示すのは人間の方だけだ。
ゆえに言語化して指し示す美しさとは本当の美しさではない。
だが人間に示し得る美しさはそうした類での美しさのみなのである。
藝術はそんな美しさのみを世に示すことが出来る。
だから藝術も所詮は虚の美である。
人間が観念の世界で示すことの出来るものとはそうした虚の世界の価値であり美しさである。
されど虚の構築は、いずれは破壊を齎す。
限度を超えた観念的妄想が世界を破壊していくのである。
なので観念的妄想は限度を超えないことこそが望ましい。
科学技術の進歩が、そして現代人の常識的妄想が其の破壊を齎すのである。
しかも観念的妄想は肉体的保守つまり自己保存の領域とも結びつきより強力に推進されていく。
即ち自己保存=女性原理は、観念的妄想=男性原理と結びつきより強固に破壊を推し進めていくこととなる。
謂わば本能と理性が不可分となり、つまり綯い交ぜとなり元来理性に備わる自制の部分を原始退行化、不可視化しながら其処で自制心を消滅させていくのである。
すると、現代人はもはや誰もが我慢が効かなくなろう。
そして女性は男性化し男性は女性化していく。
だが其れは二元的対立の超克の過程などでは断じてない。
そのやうにどちらつかずで訳の分からないものへと変わることでは断じてないのだ。
正しくは女性は女性らしく男性は男性らしくし、しかも人間は人間らしく自然より劣った存在であることをしかと認識した上で日々神仏にお仕えすることを至上の目的となし人は歩んでいかなければならぬ。
二元的対立の超克の過程は其の宗教の上での課題として其の後に残されるものである。
しかるに近代は此の構造を破壊するに及んだ。
結果肉体は精神化し精神は肉体化していくのである。
然し肉体が精神化し精神が肉体化されることで好ましいことなどは何ひとつとして無い。
逆に肉体は肉体ととしての頂点で精神に没入し精神は精神としての頂点で肉体に没入する即ち其れ自体を超克せしめるのだ。
平たく言えば女は女らしくして其れも徹底的にそうして初めて女であることを超えられるのであり、男は男であることを突き詰めてこそ初めて男であることを超えられるのである。
人間は人間らしく分を弁えて其れも徹底的にそうして初めて人間であることを超えられるのである。
また理性は理性としてあるべくしてあることこそが望ましく本能は本能としてあるべくしてあることこそが望ましい。
つまるところ二元的対立を乗り越える為には二元的要素を曖昧化、不純化して仕舞ってはならない、其れでは問題の解決に対して元も子もないのである。
ゆえにまず分を弁えよ。
次に破壊を齎すような曖昧化を止めよ。
其れから要らないものばかりを売りたがるやうな下らないCMなどを流さないやうに。
最近余りに流されて居るCMの出来が低級なのでもう民放など金輪際視てやるものかと屡思う。
さらにもうひとつ良い民放の番組を視たが何を視たものかすでに忘れて仕舞った。
嗚呼、マグロの奴だったかな。
マグロの解体とかやっていた奴。
さて常識は破壊する。
何を破壊するかというに、常識自体を破壊する。
またたとへば女は破壊する。
何を破壊するかというに、子供といふ子供の未来を破壊する。
尤もこの部分は何を言っているのやら分からないことかと思う。
要するに正のものは必ずや負に転化する。
其れが此の世での自己矛盾性だということなのだ。
其処で意地の悪い世界の本質に対抗するべく観念的屈折が必要かと思う。
先に限度を超えた観念的妄想の危険性を述べたのでしたが、謂わば其れは正の妄想なのである。
たとへば、
豊かになりたい。
楽に生きたい。
何でも出来るようにしたい。
そういうのが正の妄想である。
対してわたくしは負の妄想を持つことを是非おススメしたい。
絵を描く。
詩を書く。
宗教に入る。
学問でもって社会を批判する。
こういうのは皆観念的な意味での負の妄想なのである。
それで、こういうのは、元来余り豊かさや楽や行動力とはまた別の価値基準でもって動いていくものなのである。
だから貧乏でも絵は描け、牢屋でも詩は書け、また流罪になっても宗教は成し得る。
またどんなに馬鹿にされてもまたたとえ収容所に送られても学者は自説を曲げない。
これら負の妄想が、これら世間離れした一種理解し難い観念の方向性だけが正の妄想を放逐する力を秘めて居る。
だからわたくしが観念を捨てよと最初に言ったのは正の観念を捨てよとそう言ったのである。
では何で正の観念を捨てるのかと言えば、正の観念こそが、其の常識的発想そのものこそが自己矛盾に繋がり世界に破壊を齎すからなのである。
ところが謂わば独りよがりでの負の妄想はそうしたところへは拡がっていかない、いや、決して広がっていかれないのである。
藝術や学問、または宗教の世界の良いところとはまさにそうしたところなのではなかろうか。
つまりは観念化するのであればむしろ負の領域で其れを行えとそう申したいのである。
何?藝術や学問、或は宗教が何で負の領域なのかって?
そんなものは負であるに決まっておりますがな。
何故ならあのゴッホやスーティンを見よ。
ニーチェやヘリダーリンを見よ。
宮澤 賢治を太宰 治を坂口 安吾を三島 由紀夫を見よ。
そして人類は滅ぶとそう本に書いて居られる学者の方々の著作を具に読んでみよ。
さすればこちらの世界こそが負の領域の世界のことであることがもうハッキリと分かろう筈。
でも其れは屈折なんだ。
其れこそが正の屈折そのもののことだ。
屈折するから、本当は正なのだ。
正であり光そのもののことなんだ。
なので正と負の、正邪の、或は善と悪のイメージを逆に持って居てはいけないのだ。
あくまで屈折することこそがより望ましいことだ。
ただし女には其の屈折が無いか、欠けて居る。
だから最終的には世を滅ぼす元だとわたくしはそう述べているのである。
女ばかりか、近代の思想、つまりは合理思想には、その屈折こそが欠けて居よう。
屈折は罪なので屈折した何かは皆罪人として何かに繋がれることとなる。
すると其処で罪人らしく自省し重々しく何かを考えることが出来るようになる。
ところが罪を自覚しない現代思想は屈折を知らないばかりか兎に角一直線に観念的正の領域を突き進もうとする。
だがなので自己矛盾する。
負のことを知らないので自己矛盾化し、そしてついには破壊に手を染めて仕舞う。
この負の原理を知らぬ人間が増えることだろう今後の世界は極めてリスキーだ。
よって人間を保守する為にはこの負の力がどうしても必要なのである。