観念に於ける「理想」の形式とは?ー1.そんな「無し無し」地獄へと堕ちぬ為の認識とは?ーー2.文明の持続可能性を高めんが為の認識とは?ー - 目覚めよ!
是非振り返りコレを読んでみなさいと云うことですので読んでみたら可成に頭の良ささうな内容であり實に面白かった。
まあコノ人は結局頭が良い。
ですが常に金と力は無い。
またおまけに妻子も無い。
おおまるで宗教家か藝術家のやうな御仁ぞ。
さう自分には常に宗教家や藝術家の如き内面的課題がかうして突きつけられておる。
だから常にソコに住する。
ソレもまあソコに居るダケで至極疲れますが。
「美しいモノと戯れる」
さうして彼に取り大事なるコトがまさにソノコトなの。
ですがソノコトを言えばむしろ世間からはバカにされる。
だがさうじゃないむしろそんな「美」コソが全てなのだ。
さう「美」と戯れてコソの實存でアルのだぞよ。
よりにより何でソレが分らぬのか?
ああさうか鈍感だからなんだ。
たしかに例えば猫や犬などの畜生でも鈍感な奴がおる。
だからニンゲンでもまた鈍感者は居るがちゃんと前頭葉位は使いなよ。
前頭葉が機能停止するとすでに其れは「洗脳」ぞ。
では先生、宗教や藝術は「洗脳」にならない?
いやどうも「洗脳」臭い。
しかしながら藝術の場合は特に自分との心中のことですね。
「美しいモノと戯れる」
たとえばアナタは今日ドンナ「美」と戯れて居られたのか?
はい本日は「彼岸花+露草」の類稀なる景観に酔い痴れておった。
さう何と眞っ赤な彼岸花と靑い露草の花の色の響宴です。
ソレが仁所農園(市の農園)の向かい側の畑の測面に群生する形で咲いておった。
またそんなものは初めて観た。
故にまさに其こそが「詩」であり藝術です。
ええっそんなモノが藝術なのか?
さうじゃなく美術館の中の藝術作品コソが藝術なのだろ?
ダカラソノ思い込みコソがむしろ「洗脳」だぞ。
いいかい美術館の中で藝術作品だと言えるモノはむしろ壱割にも充たん。
どだい藝術作品には「實存的唯壱性」=たった壱つの個性的感性が要求されて居やう。
なのでソコがハッキり出るモノこそが眞の意味での藝術ぞ。
例えばゴッホやピカソや岡本 太郎氏などの作品は他に比べやうの無い個性を持つ。
またショパンやベートーヴェンが生み出す音は他に比類無きものとならう。
まさにさう云うのが藝術ぞ。
でも「彼岸花+露草」の景観の場合は自然の営みであるに過ぎず藝術作品とはまた違うのでは?
…馬鹿者!!
じゃからタッタ今自然派詩人が目指しておる境地のことをコソ言うておるのよ。
其コソがソノ自然の営みと藝術作品との壱致(等価性)のことなのよ。
またぞろキチガイ藝術家のやうなコトを言い始めたぞ。
まあ確かに君は表現者の中でも特に個性を強く持つ方でつまりはアクが強い。
さうアクが強いが故にイザやらうと思えば可成のコトがやれさうだが社會が惡いのでソノ才能を発揮出來ぬとさう怨んでおいでだ。
…だって社會が惡いので秋と夏が壱緒になりさう「彼岸花+露草」の景観がコノ世に現出せしめるのだから。
じゃあ社會が惡いのだとして君はナゼ革命詩人としてソレと闘わぬのだ?
いやダカラすでにココでかうして闘いましたのです。
ですがすでにモウロクし即ち足がヨタヨタです。
たとえヨタヨタでもさうして美しいモノとダケは死ぬる迄戯れ続ける。
アア其れぞ詩魂でなくて何ぞ、其れぞアガキでなくて何ぞ、其れも實存的現在に對する。
さてこのところこんな「日曜美術館」を視ておりました。
それもたまたまなのかルドンにゴッホと好きな画家が取り上げられており實に興味深く番組を視た。
ルドンやゴッホは壱級の藝術家でありつまりは眞の意味での表現者となる。
眞の意味での表現には「實存的唯壱性」が備わるものです。
即ち他とは比較出來ぬ強烈な個性を有する。
尤もソノ個性=自我意識と自然は元より別物となる。
要するに藝術に於ける美の本質とはそんな自我意識の世界への照射のこととならう。
故に當然のことながら藝術は宗教とは異なり自己を貫くことで成さしめる世界であり価値となる。
ですがむしろ藝術は外界とも交わります。
よって多くの藝術作品がむしろ自然や社會より与えられし感懐により組み上がることとなる。
要するにそんなインスピレーションにより語られるところでものなのだ。
だからほんたうのほんたうはソコに自分ばかりか神神や聖霊との交感、また人知を超えることだらう何らかの作用が有る。
とソノ辺り迄考えを進めますと藝術作品がむしろ自然の側からもたらされる価値であることが分っても來やう筈。
なのであればルドンやゴッホは要するに自然や社會から授かりし何らかのものを世に伝えるシャーマンの如き存在となる。
尚わたくし自身もまたそんなシャーマンの壱人である。
ただし主に物欲に苛まれ生涯を藝術に捧げる迄には至らなんだ。
其のことは悔いと言えば悔いながら他方で「コレでヨシ」とさう思わぬでもにゃあ。
まあですがそんな御人ですので藝術のコトを語らせたら強い。
つまりはソレが分って居るのでさう強い。
でもソレばかりか宗教のコトの方もまた強い。
ソノ宗教の分野のコトは概してより理性的です。
よって時として藝術には訳の分らん感覚的コダワリのやうなものが生じ時にはソレが暴走するに及ぶ。
アノルドンやゴッホやかのべートーヴェンはまさにそんなコダワリの専問家だらう。
また藝術家のコダワリはまずヘンクツ方向へ偏向して居るのでみんな(大衆)にはまず分らない。
例えば田中 ー村。
こんな奄美の自然へのコダワリはヘンクツ過ぎて現代人にはもはや分らず。
また我が石とペンへのコダワリはヘンクツ過ぎて現代人にはもはや分らず。
兎に角藝術とはさうマイぺースでもって自己と御託宣とを表現すること。
故に家庭でも学校でもまた會社でもにゃあ實存的価値のことなのさ。
尚藝術作品をみんなで鑑賞することは止めた方がイイ。
藝術作品の鑑賞は基本的に創る實存と観る實存のぶつかり合いのコト。
ダカラあくまでアナタと云う實存がソレをどう評価するかと云うことのみ。
ちなみに個人的にはクセの強い藝術作品コソが好みです。
オオまさにアノ岡本 太郎氏のやうな藝術作品コソが好みなのだ。