目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

否定はしない近代の美果ですが


近代という人間の世紀が可能にした様々な美果については、無論のこと其処で十二分に味わいそして楽しんでいく必要があります。

何故なら其れ等のことを今更否定してみたって何も始まらないからなのでもあります。


ゆえに今現在味わえることについては有難く其れを味わい、其処で清濁併せ持つ其の味をしかと記憶に留めて置く必要がありましょう。

そうこの豊かな世紀にはそうした一種のアンビバレントな均衡とでも云うような曰く言い難い意味での既定事実の積み重なりがある。


そして其の事自体には何ら問題も無く否定される理由が何処にも無い訳である。

問題は他の要素との関係性にこそある。


其れは以前にも語りましたような大と小との関係性であり、又は虚と実の部分との関係性であり、或は本質と非本質の部分の関係性といったような二元的対立の一方の極との対立の様です。



そして近代が突出した要素を様々に噴き出しつつ噴火して居ることもまた事実です。


だから近代という世紀は即ち其の一方の極のみを拡大、拡張化していく試みだったことでしょう。


然し其のアンバランス状態でもはや固定されて仕舞って居る訳ですから其処に安住して居る限りは危機感など持ちようがないと云ったことにもなります。



思うに近代という世紀は自ら未来という時間を奪い去っていく時代のことなのかもしれません。


未来は要らないからこの現在という時間を飛び切り楽しんで居たい、というような性質の時代であるのかもしれない。


ただ一般論としてそうした部分が成り立って居る訳ではなく其れとしてはあくまで未来を信じ明日は今日よりもっと良くなる筈だ、位に思い込んでいることでしょう。



だからそう思うのであれば其の思い、願いに対して一切邪魔は致しませんということです。

むしろ其のようにして生きて居ることの方が幸せでもある。


勿論其れが本質的な幸せであるかどうかという問題が其処に生じますが、考えてみれば人間が得られる幸せに元々本質もへったくれもなくそれこそ古代より連綿として続く人間の幸せとはそうした種類のものでしかありえなかったのだとも言える。


だから其の点では近代の幸せ、近代が我々に与えて呉れて居る幸せとはこと現在に限れば必要にして十分な幸せである。


ただし其れは全体のバランスが取れて居ないところで紡ぎ出して居る幸せの形だからおそらくは短命に終わるものだろう。


そういうことです。



たとえば病気に罹れば医者にかかることで様々な病を治して頂けますがこれはもう何よりの美果です。

私も現在体調が悪く薬を飲んで居ますが全くこの薬というもの程有難いものはありません。


尚、個人的に私は薬には詳しくかつ薬に対しては肯定的な見方をして居ますがたとえば医師の中には複数の薬を多く飲むと病気になるから止めよと仰って居る方もあり、また自分が医師の癖に自分は医者にはかからない、自然に病気と闘い自然に死ぬのだなどと仰って居る方も居ます。


私の意見ではこの近代生活をあえて続けて居るうちは薬もまたたとえばジャンクフードの類も、また他の如何なる近代的な価値も逆に云えば必要不可欠なものとなろう筈ですから其れ等を一切否定してなどして居りません。

ただし精神の舵を切り近代生活をあえて抜け出していくのであれば其の舵の切り方に見合った新たな価値観や物質観で生きていくべきであるとは思って居ります。


其れからパソコンなどについても実際にこうして私は便利に使わせて頂いて居るのですから其れを否定する理由などはどこにもありません。

ただしスマフォ、あれは危険だから要らないとは思って居ますが。


でもそうした情報端末の類も矢張り精神の舵を切らざるを得ない時に至れば必要ないものとして真っ先に選ばれることとなるのでしょう。


近代の提供するサーヴィス、即ち快適で便利な生活の為に役立つ様々なものとは逆に云えば近代という時代を生きるが故に必要なものばかりなのであり、其れは前近代的な価値観の上ではほとんどが余分なもの、不必要なものばかりということにもなりましょう。

だから其れはあくまで近代を生きて居るからこそどうしても要るものばかりなのです。


また或は近代的な価値観の上に成立する都会暮らしを止めて田舎暮らしをするのであれば其処で多くの近代的なものが無価値化されていく可能性もまたあるということです。


まことに不思議なもので人間の抱える価値観とは常にそうした相対性を帯びるものでしかあり得ないのであります。


第一たとえば味噌汁、漬物、梅干しと云ったって其れ等が如何に世界に広まりつつあるあるとは云えコレらが無ければ生きていけないわたくしとどこぞの外国人とでは其の価値が全く違って来るのであります。



だからそうした限定的で特殊な価値と普遍性を帯びた価値がゴチャゴチャに入り組んで噴火して居ることが近代の価値の特徴でもあるのかもしれない。


普遍化して居るとか云いつつちっともそうではない部分があり逆に特殊性の方で見てみると其れが案外広まって居たりもして結局どっちつかずである。


私には其のどっちつかずの状態が良いことのようには思えない。


と申しますか、おそらくは時代が下るにつれ価値観の面でも余計にややこしくなり次第に混乱して来るものと考えて居ります。


つまりもはや価値観を単純化することが出来ない。

余計に複雑化し余計に気を遣わねばならないことが何故か増えて来る。


純化ということは本質化であり純粋化でもあることなので其のことが成し遂げられるのだとすれば矢張りより望ましいことです。


また単純なものの方が複雑なものよりも其処で受けるストレスが少ない。


尚ここの部分は本当に分からないことです。

 
現代社会は元々人間に対するストレスを軽減すべく設計されし社会の筈であるのに何故か其の逆にますます我々の感ずるストレスの類は増していくのです。


ですからそういう面がおそらくは本質を突いて居ない社会の属性のようなものなのではないでしょうか。



もはや単純化され得ない現代の文明世界は一体これからどこへ進もうとして居るのでしょうか。


個人的には、何でもそうですが単純化されて居るものが一番のように思います。


薬などはあの百草丸、あれは結構効きますしなかなか良いものです。実はそうした生薬の類のものが一番良いのです。


また銘木ボールペンなどもシンプルでなかなかよろしいものです。

男女関係なども至極普通のものが一番安定して居て良いようです。


思想は複雑な近代思想を卒業して脱近代のシンプルな思想に是非変えていくべし。


其れからご飯を頂く時はご飯と味噌汁と漬物又は梅干しの類が欠かせません。

其処に焼き魚や海苔、或は他のなんらかの一品が加わると其れはもう贅沢過ぎる程の大豪華食です。



其の単純な生活、質素な食事、といった贅沢ではない贅沢の様こそが無駄を削ぎ落とした美しい生活のことです。


そうした美しくも薫り高い生活を目指すために本来ならば我々は今を生きて居るべきです。