具象的對象物にも精神的作用は含まれ且つ抽象的對象物にも物質的作用は含まれるー「緑起」より説き起こされる因果関係論ー
結果として「欲望」こそがニンゲンをして突き動かす。
故にコノ世界とはまさにそんな欲望世界です。
しかしながら御釈迦様やイイエス様がまた哲學者のショーぺンハウアーがさらに現代詩人の加島 祥造先生がかってソレとは違う価値観を示された。
さらに言えば哲學者のカントは「理性」の働きにより自ずとニンゲンは何とかなるとさう述べたのじゃった。
さりながらいかんせん「社會」のあり方が常に惡いのでもおこんな人類はすでに滅亡の淵に立たされとる。
いやあけれども困ったものよのう。
はあー困ったものよのうこんなニンゲンの社會は!
もう即ニンゲンを辞めて呉れい!!
其はああ其こそはコノノブナガ詩人の切なる願いぞ。
さて御釈迦様やイイエス様がまた哲學者のショーぺンハウアーがさらに現代詩人の加島 祥造先生が述べられし「求めない」世界観とは全てが極めて「理性的」な精神の埸のこととなる。
でも「求めない」と實は動けなくなる。
つまりが「やらない」とコノ世界そのものが回りませぬ。
なので解脱=正悟では無い神の方ではむしろ「やる」のです。
むしろやってやってやりまくり全てをブチ壊すことでしか「終わり」を迎えられぬ。
さう全てをブチ壊すやうに観られてもニンゲンの不完全性によりソレが完壁にはやれぬので世はまた再生されやう。
おおまさに其こそが「神道」による再生観なのか。
またクリスト教の場合には次元を超越する形で「神の國」が再生される。
いずれにせよ宗教思想はさう弎分割される。
ソノ点に鑑みても宗教思想もまた矛盾的推進を免れるものでは無い。
さてもソノ宗教思想により我我ニンゲンがコノ世に生きる苦しみが減ぜられるのでは?
宗教思想に頼るかそれとも自律自制して行くかと云うことは實存に取りまた大きな選択とならうが結局どちらでも構わないのではなからうか。
そんな訳で先の3月12日に八事山興正寺を訪れ宗教的現實(實存的宗教性)を生きて参りました。
1.釈迦の御眞骨への御挨拶
2.大日堂での祈り
3.かに本家
されど前日の3月11日に「ゴッホ展」へ行きましたので疲勞が有りイマイチ興正寺での散策を樂しめず。
さてもソノ3.のかに本家とは何ですか?
「かに本家」とは「かにの太巻き寿し」をワタシがごくたまに求める店のことでなんと興正寺のスグ横に有ります。
されどソノ「かにの太巻き寿し」が今や弐千円も致すのです。(千五百円〜千八百円〜弐千円とダンダン値が上がり申した)
故になかなか買えぬ。
結果としてコノ日はソレを求めに行きましたが何と15時〜17時は休憩中とのことでもう早う家に帰った。
でもまた出直します。
また相不變食欲が御有りのやうで?
ほいワタシから「食欲」を抜いたらもうタダの抜けガラです。
じゃあ今日もまた何ぞ美味いモノを食されたので?
うん今日はカレー煮込みを食いました。
ソノカレー煮込みとは、
4.焼きソバ
5.うどん
6.フランスパン
7.スギ藥局のリーフのサラダ
等を自由に組み合わせ煮込むカレー料理のことぞ。
特にここしばらくは6.のカレー煮込みにコソ凝っておる。
うわあするとフランスパンをレトルトカレーに浸し煮込むのか?
ほうじゃフランスパンでもイイ物を煮込むとまーこれがサイコーにうみゃあわな。
けれどフランスパンソレ自體がドラッグストアに有りません。
例えばゴッホ展の帰リに髙級スーパーのサポーレにてねじ巻き状のフランスパンを買い込みソレをしてみたところなんと大當たり!!
流石は洋物に強いサポーレだわ。
どうでもイイが興正寺の話はどーなりました?
いやワザとさう書いております。
さうストレートで無い処がノブナガ詩人の最大の魅力です。
2.大日堂での祈り
コレは單に家族の無事を太陽神に祈るのみ。
でもほんたうは「國家や人類」の安寧安泰などを祈り願うべきだらう、何せ密教寺院なので。
だがあえてわたくしはさう社會のことを祈らぬ。
ナゼなら社會は結果すでにいかんともし難し。
故にコソ實存的価値に就き主に祈る。
でもって2月に血液検査を受けもう死ぬのかと思い保険(ライフ共済)にも入りました。
ですが3月14日に医者へ行くと單に脂物(と菓子)を食い過ぎとのことでソレもまた大したことは無い。
どだい暖房無しの生活(地球温暖化對策としての)なのでやうけ(澤山)食べ脂っ濃い體にゼヒして置かねば逆に凍死しかねん。
とのことでワタシの體はむしろ脂肪分によりさう健康に保たれておった!!
すると大日如來様が君の體を助けたのでは無いのだと?
だって大日如來様は精神的な氣休めの方で體を維持するのはあくまで食い物の方だらう。
はあさうかダカラ興正寺の話と「かにの太巻き寿し」や「カレー煮込み」の話が同列に語られるのか。
さうダカラ認識の天才は「価値ヒエラルキー」などには拘わりません。
ならばもしや大日如來様と「かにの太巻き寿し」や「カレー煮込み」に区別などは無いとさう言われんとするか。
まあソコ迄イケばほぼ狂人ですがまさにそんなもんですな。
即ち全能神の恵みがおおしかとソノ「かにの太巻き寿し」や「カレー煮込み」には注がれて居らう!
全能神?
アンタひょっとして全能神と太陽神を混同されておられぬか?
はい特に区別などして居りません。
即ち「区別せず」=拘わらず、でせう。
いいかい大事なことは「かにの太巻き寿し」や「カレー煮込み」などの具象的對象物にも精神的作用は含まれ且つ全能神や太陽神のやうな抽象的對象物にも物質的作用は含まれるとのことなのだ。
さうしてもって互いに逆方向の価値をソコに認めることで観念(精神)や肉體(物質)の限定性を解き放ち共に自律化しつまりは自由となるのだよ。
うわっ御得意の難解な哲學の方がまた出たぞ。
すると君は全能神や太陽神のやうな抽象的對象物に祈ることに意義を見い出して居ないので?
いやソノ祈り願うことは實存としての意味有る行為でせう。
問題はソコに絶對性を付与すること無く相對性を担保して置く=自律性を失わない、とのことですね。
うわまた御得意の相對論ですか。
ですがそんな相對論より「信仰」が生じ得ませうや?
生じ得るのじゃないか、ナゼナラニンゲンの限定性を解き放ち自律化せんが為には逆に申して「理性」とは逆の洗脳領域すら必要とならう。
けれども絶對的に大日如來様に御祈りするのでは無くむしろ色んなコトに氣を取られながら適度に祈って参るのだ。
例えば大日堂の周囲には所謂守り本尊が祀られておりソコを巡ると亥年生まれのワタシの守り本尊は矢張りと言うべきか「阿弥陀如來」なんである。
すぐさまソコへ五捨円玉を投げ入れる。
では1.釈迦の御眞骨への御挨拶の方はどうなりましたので?
いや釈迦の御眞骨とは言えむしろソコに最上級のヒエラルキーを与うることなくなるべくフツーに御参りすべし。
オシャカサマどーもコンニチワー、ノブナガ宗教詩人がタッタイマココへ來たよー。
オシャカサマでもかう世は乱れておりますぞ。
コレはもう末法も末法でズバリ法滅尽の世界ですぜ。
などとは言わずコノ顔ダケを哂して参った。
尤もソコが新築の「密厳堂」にて大變立派な伽藍となる。
さう流石に釈迦の御眞骨を祀るダケのことは有る。
兎に角億の金がかかっとりさうだ。
木造伽藍 高野山真言宗・興正寺 密厳堂・回廊新築・密厳堂は7間×5間の広さ、四週17.6m回廊で囲われた聖なる中庭を創りました
いやあー興正寺はまたスゲエ。
興正寺は確か眞言宗から破門されておらなんだか。
ソレもナゴヤの土地を本山には告げず勝手に売り破門されたさうな。
でも「興正寺派」との新宗派を立ち上げかうやっとるのだぞよ。
偉いぞ興正寺!!ソレぞ佛法者の鑑ぞ!
いやあーまーコトバにならん感動だわ。
それもひたすらに生き抜かうとするソノ執念たるや…。
おおまさにそのバイタリテーこそが御佛の教えの内容で無くて何なのか?
バイタリテー=ヤル氣
さうヤル氣コソがニンゲンの底力のことよのう。
だが、
ヤル氣=ニンゲンの欲望
ともまた言い得やう。
じゃあソノ「ヤル氣」はむしろ無い方がイイ?
いいやさうでは無い。
丅度飯を食わぬと動物はみな死ぬるやうに。
丅度菓子を食わぬと宗教詩人は凍死スルやうに。
つまりソノやうにむしろ欲望と禁欲を即ち「求める」のと「求めぬ」のを区別なんぞしてはならん。
即ち煩悩即菩提、よな。
よってソノ意味に於いてヤル氣=ニンゲンの欲望、の方は實存化し得る。
されどまた社會化されしヤル氣=ニンゲンの欲望、の方は實存化し得ぬ。
ソノ意味で人類の未來はヤッパリ絶望的だわい。