現代文明に於ける問題点の第一にそも其処で何故人間のみが元気に而して自然を克服しながら生きて来て居るのだろうという部分が存する。
其の元気さというものは所謂自然な元気さ、神や佛が与えたもうた自然の因果関係の内側つまり必然の元気さなのではなしに人為的な元気さ、まさにこののべつ幕なしで節操の無い元気さ、まるで色情狂の如くに生殖期間の定められて居ないであろう元気さ、兎に角老いも若きも皆元気、元気、元気、元気でパワー全開にて突き進む。
いや、それでも本当は皆病気で、たとへば買い物依存症、ノイローゼ、うつ病、アル中、ヤク中、SEX中毒、ギャンブル依存症、マニ屋病、などなどでまともな人間というものはなかなか少ないことだろうと来て居る。
いや、この狂った近代に上記の如し病気にも罹らず生きられて居る人々こそはまともではないのでそちらの方が本当は程よい病に罹って居り其の点では尊敬できる人々ですらある。
ちなみに私は真面目病で神経症、しかも此れは私の生涯に亘る持病で治る見込みなどは無いと来て居る。
然し自称とは云え詩人なので病気のひとつ位は持っていなければとてもそんなまともではないことなど続けて居られない。
其の真面目病を治す為にかって塾の講師を辞めてドロドロの実社会に飛び込んだのはよかったが今思うと矢張り其れは止めておけば良かったかなと思うことが屡である。
矢張り小中学生を相手にして勉強を教えて居る位が私には一番合って居たのかもしれない。
真面目病を治すには女と酒、つまりは酒色にふけるのがよろしいかとも思われ、また其れに加えてギャンブルにでも手を出して金遣いが荒くなれば自然と真面目は治る。
兎に角其れを目標として生きて居たこともあったのだったが其の真面目なのだけは結局どうしても治らんかった。
酒の方は本当は好きでー役所勤めの公務員だったオヤジが実は大酒飲みだったー昔は色々と研究しつつ飲んでいたがタバコの方が気が休まるので以降タバコの方だけを嗜むこととした。ーだからしぶといニコチン中毒者である。ー
ギャンブルはあの汗臭い男の世界の雰囲気がどうしても漂う馬券売り場へ行くことなどが苦痛で、パチンコも学生の頃は凝って毎日行っていた事もありしが其れはフィーバー台が出る前のことでそれこそまだ手打ちの機械が残っていた頃の話なのである。
其れと女にもモテなかった。
ところが私はブ男では無くむしろ美男の方なのである。
尤も背は高くはなくスタイルの方も美しいとは言えないが二十代の頃は良く人にそう云われたりして居たものだ。
要するに私はそうした歓楽の世界に身を浸す生き方に価値を見出すことよりも観念の世界を磨いていくことにより大きな喜びを感じつつこれまで生きて来たのである。
さて話を元に戻そう。
近代に於ける人間の元気さは病的なものなのではないだろうかという疑いがどうしても私には残る。
確かに人間はずっと兎に角元気だ。
欲望の世紀とも語られし先の二十世紀には世界大戦を二度も経験しその他諸に激動の嵐が吹き荒れたりもしたが結局人間社会はより元気になりより勢力を広げ今世紀に突入して来て居る。
私には其れが何でなのかということが一番分からない点なのであった。
何故其の病気のように見える文明が自己矛盾性に潰されて仕舞わないのであろうか?
其れが最近になりようやく分かって来た。
自己矛盾性の拡大が一時期停滞して居たのだ。
丁度地球温暖化の熱を今深海領域が吸収して居て実質的には海洋の表面温度が上昇して居ないという事実と同じで、かの欲望の世紀に於ける人類の自己矛盾性の拡大は今文明の底部ー暗部ーに貯まりつつあり実質上は何も起こって居ないように見える、何も変わって居ないように見える、前世紀と今世紀とでは。
ところが其の沈潜しつつある問題がやがて巨大な問題と化して表面化するのだ。
まるで大火山の噴火でもあるかのように噴出するのだ。
其れが自己矛盾性の大噴出である。ーキャー、恐いー
其の矛盾が微に入り細に入り、あらゆる制度、あらゆる価値、あらゆる概念にまで拡張され其処ではもはや人類は身動きひとつすらとれなくなることだろう。
それでも人類は愚行を止めない。
何故なら問題を問題として捉えて来ては居ないからである。
問題とは事の本質のことであるというのであるのに、現在の文明にとっての問題とはすべからく矮小化され其処で謂わば視野狭窄に陥って居る。
其処ではつまり其の問題自体が皆小さい。
小問題を大問題であるかの如く勘違いをして仕舞って居る。
本当はデカい問題の部分から小問題の意味を問うていかなくてはならない筈であるのに、小問題を大問題化して捉え逆に大問題は放置するに任せて来て居たのだ。
其処ではつまりベクトルが違う。
小問題は大問題のあり方により規定されるべき問題である。
たとえば近代が奉じる重要な思想である人権や自由や平等といった概念は無制限に小の問題として人類に与えられるべきではないのである。
其れは自然との関係性から導き出される成長の限界、人間の生活のレヴェルの限界などといったことを鑑みた上で本来与えられなければならなかった概念なのである。
また物的な価値についても全く其れと同じことが言える。
近代は特に戦後に於いて無制限の消費文明をあえて是として来たのであったが、資源的に限りがある地球の上で、また汚染物質には傷つき易い地球の上で其れを行うのはまさに地球を死に至らしめる暴挙であっただろう筈だ。
其のように常に本質を問うていれば暴挙や愚行は防げよう。
逆に本質を問わず部分に繋がれて居れば暴挙でも愚行でも破壊でも何でも出て来る。
まさに何でもアリ、の状態なのである。
否応なく部分は全体から規定を受けるということ、此れも本質を見出した時に自然に導き出されて来ることだ。
其れをより具体的に云えば、人類は地球から行動の限界を定められて居てしかるべきなのである。
個々人は社会から行動の範囲の限界を定められて居てしかるべきなのである。
どうも近代の拡張主義、諸々のことを無制限に欲していこうとする姿勢には此の全体から規定されるという部分に欠けて居るような気がしてならない。
元気で自由、だから何でもできちゃうんだよー、海だって山だって全部削って作り替えちゃうんだもんね。
コンピユーターもロボットも何だってできちゃうぞー、コンピューターも今や量子コンピューターの時代でそれでもって物凄く計算がはやくなっちゃうんだぞー。
其れからリニアなども速いぞ。東京から名古屋まで40分でいけちゃうんだよー。
ーでもそもそんなに急いで一体何処へ行くというのだ?
俺なんぞはいつものそりのそりの亀さんだから東京から大阪まで歩いていきたい位だよ。
東海道をずっと歩いてね、または自転車でね。
さぞや楽しいことだろうね、其の旅は。
其の楽しいということこそが大事だ。
人生はビジネスばかりでは身が持たぬ。
だから人生には余裕が大事なんだ。
時間的な余裕と精神的な余裕の双方が必要である。
ゆとりを持つことと、ギンギンに攻めることの、其の両方が必要である。
近代は余裕を持たないくせに大事なところにはむしろ大きな余裕を感じて取り組んで来て仕舞って居る。
地球が危ないのは最もヤバい大きな問題であるというのに其れは見てみないふりをしつつ経済で幾ら損を出したとか何とか、兎に角いつも損得勘定ー小の問題ーの方で動いて居る。
だから大と小の捉え方、問題の認識の順序の方にそもそも誤謬が含まれて居るのだよ。
近代という思想の目の部分、其処がそもおかしいから或いは病気だから大と小が逆転していったりして仕舞うのだ。
第一PCなんぞは別に無くても結構。
俺なんぞはそのうちにネット世界から突如消え去るつもりである。
少しは真面目に詩を書く必要もあるので、或いはひょっとしたらそうなるのかもしれないねえ。ー
其の元気さというものは所謂自然な元気さ、神や佛が与えたもうた自然の因果関係の内側つまり必然の元気さなのではなしに人為的な元気さ、まさにこののべつ幕なしで節操の無い元気さ、まるで色情狂の如くに生殖期間の定められて居ないであろう元気さ、兎に角老いも若きも皆元気、元気、元気、元気でパワー全開にて突き進む。
いや、それでも本当は皆病気で、たとへば買い物依存症、ノイローゼ、うつ病、アル中、ヤク中、SEX中毒、ギャンブル依存症、マニ屋病、などなどでまともな人間というものはなかなか少ないことだろうと来て居る。
いや、この狂った近代に上記の如し病気にも罹らず生きられて居る人々こそはまともではないのでそちらの方が本当は程よい病に罹って居り其の点では尊敬できる人々ですらある。
ちなみに私は真面目病で神経症、しかも此れは私の生涯に亘る持病で治る見込みなどは無いと来て居る。
然し自称とは云え詩人なので病気のひとつ位は持っていなければとてもそんなまともではないことなど続けて居られない。
其の真面目病を治す為にかって塾の講師を辞めてドロドロの実社会に飛び込んだのはよかったが今思うと矢張り其れは止めておけば良かったかなと思うことが屡である。
矢張り小中学生を相手にして勉強を教えて居る位が私には一番合って居たのかもしれない。
真面目病を治すには女と酒、つまりは酒色にふけるのがよろしいかとも思われ、また其れに加えてギャンブルにでも手を出して金遣いが荒くなれば自然と真面目は治る。
兎に角其れを目標として生きて居たこともあったのだったが其の真面目なのだけは結局どうしても治らんかった。
酒の方は本当は好きでー役所勤めの公務員だったオヤジが実は大酒飲みだったー昔は色々と研究しつつ飲んでいたがタバコの方が気が休まるので以降タバコの方だけを嗜むこととした。ーだからしぶといニコチン中毒者である。ー
ギャンブルはあの汗臭い男の世界の雰囲気がどうしても漂う馬券売り場へ行くことなどが苦痛で、パチンコも学生の頃は凝って毎日行っていた事もありしが其れはフィーバー台が出る前のことでそれこそまだ手打ちの機械が残っていた頃の話なのである。
其れと女にもモテなかった。
ところが私はブ男では無くむしろ美男の方なのである。
尤も背は高くはなくスタイルの方も美しいとは言えないが二十代の頃は良く人にそう云われたりして居たものだ。
要するに私はそうした歓楽の世界に身を浸す生き方に価値を見出すことよりも観念の世界を磨いていくことにより大きな喜びを感じつつこれまで生きて来たのである。
さて話を元に戻そう。
近代に於ける人間の元気さは病的なものなのではないだろうかという疑いがどうしても私には残る。
確かに人間はずっと兎に角元気だ。
欲望の世紀とも語られし先の二十世紀には世界大戦を二度も経験しその他諸に激動の嵐が吹き荒れたりもしたが結局人間社会はより元気になりより勢力を広げ今世紀に突入して来て居る。
私には其れが何でなのかということが一番分からない点なのであった。
何故其の病気のように見える文明が自己矛盾性に潰されて仕舞わないのであろうか?
其れが最近になりようやく分かって来た。
自己矛盾性の拡大が一時期停滞して居たのだ。
丁度地球温暖化の熱を今深海領域が吸収して居て実質的には海洋の表面温度が上昇して居ないという事実と同じで、かの欲望の世紀に於ける人類の自己矛盾性の拡大は今文明の底部ー暗部ーに貯まりつつあり実質上は何も起こって居ないように見える、何も変わって居ないように見える、前世紀と今世紀とでは。
ところが其の沈潜しつつある問題がやがて巨大な問題と化して表面化するのだ。
まるで大火山の噴火でもあるかのように噴出するのだ。
其れが自己矛盾性の大噴出である。ーキャー、恐いー
其の矛盾が微に入り細に入り、あらゆる制度、あらゆる価値、あらゆる概念にまで拡張され其処ではもはや人類は身動きひとつすらとれなくなることだろう。
それでも人類は愚行を止めない。
何故なら問題を問題として捉えて来ては居ないからである。
問題とは事の本質のことであるというのであるのに、現在の文明にとっての問題とはすべからく矮小化され其処で謂わば視野狭窄に陥って居る。
其処ではつまり其の問題自体が皆小さい。
小問題を大問題であるかの如く勘違いをして仕舞って居る。
本当はデカい問題の部分から小問題の意味を問うていかなくてはならない筈であるのに、小問題を大問題化して捉え逆に大問題は放置するに任せて来て居たのだ。
其処ではつまりベクトルが違う。
小問題は大問題のあり方により規定されるべき問題である。
たとえば近代が奉じる重要な思想である人権や自由や平等といった概念は無制限に小の問題として人類に与えられるべきではないのである。
其れは自然との関係性から導き出される成長の限界、人間の生活のレヴェルの限界などといったことを鑑みた上で本来与えられなければならなかった概念なのである。
また物的な価値についても全く其れと同じことが言える。
近代は特に戦後に於いて無制限の消費文明をあえて是として来たのであったが、資源的に限りがある地球の上で、また汚染物質には傷つき易い地球の上で其れを行うのはまさに地球を死に至らしめる暴挙であっただろう筈だ。
其のように常に本質を問うていれば暴挙や愚行は防げよう。
逆に本質を問わず部分に繋がれて居れば暴挙でも愚行でも破壊でも何でも出て来る。
まさに何でもアリ、の状態なのである。
否応なく部分は全体から規定を受けるということ、此れも本質を見出した時に自然に導き出されて来ることだ。
其れをより具体的に云えば、人類は地球から行動の限界を定められて居てしかるべきなのである。
個々人は社会から行動の範囲の限界を定められて居てしかるべきなのである。
どうも近代の拡張主義、諸々のことを無制限に欲していこうとする姿勢には此の全体から規定されるという部分に欠けて居るような気がしてならない。
元気で自由、だから何でもできちゃうんだよー、海だって山だって全部削って作り替えちゃうんだもんね。
コンピユーターもロボットも何だってできちゃうぞー、コンピューターも今や量子コンピューターの時代でそれでもって物凄く計算がはやくなっちゃうんだぞー。
其れからリニアなども速いぞ。東京から名古屋まで40分でいけちゃうんだよー。
ーでもそもそんなに急いで一体何処へ行くというのだ?
俺なんぞはいつものそりのそりの亀さんだから東京から大阪まで歩いていきたい位だよ。
東海道をずっと歩いてね、または自転車でね。
さぞや楽しいことだろうね、其の旅は。
其の楽しいということこそが大事だ。
人生はビジネスばかりでは身が持たぬ。
だから人生には余裕が大事なんだ。
時間的な余裕と精神的な余裕の双方が必要である。
ゆとりを持つことと、ギンギンに攻めることの、其の両方が必要である。
近代は余裕を持たないくせに大事なところにはむしろ大きな余裕を感じて取り組んで来て仕舞って居る。
地球が危ないのは最もヤバい大きな問題であるというのに其れは見てみないふりをしつつ経済で幾ら損を出したとか何とか、兎に角いつも損得勘定ー小の問題ーの方で動いて居る。
だから大と小の捉え方、問題の認識の順序の方にそもそも誤謬が含まれて居るのだよ。
近代という思想の目の部分、其処がそもおかしいから或いは病気だから大と小が逆転していったりして仕舞うのだ。
第一PCなんぞは別に無くても結構。
俺なんぞはそのうちにネット世界から突如消え去るつもりである。
少しは真面目に詩を書く必要もあるので、或いはひょっとしたらそうなるのかもしれないねえ。ー