昨日所用ー研修ーで市の中心部へ出かけた我は、昼休みに丸善へ寄り一冊の本を求めて来た。
而して帰りの地下鉄の車内で其の本を読み我は驚いた。
何故なら其処には私の考え方とほとんど同じものが細かく書かれて居たからなのである。
其の本の題名は「本質をつかむ思考法」というものだ。
著者は伊藤 真氏で此の方は日弁連の副本部長でもある弁護士さんで私とは同年代の方である。
また司法試験の為の塾の方も運営されて居り、其処で伊藤メソッドという革新的な勉強法を提唱された方でもあり、其れにより全国トップクラスの司法試験合格者実績を誇って居るのだという。
ちなみに私は法学部の出身者ですが元々法律にはほとんど興味が無い。
よって司法試験の世界とは無縁である。
大学に居た頃は哲学的な思考ないしは文学の世界の方が好きでそういうのを自分で勉強して居て、法律はただ単位を取るために勉強したのみである。
ところが意外に理路整然と考える方なのでこれはどう見ても法解釈に於ける整合性には厳密かつ厳格な部分が求められることからの影響であると考えざるを得ない。
尚法学部の出身者として有名な作家に三島 由紀夫氏が居るが彼の文体なども緻密で兎に角ビシッとして居る。
其れがまた何で右翼思想に走り自衛隊に突っ込んで腹を切ることになるのかということになるが、いや、彼は充分に厳密かつ厳格であり其れは何に対してそうだったのかと云えば己の観念性に対して最後までそうだったのである。
ただし其の観念性、理路整然としたところは理科系の方々が得意な筈の数的な秩序の世界とはまた異なるものなのである。
何故なら私には数学というものがまるで分からん、ひょっとすれば嫌いではないのかもしれぬが元々生理的に理解出来ない世界のことなので私の場合にはあくまで触らない方が良い世界のことなのであろう。
ちなみに今度ノーベル賞を受賞された中村氏は学生の頃社会科や国語が全く不得意だったそうですが、私は其の真逆で社会科や現代国語をかって塾で教えて居りました。
だから社会科や国語はちゃんと勉強しておくべきものなのですよ。
其れこそが大事な学科である。
考える力をつける為には必須の科目である。
逆に考える力をつけずに現実をより豊かに生きたいと願うなら科学技術上の成果が得られる理数系の方へ進めば宜しい。
ただし、其れでは決して全体を幅広く見通せるようにはならない。
理数系の力というものは所詮はそうしたもののことです。
其れは世の中を分解して見て、其処から得られた法則性に重きを置くことだろう一種の視野狭窄の世界のことである。
人文、社会科学系の心があれば、或は厳密な観念性でもって冷静に地球を観察することだろう法の上での魂があれば、原爆を作ればいつかは其れが人類に対 して使用されること位は分かるのだしまた原発の方の危険性位はむしろ誰だって分かる。
そうした本当に危険なものを、人類にとって至極ヤバい領域のものを、進歩という思想ー一見スマートな概念のようで居て実は至極異常な思想、倒錯思想のことーと結託した数学思考、科学思考、搾取思考、非人間的短絡思考でもって括っていこうとすること自体に大きな矛盾と無理がある。
其の大元も大元、大根本の根の部分にこそ人類の自己矛盾性は極限的に突き詰められて来て居るのである。
だからこそこれからも火山の大噴火や大地震の発生、人類の精神性の崩壊、つまりは内面性の危機などにつきもはや誰も対処する術を持たない。
確かに宗教は其れ等の危機に備える為のひとつの大きな方策であった。
然しニーチェの語ったが如くに近代に至って神は死んだのである。
サア、我々は今後どうなっていくのであろうか、刹那の享楽に身を浸して、つまりは飽食と盗撮と物欲とカネ欲しい病とに苛まれ、其処へもってして大噴火だの大地震だの大飢饉だのが勃発した場合に果たして其れに耐え切れるのであろうか。
いや、耐え切れないのでこうして皆が考えて来て居る訳なのであり、ただし自然科学系の短絡思考は其の問題の解決には何の役にも立ちまへん、其れはむしろ今後の人類を追い込んでいくものでさえある。
その通り、決して良くはならないんだよ、其れは人間が頭の中で考えるだろう欲しいものばかりをただ無限に追い求めていくことのみに過ぎないんだ。
ではどうしたら良いのだろうか、其の危機の到来に対して、またまた想定外ですよーなどと喚きつつただ滅んでいくばかりなのであろうか。
そりゃ欲しいものばかりを求めないという思考、其れにこそ尽きて居ることだろう。
而してこれぞ仏教、ないしは老子、もしくは加島 祥造先生の思想の根幹の部分である。
ー加島 祥造先生は私が敬愛してやまない現代詩人である。長野県の伊那谷に独居して居られる。ー
或いは欲しいものを限定する。
何故なら我々存在はそも限定されしものである。
限定されしものだけが此の世に出てて来て居る。
其の限定されし存在が、何故無限の享楽ばかりを求めたがるのだ?
また何故人類の無限の可能性ばかりに拘る必要があるのだ?
全く進歩、進歩とうるさいわ。
まったく鬱陶しいのだ、其の近代の短絡思想そのものが。
進歩なんか無くても人間は幾らでも幸福に暮らせる。
かのブータンを見よ、国家として自らの欲望を抑え国民は皆幸せだ。
勿論宗教も大事にして来て居り人心も安定して居て内面が豊かだ。
人間にとっての本質とは何か?
問題は其れに尽きて居る。
利益の追求、利便性や快適さの追求は本質への道では無い。
近代型の思考が求めるあらゆるものは逆に本質を見えなくして居る。
本質とは常に厳しいものだ。
世間とは逆のものを見つめていかなければならないという意味に於いても。
本質は全体である。
全体が本質である。
近代は本質であり全体である何かを完全に見失って仕舞った。
見失わせたのは、大きな欲望に捉えられて仕舞ったからである。
だから其の大きな欲望を持ち過ぎたことへの報いをやがては受ける。
神の怒りだの、佛の戒めだの、そうした表現は使いたくはない。
でも其れは必ずや起きる。
自然の摂理に背いたことへのしっぺ返しを受ける。
破滅の日は近い、悔い改めよ、などとはまるでエホバの証人の人ーあの、そう書かれたプラカードを持って正月三が日に神社の横などに立って居る方々のことーのようではあるが矢張り其れは正しかったのである。
其の点でも宗教から発せられしメッセージを決して軽んじてはならない。
其のように宗教とは事の本質を対象とする何かである。
対して近代の思想とは事の本質をあえて見ないところでの何かである。
我々は何故後者に身を委ねて生きて来たのだろう。
何故其のような過ちを犯して来たのだろう。
其の罪とは罪刑法定主義以外での何らかの罪のことを云う。
人定法は自然の摂理に背いたことを裁く法律では元より無い。
私はかってゼミで担当の教授に良くそんなことを述べ立てて居たものだった。
多分法律が根本的に分かって居ないことからこそそんなことを言って居たのだろう。
ところが教授はそんな私の戯言に付き合って何らかのコメントを発して呉れたりもした。
全く良く付き合って呉れたものだ。
反対のことを言う奴、場違いなことをいう奴、その場での空気を読まずにむしろ壊す奴の価値を近代はむしろ学んでいくべきなのである。
そして其れと同じようなことを、伊藤 真氏は先の著書の中で述べられて居る。
それと日本人の場合は特に其の事を学んでいくべきなのである。
何故なら此処日本ほど同じことを言い、場に合わせ空気を読んで行動しなければならない国もまたない。
だがむしろその故に考える力が育まれることがない。
官僚になるほどのインテリでも、いやインテリ官僚だからこそ真に考えるということの訓練が其処に積まれては居ない。
考える力とは一人で考える力のこと。
沈思し黙考する力こそが真の考える力である。
だから其れは内面の力なのである。
内面の力は藝術だの、哲学だの、文学だの、宗教だの、そうした実にややこしい、ゴチャゴチャした、鬱陶しいものの集積の中からこそ生まれて来る。
だからこそちゃんとした文学に親しもう。
ゆえに漫画などは余り読まない方がよろしいのだしTVなどもNHK以外は視ない方が白痴化しなくなるので結果的にはより望ましい。
其れはあの三輪 明宏氏-好きで、公演などを屡観に行くーがちゃんとした藝術に親しまないとちゃんとした文化的な人間にはなれないと云われて居ることと同じだろうことの筈だ。
而して帰りの地下鉄の車内で其の本を読み我は驚いた。
何故なら其処には私の考え方とほとんど同じものが細かく書かれて居たからなのである。
其の本の題名は「本質をつかむ思考法」というものだ。
著者は伊藤 真氏で此の方は日弁連の副本部長でもある弁護士さんで私とは同年代の方である。
また司法試験の為の塾の方も運営されて居り、其処で伊藤メソッドという革新的な勉強法を提唱された方でもあり、其れにより全国トップクラスの司法試験合格者実績を誇って居るのだという。
ちなみに私は法学部の出身者ですが元々法律にはほとんど興味が無い。
よって司法試験の世界とは無縁である。
大学に居た頃は哲学的な思考ないしは文学の世界の方が好きでそういうのを自分で勉強して居て、法律はただ単位を取るために勉強したのみである。
ところが意外に理路整然と考える方なのでこれはどう見ても法解釈に於ける整合性には厳密かつ厳格な部分が求められることからの影響であると考えざるを得ない。
尚法学部の出身者として有名な作家に三島 由紀夫氏が居るが彼の文体なども緻密で兎に角ビシッとして居る。
其れがまた何で右翼思想に走り自衛隊に突っ込んで腹を切ることになるのかということになるが、いや、彼は充分に厳密かつ厳格であり其れは何に対してそうだったのかと云えば己の観念性に対して最後までそうだったのである。
ただし其の観念性、理路整然としたところは理科系の方々が得意な筈の数的な秩序の世界とはまた異なるものなのである。
何故なら私には数学というものがまるで分からん、ひょっとすれば嫌いではないのかもしれぬが元々生理的に理解出来ない世界のことなので私の場合にはあくまで触らない方が良い世界のことなのであろう。
ちなみに今度ノーベル賞を受賞された中村氏は学生の頃社会科や国語が全く不得意だったそうですが、私は其の真逆で社会科や現代国語をかって塾で教えて居りました。
だから社会科や国語はちゃんと勉強しておくべきものなのですよ。
其れこそが大事な学科である。
考える力をつける為には必須の科目である。
逆に考える力をつけずに現実をより豊かに生きたいと願うなら科学技術上の成果が得られる理数系の方へ進めば宜しい。
ただし、其れでは決して全体を幅広く見通せるようにはならない。
理数系の力というものは所詮はそうしたもののことです。
其れは世の中を分解して見て、其処から得られた法則性に重きを置くことだろう一種の視野狭窄の世界のことである。
人文、社会科学系の心があれば、或は厳密な観念性でもって冷静に地球を観察することだろう法の上での魂があれば、原爆を作ればいつかは其れが人類に対 して使用されること位は分かるのだしまた原発の方の危険性位はむしろ誰だって分かる。
そうした本当に危険なものを、人類にとって至極ヤバい領域のものを、進歩という思想ー一見スマートな概念のようで居て実は至極異常な思想、倒錯思想のことーと結託した数学思考、科学思考、搾取思考、非人間的短絡思考でもって括っていこうとすること自体に大きな矛盾と無理がある。
其の大元も大元、大根本の根の部分にこそ人類の自己矛盾性は極限的に突き詰められて来て居るのである。
だからこそこれからも火山の大噴火や大地震の発生、人類の精神性の崩壊、つまりは内面性の危機などにつきもはや誰も対処する術を持たない。
確かに宗教は其れ等の危機に備える為のひとつの大きな方策であった。
然しニーチェの語ったが如くに近代に至って神は死んだのである。
サア、我々は今後どうなっていくのであろうか、刹那の享楽に身を浸して、つまりは飽食と盗撮と物欲とカネ欲しい病とに苛まれ、其処へもってして大噴火だの大地震だの大飢饉だのが勃発した場合に果たして其れに耐え切れるのであろうか。
いや、耐え切れないのでこうして皆が考えて来て居る訳なのであり、ただし自然科学系の短絡思考は其の問題の解決には何の役にも立ちまへん、其れはむしろ今後の人類を追い込んでいくものでさえある。
その通り、決して良くはならないんだよ、其れは人間が頭の中で考えるだろう欲しいものばかりをただ無限に追い求めていくことのみに過ぎないんだ。
ではどうしたら良いのだろうか、其の危機の到来に対して、またまた想定外ですよーなどと喚きつつただ滅んでいくばかりなのであろうか。
そりゃ欲しいものばかりを求めないという思考、其れにこそ尽きて居ることだろう。
而してこれぞ仏教、ないしは老子、もしくは加島 祥造先生の思想の根幹の部分である。
ー加島 祥造先生は私が敬愛してやまない現代詩人である。長野県の伊那谷に独居して居られる。ー
或いは欲しいものを限定する。
何故なら我々存在はそも限定されしものである。
限定されしものだけが此の世に出てて来て居る。
其の限定されし存在が、何故無限の享楽ばかりを求めたがるのだ?
また何故人類の無限の可能性ばかりに拘る必要があるのだ?
全く進歩、進歩とうるさいわ。
まったく鬱陶しいのだ、其の近代の短絡思想そのものが。
進歩なんか無くても人間は幾らでも幸福に暮らせる。
かのブータンを見よ、国家として自らの欲望を抑え国民は皆幸せだ。
勿論宗教も大事にして来て居り人心も安定して居て内面が豊かだ。
人間にとっての本質とは何か?
問題は其れに尽きて居る。
利益の追求、利便性や快適さの追求は本質への道では無い。
近代型の思考が求めるあらゆるものは逆に本質を見えなくして居る。
本質とは常に厳しいものだ。
世間とは逆のものを見つめていかなければならないという意味に於いても。
本質は全体である。
全体が本質である。
近代は本質であり全体である何かを完全に見失って仕舞った。
見失わせたのは、大きな欲望に捉えられて仕舞ったからである。
だから其の大きな欲望を持ち過ぎたことへの報いをやがては受ける。
神の怒りだの、佛の戒めだの、そうした表現は使いたくはない。
でも其れは必ずや起きる。
自然の摂理に背いたことへのしっぺ返しを受ける。
破滅の日は近い、悔い改めよ、などとはまるでエホバの証人の人ーあの、そう書かれたプラカードを持って正月三が日に神社の横などに立って居る方々のことーのようではあるが矢張り其れは正しかったのである。
其の点でも宗教から発せられしメッセージを決して軽んじてはならない。
其のように宗教とは事の本質を対象とする何かである。
対して近代の思想とは事の本質をあえて見ないところでの何かである。
我々は何故後者に身を委ねて生きて来たのだろう。
何故其のような過ちを犯して来たのだろう。
其の罪とは罪刑法定主義以外での何らかの罪のことを云う。
人定法は自然の摂理に背いたことを裁く法律では元より無い。
私はかってゼミで担当の教授に良くそんなことを述べ立てて居たものだった。
多分法律が根本的に分かって居ないことからこそそんなことを言って居たのだろう。
ところが教授はそんな私の戯言に付き合って何らかのコメントを発して呉れたりもした。
全く良く付き合って呉れたものだ。
反対のことを言う奴、場違いなことをいう奴、その場での空気を読まずにむしろ壊す奴の価値を近代はむしろ学んでいくべきなのである。
そして其れと同じようなことを、伊藤 真氏は先の著書の中で述べられて居る。
それと日本人の場合は特に其の事を学んでいくべきなのである。
何故なら此処日本ほど同じことを言い、場に合わせ空気を読んで行動しなければならない国もまたない。
だがむしろその故に考える力が育まれることがない。
官僚になるほどのインテリでも、いやインテリ官僚だからこそ真に考えるということの訓練が其処に積まれては居ない。
考える力とは一人で考える力のこと。
沈思し黙考する力こそが真の考える力である。
だから其れは内面の力なのである。
内面の力は藝術だの、哲学だの、文学だの、宗教だの、そうした実にややこしい、ゴチャゴチャした、鬱陶しいものの集積の中からこそ生まれて来る。
だからこそちゃんとした文学に親しもう。
ゆえに漫画などは余り読まない方がよろしいのだしTVなどもNHK以外は視ない方が白痴化しなくなるので結果的にはより望ましい。
其れはあの三輪 明宏氏-好きで、公演などを屡観に行くーがちゃんとした藝術に親しまないとちゃんとした文化的な人間にはなれないと云われて居ることと同じだろうことの筈だ。