目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

世界連邦政府の実現の是非


世界連邦政府の実現を求めた著名人の言葉


人類の全体的破滅はむしろ必至のことであり、だからこそ我々人類は残された其の貴重な時間を何の為に費やすべきなのかという其の一点につきわたくしは書き連ねて来て居る。

つまるところ、何を見ても何を考えてももはやダメである。
人間はもはや救われないところにさしかかって居り人間自身で人間を救うことなど到底出来ずましてや神仏でさえ其れが不可能である。


ただし重要なことはこの不可能の檻の中に閉じ込められ極悪罪人化して居ることだろう我々の心をどう変えていけば良いのかということに尽きて居よう。
つまり其の罪を如何にして自覚するかということにかかって居る。


罪と言うと何やらキリスト教の世界のようでもあろうが、無論のこと仏教に於いても其れに近い概念が無い訳では無く其れが即ち無明のことであり即ち煩悩への執着の世界のことである。

人間は最終的にはこの宗教的な次元に於いて自らの心を清めていかなければ決して救われることなどはない。



元より誰も救ってなどは呉れぬので、自ら其れを希求して心を浄化していかねばならぬのだ。

もっともあくまでキリスト教の世界に於いては神を信じる代わりに自らが救われるのである。

対して仏教では自らが心の革命を成し遂げることにより自分で自分を救うのである。
ー浄土宗、日蓮宗などの所謂大乗の新興仏教に見られるが如き救済仏教は純粋な仏教では無くむしろキリスト教に近いものである。つまりは似非仏教とでも言うべきもの。ー



其の様に宗教とは自他の区別に関わらず人間自身をこの地獄から救い出す為の教えであり考えなのであった。


従って宗教は精神の分野での人間の良識の部分をこそ指し示すものだ。

対して宗教に縁することなく即物的に生きて居るであろうあらゆる俗界の様は其の良識を欠くことだろう悪の行為であり概念そのものである。



だから宗教とは選択の問題ではないのだ。

謂わば其れは絶対の必要悪なのである。

元々人間の穢れて居る部分が甚大なので、まさに其処で宗教でもやらないと其の悪に染まり切り短期間で人類は破滅の坂を転げ落ちていくことだろう。




さて人類を代表するかのような知識人や文化人の方々は先に示したようにまさに大きなことがお好きであるようだ。

そうそうたる方々、碩学の方々が揃いも揃って皆世界連邦政府の樹立が是非必要だなどと仰る。


しかしながら我ー常にひとりぼっちでバカの自称詩人ーはそういうのを認めない。

中でも尊敬する哲学者の梅原 猛先生にはまことに申し訳ないのではありますがわたくしはそうした拡張主義は逆に滅びへの道そのものだと考えて来て居るのである。

何故なら近代そのものがそうした拡張主義であり拡大主義である何ものかであり、またそのことにより人間が本質的に幸福になれた訳でもなかったからなのだ。



逆に人間の幸福はむしろ小さいところにこそ存していよう。
大ではなく小なのであり、かつ大きな理性ではなく理性と本能との小規模なバランスなのであり、さらに言えば人権だの自由だのと叫び始める前の諸権利と義務との小さな均衡なのである。


ついでにもっと言えば色情狂になる以前のノーマルなSEXこそが望ましく、道徳と倫理が破壊される前の利益の追求つまりは欲望と精神の小規模で適切な関係こそが望ましい。

合理主義による人間の可能性の無限の拡張は逆に人間の可能性を閉ざし続けて来ても居る。

我々は今逆にあらゆる可能性を閉ざされし虜囚の如き状況にある。



従って我は今叫ぶ。

この言葉にて叫ぶ。

大では無く小の領域の方にこそ幸せはあるのだと。



さてそうとは言え人間が何か大きなものを求め、しかも其の大きなものを求めたことで生じた矛盾をさらに大きなもので解決しようとすること自体は不可解なことでも何でもない。

そうすることでしか人間は自らを規定していけないのである。

そういうのが人間の性、本能だということなのである。



だが大きな次元では人間は逆に本能領域から離れていくべきなのである。

限りなく本能を抑え、其の精神の方向性を拡張から鎮静の方向へとシフトしていかねばならない。

其処では動ではなく静であることが要求され、積極的ではなく消極性こそが価値化されるのである。


儲けは、そして諸の技術開発は、そしてフリーセックスや限りない人権や自由の希求は、本来ならば人間存在が持つ叡知にて全て抑制していかなければならない。

叡知とは知識のことではない。

ましてや金持ちだということでもない。

地位でもなく肩書でもなくどんな力の論理でもない。



其れは世を憂う怒りの感情、義憤としての清貧の思想のただ中にこそ存して居る。



よって世界連邦政府の実現とはむしろ其れこそが絵空事であり逆に人類をまたは人間の社会を追い詰めることだろう駆動力となって仕舞うことである。

わたくしの哲学ではそうした状況が現出するのは必然であり、必然だからこそ其れは自己矛盾過程となるのである。



従って鎮めること、或は求めないこと、+思考ではなく-思考であること、こうした逆向きの要素こそが人類の今を清め文明を存続させていく為の根本の原理となしていくべきことだ。

もっとも存続とは言っても文明はそう長くは存続することが出来ない。



以前からも述べているやうに、近代以降の文明とは謂わば正の文明ではないのである。

まさに其れは負の文明であろう。

負の文明は様々な負を、微に入り細に入りまさに様々な負の要素を内外に撒き散らしつつ歩んでいくものなのだ。



善悪で言えば勿論悪の文明である。

まさに悪趣がタップリの倒錯の文明であることこそが此の我々が奉じて来し近代以降の文明の真の姿であろう。


其の悪とは、煎じ詰めれば欲望のことである。

欲望が近代以降の文明を形作り、また其の欲望の大きさに抗し切れぬ形で環境も社会も精神も全てが破壊され尽くされていく。




ゆえにまずはこの過分な欲望を抑えよ。

無論のこと全部は抑えられないので部分的に抑えるということである。



我の場合は、あらゆる世俗的な栄達や女に対するあらゆる欲、それから死んでから良いところへ行きたいと願って居る欲などをもはや完全に葬り去って来て居る。

が、その代わりにたとえば筆記具など限定的に生じる物質欲やある種屈折した意味での自己保存欲、表現欲などはむしろ非常に強く保ち続けて来て居る。

だが其れも次第に滅却する方向へと向かざるを得ないことであろう。



なので結局全てが限定的に存して居るということである。

人間は限定されし存在としてこの限定の時代である現代といふ時代を生きる。

其処にはどんな実の価値も無く、ましてや永遠に其れが続き我々が長生き出来るという訳でも勿論ない。

近代以降はむしろ人間自体の寿命を縮め続けて来たと言えることだろう。

個としての長寿化と引き換えにして時代としての寿命を限りなく縮めて来たのだ。



其処で欲望の持ち方が肥大化した分、近代以降の文明の持続可能性は著しく減少するに及んだ。

つまり欲望の持ち方が悪かっただけのことなのである。



金の斧と銀の斧のどちらが良いかと問えば其れは誰しも金の斧の方をつい追い求めて仕舞うのではあるが、其処で少しだけ欲を抑えておけば本当は末永く銀の斧を与えられ仕事が出来たのであった。

いや本当は銅の斧の方がより実用的で欲望を抑えて居るかのようにも見受けられる。

だから銅の斧を基調とし其れでもってたまにはよりゼイタクな時間の為に銀の斧も求めるといふ位で丁度良かったのである。



ところが何でも金!何が何でも金!というのが近代以降の合理的思考の根本原理となってしもうた。

兎に角誰しも何でも一番になりたがる。

一番になるということはカンタンには否定出来ないことながら、国情が極めて悪いのにあえて大金をかけオリムピックをやりスポーツ狂いのアホ共に金のメタルを呉れてやるというのは実際如何なものだろうか。



金のメタルの数が国の威信、国威発揚の象徴だなんて全く何て幼稚なんだ、国家といふ力の論理の頭の中身は。

全くアホもこれ位に徹底して来るとむしろ見上げたものよ。

芥川龍之介が胸に勲章を沢山貼り付けて喜んで居る軍人の頭の中身そのものが稚拙だと手厳しく揶揄していたことがありしが、こうして人間の愚挙にまみえる限りはまさに其の通りのことなのであろう。



人間の愚かさはかように果てしなき砂丘の如くである。

茫漠たる熱砂の上に築かれし強固な欲でもってして我々愚かな人間は不毛の時代をただ突き進んでいくのである。




他方で世界連邦政府の実現とは人類は皆兄弟、皆が平等と説く究極の左派思想と考えられなくもないものである。

だが現実的には其の理念の実現は不可能なのである。


人間には可能なことと不可能なことがあり、其れはそれぞれの階層に応じ厳然として存在していよう。

社会レヴェルで可能なこと、個人レヴェルで可能なこと、などというように全てが其の様な分に応じて可能な行為の幅を持たされて居るのだ。




だからそうした小さいことの積み重ね、小さい部分での積み重ねといった部分こそが大事なのかもしれない。

文字通り其れこそが大事だ、最も大きいことなのである。



たとえば禅宗では日常の細かな行いの中にこそ悟りへの契機があると捉え掃除することや食事をすることは須らく修行の重要な要素として位置づけられて来て居る。

だから其れらを決しておそそかにすることは出来ない。


掃除こそが仏であり修行であり、かつ食事こそが仏であり修行である。

即ち其処では小事が大事に繋がり、相即して其処に是か非かという基準をつくり上げていくのである。

しかも其れはあくまで仏に対する是か非かということである。



よって仏法の中には、世界を破壊に導くような要素がそも存在して居ない。

世界を破壊に導くような合理的な世界観である現代の文明を形作る悪の小事の積み重ねがそも其処には存して居ない。



いや、悪の大事の積み重ねこそがこの破壊、本質的かつ全的な破壊を齎して居るのだ。

だから文明の上でのグローバルな結託はむしろどんなに立派に見えるものであれ其れを阻止すべきなのである。


逆に限定である人間と限定である文明の本質に気付くことこそが大事だ。

限定という本質を見極めた時にこそ人間は真の意味で謙虚になれる。


近代という枠の破壊、人間の欲の追求の世紀は畢竟この謙虚さを失っていく過程でもあった訳だ。

其処で限度を知らぬ強欲、限度を知らぬ知の流れこそが世界の破壊を推進させて居ると見るべきだろう。


謂わば


大ではなく小

拡張ではなく縮小

過分ではなく抑制

正ではなく負


などの側面を見つめ続けていくことこそが今我々の為すべき全てのことなのだ。





ゆえに

まず

求めない

そして

拡げない

そして

限度を知る



諸権利は

そして自由は

そも限定であると

其処で知ること


SEXは下品であると

そう悟ること


世界はひとつではなく

この町内だけで沢山だと

そう知ること


海の向こうには

希望などなく

今ここにだけ

全ての希望がある


たとえば食べることと

掃除することが

最も大事である


瞑想することと同じ位に

多分大事だ



小さなことに

心を込める


求め過ぎると

其れが出来ない


大きく考えても

出来ることは常に小さい


金のメタルは

どこにもない


銀のメタルも

本当はない


金のメタルは要らず

銅のメタルでさえもう要らない


そんなメタルを用意せずとも

ちゃんと神仏はメタルを用意して下さって居る


自己矛盾という檻の中に

こうして誤って感受される

己という名の負のメタルを