目覚めよ!

文明批判と心の探求と

理知性は本能を規定し得るのか?ー1.脳科学が暴いた科学の限界

 
 
私は科学其れも自然科学による世界解釈にはそも心の部分が欠けて居るのではないかということを常に問題として捉えて来て居るのではある。

ただし、だからと言って私が極端な非合理主義者であるかと云えば決してそうではなく元々かなりに合理的な思考を行う人間だったのである。


第一、たとえば仏教、其れも大乗仏教に於ける思想を紐解いてみると、其処にはかなりに非合理的な側面が散見され、其れですわ仏教も矢張り非科学的な世界観のうちのものだ、などと考えて仕舞いがちなものなのだが、其れはあくまで大乗仏教としてのことであり、対して釈尊の説いた仏教としての原始仏教を学んでみると、其処には一種合理的とも云える世界解釈に満ちており其の両者の余りの違いに驚くといった側面もある。

そう、仏教にしても初期の、釈尊自身が説いたであろう法に近いものは非常に合理的な側面を持つものだったのである。

だから仏教なんて何だか迷信深くて古臭いなどと思って居たら其れは大間違いで、仏教というものは元々整然と論理化された哲学的体系で今日に於いてもなお理論的整合性を保持するに足るであろう時代を超えた考え方のひとつなのである。

ただし、無論のこと仏教は科学と同じではなく人間の心理に介入ししかも其処に根本的な変革を強いるという部分に於いて両者の違いは顕著なものとして示されていることだろう。


確かに科学は個々人の心の病にまでは踏み込めるのだが人間存在としての心の病、人類としての心の誤ったあり方というようなより大きな心的領域の問題には踏み込んでいけない。

だから其の対象とする精神のスケールの大きさの違いが科学としての限界なのであり、其れが即科学と宗教との違いの部分でもあるのだ。


ただし最近脳科学という科学の分野からかっては踏み込むことが出来なかった領域への挑戦が進められて居るのだという。

たとえば臨死体験の問題である。


此れは先日NHKで「死ぬとき心はどうなるか」という番組の中で詳しく報告されていた事柄だから或いはご存知の方も居られるのだろう。


尚科学という世界解釈は現実(=幻想)の分析に関しては実に厳密な結論の得られる方法論なのである。

だからもし人が死ぬ時の現象がすべて科学的に解明されれば、死そのものは分からないにしても少なくとも死へ至る人間の心理まではすべて分かって仕舞うのではないだろうか。


そうした事が今脳科学の分野でしきりに研究が進められ、尚且つ其処で多くのことが分かって来ているのだそうだ。

たとえば人間の脳はフォールスメモリー(ニセの記憶)を生じさせることが屡であり、其れで臨死体験として語られる臨死体験経験者のほとんどの事象が其のフォールスメモリーに過ぎないのではないかということがある。


たとえば所謂三途の川を渡るだの、天国へ行っただの、あるいは死んでから魂が浮遊して死んだ自分を見て居たなどという現象が其処に語られたりして居るのだが、どうも脳科学によると其れ等は脳内で安楽に死に導く為のプロセスから生じたフォールスメモリーだと考えられるらしい。

尚私はこの科学が出した結論は正しいことだろうと考えて居る。


然し、私は其の科学の分析力には全く驚かず、むしろ人間の脳内が其のように自然的な操作ーつまり生まれながらのシステムのみでーで安楽な死に導かれるという事実に驚愕したのである。

つまり、人間は死に至る迄の過程についてはほとんど自然から規定されて居る、もっと云えば本能的に規定されて居たという部分なのである。


だとすれば人間とは実に上手く創られた生物であり、其れは生殖も個体の保存も何もかも、而して死に至る道さえも自然に規定されし者であった訳である。

だとすると、人間の死自体も自然から規定されていないとも限らない、いや、其れは多分規定されているものでもあることだろう。


すると、死は其のフォールスメモリーの延長線上に在ると考えられなくもない。

それとも逆に、安楽な幻覚を与えられて死した後にはまた違った質の幻覚を与えられてどこかの星ー地球をも含めてーの生物の腹から生まれていくのだろうか。


何にせよ、死に至る道に限れば其のような実に本能的な、まさに初めから人間の体に仕込まれて居たカラクリによって人間は安楽死することとなるのである。

ー尤も其れも大病による苦痛を伴った死に方が実際にはある訳であり、其の場合にはそんなカラクリでは抑えられない程に肉体の方が痛めつけられて居るのかもしれない。ー


結局私が何を問題として居るのかと云えば、人間の体及び心は理性ないしは知性の力で規定出来るものなのだろうかということを近頃良く考えて来て居るからそんな話を引用したりしたのである。

人間存在は人間の幻想力で規定し得るものなのだろうか?


どうも最近私にはそうは思えず、人間というものはかなりの部分を、実は其のほとんどの部分を自然にー或いは本能的にー規定されて居るものではないかという疑いが生じて来て居るのである。

人間は所詮は本能の動物であり、理性だ、知性だと云ったってそんなものは逆説的にはフォールスメモリーのようなもので、本当は人間は一皮剥けば皆本能丸出しの次元で生きて居て、元々ちっとも科学的でも合理的でもなくようするにほとんどの行動を理知性とは程遠い本能部分で消化して居るだけの動物である。


との疑いが日増しに濃くなりつつあり、其れでもってそうした本能動物に過ぎない我々人間が如何にして其の本能の牢獄のような部分から這い出すことが可能なのかという其の事につき考えを巡らす機会が増えて来て居るのだ。


無論のこと其れは仏教による本能領域への制限かまたは捨てるという行為により達成されることなのではあろうが、兎に角生きて居る間には其の人間の体内に組み込まれた本能を捨て去る行為などは元より不可能である。

なぜならたとえば修行を重ねし高僧にしても、其の最新の脳科学上の結論によれば、矢張りふわりと体を抜け出して自らの屍を眺めたりしつつ、三途の川を渡ったりどうだのしながら、やがては佛のおわします天の苑へ、其の真如の苑へふわりふわりと飛んで行き極楽浄土の様を視るということになって居るのである。


そも其のようにプログラミングされていたというそういう話だったのである。

だから生きて居る間は人間が自然を超えて存在することがそも出来ないことだったという話のオチなのである。

しかも其の事を最新の脳科学の成果がそうはっきりと示して居たのである。

然し同時に其処に示されて居ることがもうひとつだけある。


自然科学の力で幾ら其処まで人間の体の仕組みが解明されたのだとしても、其の自然自身が組み込んだプログラムを科学の力が変更する訳にはいかないということで、つまりは其の事実が科学の限界のようなものを其処に突きつけられて居るということでもある。

脳科学が人間の脳を分析して得た成果が、はからずも科学自体の限界を暴いて仕舞ったと言えないこともないのではなかろうか。